アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

女性の殉死

2024-06-12 12:45:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎それでも幸せ?

(2007-05-25)

 

明の成祖永楽帝が亡くなったその日、永楽帝と親密であった三十人あまりの宮女が庭園で豪華な昼食にあずかった。

昼食が終わると皆殿堂に案内された。殿堂には、木製の小さな寝台がずらりとならんでおり、それを見た宮女の泣く声に殿堂全体が震えたという。

宮女を寝台に立たせると、梁につながっている縄を首にかけて、役人が寝台を取り除いて縊死させたのである。

 

周の幽王の墓では百体以上の遺体が発見されているが、一体以外はすべて女性。

 

危篤の床にあった唐の武宗が、寵愛する王才人に、わしが死んだらお前はどうすると訊くと、王才人は「殿とともに九泉に参ります。」と答えたところ、すぐに首吊り用の布を与えられたので、自ら首を吊って死んだ。王才人は、後にその節操を讃えられたそうな。

 

これらは、人に厳しい中国の、それも最も苛酷な宮廷のエピソードであるが、人の幸福ということを考えるにあたってこのシチュエーションも避けては通れないテーマである。それでしあわせだったのですか?

 

当代の人間の真に求めているものを考える時にどうしても、女性の生き方の本質について考え込んでしまう。要するに女性は何をもって真に満足、納得するのかということである。こういうシチュエーションでも幸せだったといえる生き方はあるのだろうか。女性的自我の充足とは何だろうか。

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女性的自我の充足-1

2024-06-12 07:09:27 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-5

◎冥想自在-5

◎冥想自在の構造-5

◎最もあなたにふさわしい夫は与えられている

 

あまりにも常識過ぎてかえって知られていないものの一つが、本当の自分に直面し、最後は自分が大死一番を敢行し、自分と世界を棄て、絶対無(神)となる冥想修行は、男性のチャレンジであって、女性のチャレンジではないということ。

 

女性は、最愛の男性に巡り合い、恋愛の果てに、その男性の子を出産することが女性的自我の充足である。

 

このストーリーは、LGBT公認で、孤独生活者4割の時代に、とても時代遅れなことを言っていると思われるかもしれないが、人間の元型には男女の別があり、そこから導きだされる根本原則とでもいうべきものだと思う。

 

ダンテス・ダイジは、10代の頃、女性をとっかえひっかえ交際、同棲などしてセックスの何たるかを極めようとした時期があったが、それがピークとなる頃、あろうことか性的機能障害に苦しむことになった。並行して禅に取り組んでいたそんな時期、彼はインドラ神の出てくる霊夢を見た。それは、インドラ神自身がセックスをしてみせて、ダンテス・ダイジにセックスの奥義を伝授してくれるという霊夢だった。

 

その霊夢以後、彼は乱倫をやめた。性的機能障害、情感欠如も解消した。そして過去世において、中国での仙道房中術の修行、インドでの左道タントラ修行をしてきたことを思い出し、人は性愛によっても深いトランス状態に入り得ることを知った。

 

そして次のような見解を示している。

『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は必ず邪道に堕落する。

なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭・社会・世界・宇宙の中にその本来的位置を与えられたものだからであり、

それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。

 

霊的因縁の自覚は霊界の中で、本来一体である者同志の出会いを成就する。

あなたには、すでにもっともあなたにふさわしい妻、あるいは夫が与えられているのだ。』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

D.H.ロレンス、ジョルジュ・バタイユ、三島由紀夫、房中術、カーマ・スートラからインド左道密教、立川邪教までありとあらゆる性愛哲学・行法を研究し尽くした後、彼はインドラ神にその奥義を開示してもらった。

 

その彼が、性愛冥想のパートナーは不倫であってはいけないと説くのは、魂の伴侶と行うべきことだと間接的に言っている。

 

そして魂の伴侶との結婚が人生の王道であり、最愛のパートナーの子を出産することが女性的自我の充足であって、女性は必ずしも、世界全体を獲りに行かなくてもよいというニュアンスのことも言っている。

 

ただし、人生において魂の伴侶に出会うチャンスはそう何回もあるわけではないようだ。

 

冥想自在を考える上で、男女の別は結構決定的ではあると思う。

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菩薩と見仏・見神・見性

2024-06-11 03:19:26 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-4

◎冥想自在-4

◎冥想自在の構造-4

◎君子、神の子、神の生き宮、菩薩

 

菩薩は、元々は、釈迦成道以前の釈迦を指して、悟りが確定した人という意味だった。

釈迦の成道は明星望見なので、正確には見仏であるように思う。

つまり成道以前の釈迦は、未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたと考えられていたわけである。これが菩薩の原義。

 

ところが、成熟バロメーターには見仏見神を入れていない。その理由は、見仏見神後において、悪の側に戻るケースがあるからである

よって釈迦は未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたというのは、ジャータカなどの過去の無数の前生の釈迦の事績を考えれば当然と言えば当然だが、一般的とはいえない。

普通の人は、見仏見神してももとに戻るのに、いわんや未見仏で究極に対して不退転になるなどとはとても言えない。釈迦は特殊な例なのだと思う。

 

また人は、神、仏、ニルヴァーナ、宇宙意識に対して、そこから発した個としてのポジショニングがある。その本来あるべき個としての姿を、君子や、神の子、神の生き宮、菩薩と呼んで、宗派を問わず、とても大切な基本概念としてきた。

君子や、神の子、神の生き宮、菩薩は、完全人、アダムカドモンという人間の極みというニュアンスではなく、完成途中の仕掛りの人間のニュアンスである。すなわち冥想修行者である。

こうした人間について中間的位置づけがある原因は、宗教の基底には、一般に神あっての人間、人間あっての神という発想があるせいだろうと思う。

 

成熟のバロメーターには、見仏見神見性を入れてはいないが、かなりの宗派で、見仏見神見性を修行の一里塚として評価していることは無視しないほうが良いだろう。かなりの宗派で見仏見神見性した者を一人前の冥想修行者として扱っているからである。

 

一人前の冥想修行者と師に認められれば、師の指導はそれ以前のものと質が異なって来る。

華厳経に出てくる菩薩の52段階などは、いかに修行レベルとしての菩薩が重視されていたかという証左である。

 

翻って、見仏見神見性を未悟の者にとってのメルクマールと考え、別途敷衍したい。

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メリットを求めない冥想へ

2024-06-10 03:19:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-3

◎冥想自在-3

◎冥想自在の構造-3

◎無用の用への動機

 

どうすればあらゆる実感を経ることができるか。あらゆる実感を得るためには、冥想しなければならない。

 

さて冥想には、メリットを求める冥想とメリットを求めない冥想があるが、あらゆる実感を得るための冥想は、メリットを求めない冥想である。メリットを求めない冥想とは、無用の用である。        

             

無用の用には二つの次元がある。最初の次元は有の世界の中のこと。         

最初の無用の用は、物質的なことより、精神的なことに価値があるということ。つまり金や権力や地位やセックスなどより、神、仏、聖なるものの方に価値があるということ。あるいは、自分のことより他人のことに価値があるということ。

 

OSHOバグワンは、無用の用のことを、『逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし、抑揚を生み背景を創り出すプロセス』としている。           

すなわち物質的価値と精神的価値は相互に補完し合う、そして自分のメリットになることと他人のメリットになることは相互に補完し合うということ。        

これは、利己と我欲優先の生活感覚では理解しずらいかもしれないが、死がなければ生に意味がなく、逆に生がなければ、死に意味はない。        

また自分がなければ、他人や世界に意味はなく、他人や世界がなければ自分に意味がないということでわかる人がいるのではないだろうか。

これが最初の次元の無用の用の説明。       

             

最後の次元の無用の用の説明を、OSHOバグワンは、これを時間進行の尺度において、説明している。

時間は、瞬間瞬間の想念の無数の連続だが、瞬間瞬間の間に隙間が都度発生している。        

これを前提に、OSHOバグワン(Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から)は、        

ヨーガ・スートラの著者であるパタンジャリは、「世界は映画、投影にほかならない」と言う。それは、現象という動画が無数の静止画と隙間によってできているということに気づいたから。パタンジャリは、世界の現象を形成する三種のグナが何も動かないで停止しているのを見た。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマが幻影で作られていることに気がついた。

 

隙間が無(ニルヴァーナ)であって、静止画が有(アートマン)ということになるが、OSHOバグワンは、隙間の方だけが真実だとはせず、        

一つのものの表と裏であって、どちらも真実だという立場をとる。            

というのは神である自分には、主観しかない。その主観には、無も有もあるからである。

これが第二の次元の無用の用の説明。       

自分という人間は、自分が思い込んでいる自分と、神である本来の自分がある。            

自分が思い込んでいる自分は、有の相の極く一面であって、神である本来の自分は有全体である。そして神には無の面もある。                      

すべては無から出て有を経由して無に消える。現象であるアートマン(有)がニルヴァーナ(無)に晋(すす)む。             

つまり時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、        

それを超スローモーションで見たパタンジャリが、現象である〈有〉の停止に気づき、実は世界はリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。             

また現象である有(アートマン)と無(ニルヴァーナ)を並べると、一見無が無用に思えるが、有あっての無であり、無あっての有だから、これも無用の用である。             

             

人はこのように理解してメリットを求めない冥想修行に邁進していく。         

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百億の誕生と死と再生を見る

2024-06-09 06:14:05 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-2

◎冥想自在-2

◎冥想自在の構造-2

◎あらゆる実感を経るということ

 

冥想は、一般にメディテーションを指すが、ダンテス・ダイジが冥想を戯れるという場合の冥想は、その意味ではない。全知全能にしてすべてのすべてであって、なにもかもなしである神にして、みじめで情けなく、髪の毛一本白くも黒くもできない人間であるもの、それが冥想。要するに全宇宙にも過去現在未来にも、個人にも共通して存在するクンダリーニのエネルギー・コードだが、そのことを「冥想」と呼んでいる。つまり冥想とは、意識、心理、身体の総称。個も世界全体も含む総称として冥想と呼んでいる。

よって、すべてを棄てられるようになって、初めて冥想自在の入口と言える。

 

留意すべきは、現代文明はメディテーションとしての冥想のめの字もない文明だが、アトランティス文明でも冥想は意識せられていたし、アトランティス文明に先行したレムリア文明においても生活の中に冥想は息づいていた(ダンテス・ダイジ/戯れに冥想を)。現代の近代西欧文明とはまことに冥想砂漠なのだが、砂漠を花で埋め尽くすように冥想で埋め尽くさねば、次の至福千年、みろくの世、千年王国はない。

 

翻ってそれでは、どうすればすべてを棄てることができるようになるのか。

 

すべてを捨てられるためには、成熟を求められる。すなわち、あらゆる実感を経た場合にすべてを棄てられるということ。  

以前、成熟バロメーターとして以下三種を挙げた。

1.正師に出会う  

2.メンタル体での脱身     

3.究極への突入

 

このうち、『3.究極への突入』が、あらゆる実感を経たことのバロメーターとなる。

 

それでは、あらゆる実感を経たというのは、具体的にどういうことかというと、釈迦の最初のニルヴァーナ前夜の例が挙げられる。

釈迦は、その時百億の誕生と百億の死と再生を見た。さらには、釈迦前生譚ジャータカという釈迦が前世でライオン王だったり、鹿王だったり多数の前世でいかにして善業を積んできたかを描いた膨大な物語集がある。

 

もし万人が釈迦のような前世を繰り返さなければニルヴァーナに到達できないとすれば、地球が現代のような有様であっては、ニルヴァーナ到達者は向こう数十年にほとんど出ないし、自分の悟りどころか、その間人類はあっという間に滅亡してしまう。

そこで各人の適性に応じて、百億の誕生と千億の死と再生を一望のもとに見渡せるような冥想(メディテーション)が用意されていると考えるのだろうと思う。

成熟バロメータにあるとおり、日々人は善を行い、悪を行わず、冥想に真剣に取り組み、正師に出会わなければ、冥想修行の本番というべきものは始まらないのだ。

 

余談だが、ほとんどの人は、肉体死に際しても悟れない。一般に日本では亡くなることを仏になるというが、本当に仏になる人は極く少数で大多数の人は、仏にならず輪廻転生に回って行く。

よって、臨終を迎えることがニルヴァーナに到達することと同義であるとは限らない。

なるほど、臨終時に悟るケースは稀にあるだろうが、臨終が成熟バロメーターに含まれない理由は、その辺にある。

 

冥想(メディテーション)とは、人間に速やかな成熟を促す加速装置のようなものだが、何か他のシステムや仕組みに任せただけでは成らない仕掛けがついている。本気、真剣、真摯、謙虚、率直等々が伴っていなければ成功しないようなのだ。

この辺がまず正師が求められる所以である。

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すべてを棄てるのは容易ではない

2024-06-08 03:07:51 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-1

◎冥想自在-1

◎冥想自在の構造-1

◎冥想自在のスタート地点

 

万人は、自分が神であることに気づいていないだけであるという立場に立てば、まず冥想とは、神である自分を生きることと人間である自分を生きることのバランサーである。                

冥想は、神人合一以前にも以後にも存在する。

 

そうすると、自分が全知全能の神であって、みじめで情けない人間であるということは、世界観の二重性である。世界観の二重性とは、悟っている人は、二重のリアリティ、二重の現実に生きているということ。                    

ここで、大雑把に組織宗教の教義を見てみると、宗教的教説には次のように3種あるように思われる。

 

1.悟りを目指さず悟っていない人向け

天国希求をメイン目標とし、天国地獄を超えたものは、かすかにしか示さない。そして見神、見仏を具体的目標とはしない。というのは、見神、見仏すら簡単ではない上に、神人合一を目標に据えると、万一誰かが神人合一した場合に、元の教祖との関係で収拾がつきにくい。

このレベルでは、「すべてを棄てないと悟れない」ということはあまり問題にならない。

 

2.悟りを目指す求道者向け

見神、見仏が主たる目標となる。神人合一を目標に据えると、万一誰かが神人合一した場合に、元の教祖との関係で収拾がつきにくいという問題点は、上の1のケースと同様。

このレベルでは、「すべてを棄てないと悟れない」という点は、具体的な問題点となってくる。

 

3.見神者(見仏、見性)、菩薩向け

天国と地獄を超える、善悪や選り好みなどの二元を超えることや、両性具有などを呈示できる。

目標は神人合一とすることができる。

このレベルでは、「すべてを棄てないと悟れない」という点は、切実な課題となってくる。

 

以上のような宗教教義の一般的な構造を見れば、    すべてを棄てられるようになって、初めて冥想自在のスタート地点に立ったと言えるように思う。だが、どのレベルであっても      すべてを棄てることは簡単ではない。

だが、それができなければ、永遠不壊の幸福も、解脱もあり得ない。

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万人の召命

2024-06-07 03:02:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-14

◎ニルヴァーナ-14

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-4

◎イエスのことを三度しらばっくれたペトロは二度召命

 

現代人は、ほとんどすべての人が召命されて生きている。召命とは、自分が神とコンタクトするべく、神の側から召されること。

道元の言う現成(げんじょう)公案とは、自分が生きていること自体が公案となって日々を生きることだが、それと同じ意味。

禅では、啐啄同機と言って、原義は卵が孵化するときは、卵の中のヒナが殻を自分のくちばしで破ろうとし、また親鳥も外からその殻を破ろうとすることだが、転じて自分の方からも仏法を得るために殻を破ろうとし、同時に仏法の方からも自分の殻を破ってくれようとすること。啐啄同機では、仏法の方から殻を破ろうとしてくれるのが召命。

 

人が召命されるというのは、どういうことか、イエスの最初期の弟子漁師のペトロはその典型例である。彼は、初代ローマ教皇となり、逆さ十字架にかかって亡くなった。

 

イエスが逮捕される直前に、ペトロは、『一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』などと啖呵を切った。

ところがその数時間後、イエスが連行された大祭司の家の中庭でペトロは素知らぬふりでいると、召使女と二人の男に『この人は、イエスの仲間だ。』と言われて、ペトロは、繰り返しとぼけ続けた。三度目にイエスが振り向いてペトロを見つめた。

ペトロは、あわてて外に出て激しく哭いた。

これは、イエスに借りを作ってもらったのである。

 

さてローマの有力者の美人妻クサンチッペが夫と同衾しなくなった。その原因がペトロの宣教にあることで、使徒ペトロは、ローマ官憲による捕縛が近づいているという情報を得て、ローマから脱出すべくアッピア街道を急いでいた。

『ペトロが市の門まで来た時、主がローマに入って来られるのを見ました。

 

主の姿を見て、ペトロは尋ねました。「主よ、ここからどこへ行かれるのですか」。

 

主はペトロに答えました。「わたしは十字架につけられるためにローマに行く」。

 

そこでペトロは主に尋ねました。「主よ、再び十字架につけられるおつもりなのですか」。

 

主は彼に答えられました。「そうだ、ペトロ、わたしは再び十字架につけられるのだ」。

 

それを聞いた時、ペトロはわれに返って、主が天に昇っていかれるのを見ました。そして大喜びで主を賛美しながら、ローマに戻っていきました。なぜなら、主が言われた「わたしは十字架につけられる」ということは、ペトロの身に起こるはずのことだったからです。

ペトロ行伝 第35章』

(ローマ教皇歴代誌 P.G.マックスウェル‐スチュアート/著 創元社P12から引用)

ペトロは、アッピア街道でイエスに借りを作ってもらい、これが二度目の召命イベントとなった。

 

一般に召命と言えば、信仰がゆるぎないものになる御霊を感じる体験を指すのだろうと思う。

ペトロの大祭司の庭の一件は紛れもない現実で、アーピア街道の一件は超常現象と、状況の種類が異なるように思うかもしれないが、神様から見れば同じ召命なのではないかと思う。

ペトロは、この二つの事件により、不退転となったのだ。二度借りを作るとは、露骨だが、実は召命とはそういうものなのだろう。行動も考えもうつろいやすいものだからこそ、ペトロのような見神は経ていたような者ですら、神様に二度借りを作ってもらわなければならなかったということなのだろう。

現代においては、単に生存競争を生き残って行くだけでも全身全霊をかけることを必要とされる。そんな多忙でいっぱいいっぱいの日々の中でも、「自分は何のために生きているのだろう?」「自分とは何なのだろう?」と考えることもあるだろう。

そうした疑問に真摯に素直に真剣に向き合う準備ができた人に、召命が起きる。

現代は、万人が神に出会う時代と言われて久しいが、それは、この時代に生まれてくること自体、既に万人が召命されたということなのではないかと思う。

 

召命とは、未悟の者のイベントだと思うが、召命と直接関係ないかもしれないが、悟りの前兆として次のようなものがある。

1. 坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがある。(身心脱落の前兆/宝慶記(道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。))
2. 油のようなものは、錬金術書の哲学者の薔薇園第8図で、天から降る露として西洋にも現れている。
3. 天の露は、古いタロット・カード(マルセイユ版)でも意識されている。天の露が登場するのは、大アルカナの最後の方の3枚で、月と太陽と審判である。

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22段の生の側の道、死の側の道

2024-06-06 04:53:49 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-16

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-16

◎前半は顕教的、後半は密教的

 

ユダヤのセフィロト(生命の木)は10球から成り、それを結ぶ22の線はパス(小径)と呼ばれている。ただしこれは、一つの球から8本パスが出たり4本パスが出たりということがあり、22人図としての一本道の悟りへの道の説明にはならない。

 

おそらくタロットの大アルカナを最初に作った人物は、セフィロトの22パスは意識せず、人が悟りへの道をたどる場合のモデルとして一気通貫のイメージで並べたのだと思う。

 

前半の1魔術師から10運命の輪までは、単に迷いの世界ということでなく顕教的な求道の道、すなわち生の世界から道を究めるということがイメージされている。9隠者一人は例外的に密教的だが、現代社会でも辺縁部にそうした人物は存在するものではある。

 

生の側を窮めると死の側を窮めることにもなるというのは、狭義では、キリスト教での観想法主体の求道の究極であり、只管打坐メディテーションの窮極である。

 

淮南子の原道訓に『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』とある。

 

この文では、生と死の区別は問題にせず、生の世界・死の世界共通に流れている基底なる一なるものは清静であり、その性質をいうならば、柔弱であるということか。

これが生の側から死の側をも極めるのイメージ。

 

一方11力から0愚者までは、クンダリーニ・ヨーガ型、つまりユダヤ教的、キリスト教秘教的、西洋錬金術的な求道径路が示される。

11力では、全体の流れとして聖音オームのパワーがあって、12吊るされた男で自分が死(13死神)に、神仏を見るという体験が起こる。

 

この体験を定着安定化させる時期が14節制だが、自分のオープン度がフルオープンになったところで15悪魔が出現。それをクリヤすると16塔で神人合一のステップとなる。

以下は神に対して不退転となったレベルであって、17星で星を望見。18月、19太陽で最終的な両性具有を達成。20審判では、神への最終ストレートである梯子を登り始め、21世界で神人合一を達成する。

 

しかしそれで終わりではなく、言葉では表現できない主、神、ニルヴァーナを0愚者に置いている。

 

タロット・カードは今では絵柄も相当に自由になってしまっているが、神を半ば忘れた中有的なこの500年において、見る目のある人は、神に至る一本道として大アルカナ22枚を見ることを期待して作成されたものと思う。

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まるで一輪の野の花のように

2024-06-06 03:51:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-13

◎ニルヴァーナ-13

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-3

◎何もかもが 時間でない今を楽しんでいる

 

さらにダンテス・ダイジの老子狂言から。

 

『まるで一輪の野の花のように・・・

      

何が何だと言うのだ     

これはこれなんだ  

いいや、これはこれだという必要もない    

 

何もかも、何もかもいいんだ     

こんなことを言うのも愚かしい 

それ位、これはこれなんだ

      

生命はジグザグに進む  

絶対の到達点などありもしないからだ    

この静けさをわかってくれるだろうか?    

 

しかも、生命は流れる  

ニルバーナといったところで 

それもまたひとときのふるさとにすぎない

      

何もかもがすてきだ     

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる 

極限の極楽と     

極限の地獄とを戯れている     

 

私は何と無駄な言葉を書いているのだろう!   

とことん無駄だと知りながら・・・    

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

この詩では、ニルバーナという体験とはいえない体験以前に、

『ニルバーナといったところで    

それもまたひとときのふるさとにすぎない』とか、

『何もかもがすてきだ  

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる』

と言うのは間違いである。

 

禅語録によく出てくるが、悟った者が御簾を巻き上げるのは正しく、未悟の者が御簾を巻き上げるのは正しくない。同様に坐禅中に悟った者が居眠りするのはよいが、未悟の者が居眠りするのはまずい。

こうした韻文は、よくよく字面の奥を考えねばならない。

 

一輪の野の花は深い。

『とことん無駄だと知りながら・・・

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』とは、無用の用の謂いである。

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0 愚者(無番号)

2024-06-05 04:55:31 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-15

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-15

◎神、仏、タオには2つの顔がある

 

21世界は第六身体であって、終着点の第七身体ニルヴァーナではない。そこで0 愚者がニルヴァーナとなる。

人間から見れば、21世界も0 愚者も神仏に相違ない。

 

いわゆる神、仏、タオには2つの顔があり、有の側と無の側である。どちらが奥かと言えば、無の側である。有の側はアートマンであるのに対し、無の側はニルヴァーナである。古代インドなら、アートマン、ニルヴァーナだが、古神道では、有の側が天照大御神と素盞嗚神の事であり、無の側が、天御中主神。出口王仁三郎はニルヴァーナである天御中主神の特性を無形、無声。無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊と評す。いわゆる大神とは、無の側の方である。

 

キリスト教の旧約聖書では、天地を創造する以前の神が無の側であり、最初の天地は有の側である。禅の十牛図では、有の側は我であり牛であり、無の側は一円相。このように伝統ある世界宗教には、大概神について、有の側の呼び名と無の側の呼び名があるものだ。

 

ニルヴァーナは、七つの身体でいえば、第七身体であるが、アートマン同様に個別性はなく、人間の側のものでもない。

 

何より言葉で表現できないものであるので、暗喩たるシンボルで指し示すことしかできない。それは禅の十牛図第八図の一円相だったり、大日如来だったりする。また仮に名をつけて、仏教では涅槃であり、禅では無、老子では道、古神道では天御中主神、キリスト教では神、インドではニルヴァーナなどとして、呼び名は異なる。

 

愚者は、トリック・スターである。あるいは、老いたる赤子。図柄では、会陰を犬に刺激されているので、会陰のムラダーラ・チャクラから上昇するクンダリーニを意識させる。

 

トリックスターの特徴は、人間にとって深刻な結果を招くいたずらをすること、世界全体を窮地に陥れる悪意のない嘘をつくことなど。

トリックスターと言われる者は、ギリシア神話のヘルメスであり、北欧神話のロキであり、日本の素戔嗚尊(スサノオノミコト)であり、イエスを裏切ったユダなど。

 

最初は浅智恵からくる悪行に見えるが、その結果は世界全体の悪弊、因習を根底から破壊して、結果として全く新たな新秩序をもたらしていく。

 

この地獄的世界が至福千年に変換していくプロセスを後になって順を追って見てみれば、何人かの悪意なき偉大なトリックスターの行動を検出することができるだろう。

 

あの絶対平和のみろくの世を標榜する出口王仁三郎が、昭和神聖会を組織し白馬に乗って軍事教練みたいなことをやったり、強弓を引いたり。ヘルメスは、人類の未来へのパイロット(水先案内人)にして、人類の帰趨を決めるいたずらを行うトリックスターであるが、クリシュナと現れ、ダンテス・ダイジと現れ、インドの大聖ババジのように人類が危険な時期に差し掛かると先行して登場する。

 

素戔嗚尊は、八岐大蛇に酒を飲ませてへべれけにして討ち取るという品のないやり方をしている。

 

ユダが銀貨30枚でイエスの居場所を教えたのは冗談では済まなかったが、それなくしてキリスト教の栄光の2千年はなかったし、北欧神話のロキが盲目のヘズにヤドリギの矢で、最高にハンサムなバルドルを殺させなければ、世の終りであるラグナロークはスタートしなかった。

 

その一手は小さいが、人類にとって偉大な一手であったことを知るのは、事が成就してからだろう。その毒は小さく見えるが癒しは大きい。

 

そして、なぜ愚者か。次の出口王仁三郎の歌の世界観を正気と見れば、この現代社会で通念とされている法規制、メリット・デメリットなどは、非常識どころか、狂気・妄想のようなものだからである。クンダリーニ・ヨーガ系の西洋錬金術、密教、道教、古神道などの世界観は、一定の深度に達すると非公開になっていたり、難易度の高い暗号文書みたいになっていたりする。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

愚者は、第七身体、ニルヴァーナに相当する。だから無番号である。

 

ニルヴァーナの「何もかもなし」の側面について、ここでは聖書と釈迦と一休を挙げる。

 

『今から後、主の中に死ぬ死人はさいわいである』(ヨハネの黙示録14:13)

主の中に死ねば何もかもなし。

 

『わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである』(ヨハネによる福音書16:28)

生まれる前も死んだ後もなにもかもなし。

 

釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)の第二十六章安らぎ(ニルヴァーナ)で何もかもなしを敷衍する。

『二三

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

 

二四

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

 

二五

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

二六

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

二七

そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

二八

さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

 

二九

これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり没することなき解脱の境地である。』

(ブッダの真理のことば・感興のことば/岩波文庫P243-244から引用)

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最初の指と後の指

2024-06-05 04:37:59 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-17

◎世界樹-15

◎この指は只の指ではなくて、世界樹である

 

『倶胝和尚は、質問を受けると、いつもただ指一本を立てた。

 

ある時、外来の客が一人の少年僧に対して「ここの和尚はどんな法を説くのだ」と尋ねてきた。

すると少年僧は間髪を入れずに指を一本立てた。

 

これを聞きつけた倶胝和尚は、くだんの少年僧を呼びつけて、その指を刃で切り落としてしまった。

少年僧は、突然のことで、痛みと驚きで号泣してその部屋から走り去ろうとした。

 

倶胝和尚は、「ちょっと待て」と少年僧を呼び止めた。

少年僧が和尚に首を向けた瞬間、指を1本にゅっと出してみせた。

 

少年僧は、忽然として大悟した。』

これは無門関第三則にある話。

 

この指は只の指ではなくて、世界樹である。その一本の中に生の世界も死の世界も三千世界もあらゆる宇宙も含まれている。この指一本で世界は逆転した。

 

児童虐待などということではなく、ちょんぎられた指でこうした世界の倒立を見られるならば、夕べに死すとも可なり。

この童子は指一本だが、達磨の弟子の慧可は腕一本で、などと数えることに意味はない。これは手荒な作法だというコメントもあるだろうが、これを手荒というならば、先ごろの津波は人為ではなく神威だけれども、津波も手荒と言わざるをえないだろう。

童子でありながら大悟できる精神の熟成度が実にCoolである。

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タオ

2024-06-05 03:35:10 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-12

◎ニルヴァーナ-12

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-2

◎秋の虫たちが鳴いているよ・・・

 

タオは、ニルヴァーナの一呼称。タオと合体したことのあるダンテス・ダイジが、タオのある生活を歌う。

 

『タオ

 

これは絶対でも相対でもない 

流れているわけでもないし 

久遠の静寂というわけでもなし

 

これはこれだろう

あれはあれなんだ

 

静かじゃないかい・・・

うれしいじゃないか 

哀しくもあるしね

もちろん 

恐ろしくもありんす

 

みんな生きている 

なにもかも死ぬ

 

そんなにツッパルなよ! 

もっともっとどうしようもなく、

ツッパレ、ツッパレ、ツッパレ!!

 

無が有を産んだのだろうか? 

有が無をあらしめたのだろうか?

それとも、

無と有が同時にからまっているのか?

 

ニルヴァーナが真実なのだろうか?

マーヤーが真実なんだろうか?

それとも、

ニルヴァーナもマーヤーも真実なのか?

それじゃなきゃ、

ニルヴァーナもマーヤーもありもしないのか?

 

いいじゃないか?

断じてよくない!!

いいじゃないか!

いいやだめだ!!

・・・・・・・・

秋の虫たちが鳴いているよ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

ニルヴァーナのある日常生活と言えば、ラーマクリシュナが何日もトランスに入ったまま、食事もとらずに横になっていたというようなことがあるが、そのような生活をベターとしていたわけではない。

ダンテス・ダイジの目指すライフ・スタイルは、悟りという体験とはいえない体験は経るが、常時そうした三昧に入ることをベストとしているわけではない。

例外的にそうした生き方ができたラーマクリシュナはいるが、万人が悟りを持って生きる時代とは、平素は働いたり家事をしたり学業にいそしんだりするが、冥想が社会全体の習慣となり、すべての人が悟っている時代のこと。

 

そういう前置きがなければこの詩は、単なる優柔不断な世迷言として読まれてしまうのだと思う。

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21 世界

2024-06-04 04:50:34 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-14

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-14

◎過去現在未来の万物のすべての実感を生きる

◎おれは神

 

既に12吊るされた男で見神、見仏を経て、15悪魔の誘惑も退け、16塔からは、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となった。

 

17星では、悟りの確証の体験として星を得て、18月、19太陽で、太陽と月の合体により完全無欠の両性具有を達成した。20審判では、個なる自分は、世界全体、宇宙全体、すなわち神に向かって最後の一歩を踏み出すが、まだそこには届かない。

 

21世界で届いたが、そこは七つの身体論で言えば第六身体アートマン。

神には、有の側と無の側があって、有の側がアートマン。アートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの。

アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。

アートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。

カモワン・タロットの図柄は、茅の輪くぐりのような宇宙卵。天上天下唯我独尊の彼女の腰布は両性具有を隠している。有の側だから四方守護の高級神霊が見えている。

 

人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、神なしでは人間ドラマは起こらず。神だけでも人間ドラマは始まらない。

21世界とは、自分は個人間であって、かつ過去現在未来の宇宙の万人万物、生物無生物のすべてである実感に生きる。

 

その辺の感覚が現代語で端的にわかる詩がある。ダンテス・ダイジの詩2篇。

『【何と人間らしいことか】

 

人間を越えようとする

意味づけることのできぬ永劫の情熱

それがいつ人間性の極限をもつき破って

無時間の神秘を実在せしめたのかは

誰も知ることがない

 

死を初めから超えていた情熱が

すべてを忘れた炎となって燃える

一つぶの雨滴にもかじりついて号泣し

そしてまた泥沼の中に浸り切る

もう時間も現象も神秘さえもいらない

いのちが いのちの中に完結している完結をも忘れて

何と人間らしいことか

何と人間らしいことか 』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP13から引用)

 

さらに

『【おれは神】

 

おれは神

あらゆる人間達が片時も忘れず

おれを求め続け そして生きている

おれの眼の前の灰皿を

おれは

あらゆる政治や文化や思想よりも

何兆倍も魂をこめて

産み出した

おれの指の動きの一つ一つが

銀河系宇宙や

その他のあらゆる宇宙を

粉微塵にしては又こねあげる

でもそんなことより

おれはあの小学生の女の子の自殺を

もっともっと愛している

 

百姓のおおらかな生活に憧れた青年が

幾年もの作物づくりに疲れ果て

希望も生気も失なった中に

おれは限りない希望と生気となって実在する

 

おれは神だから

何ものにも頼ることがないなどと

変な意地をはって

パン屋からヌードスタジオへと

勤め変えをしながら

おれを愛し続けてくれた女房を

だいなしにして自殺させてしまった

そしておれは神だから

女房がどんなに神だったかを

死なれたあとに気がついて

おろおろするばかりだ

おれの胸には大きな風穴があいて

その風穴から

無限宇宙をいつでも眺めることができるのに

神なるおれは神が嫌いで

胸の風穴を

酒と薬とでうめようとする

 

おれは神

いまだかつて一度たりとも

面と向って正々堂々と

人間の顔を見たことがなく

すずめの鳴き声を聞いたことがなく

太陽も月も星も見たことがなく

アイスクリームを本当に食べたこともない

 

おれは神だから

冷汗をかきながらすべての人々と話し合い おれは神だから

終わりのない愛ですべての人々を包む

おれは神だから

 

酔っぱらいが大声で叫び

おれは神だから

あるいは高笑いあるいは泣きくずれ

道のどまんなかでヘドとクソをたれ流す

おれは神

欲望にかられて女のすべてを欲しがるもの 神を求めて求めてやまないもの

ヒマラヤの洞くつなんぞ

一軒のマージャン屋にも

価しないにもかかわらず

坐禅冥想のあらゆる終りを

洞くつの中で楽しみ続けるもの

おれは神

 

おれの女房が中絶した胎児を

神なる看護婦が

アルコールづけにしたビンを持ってきた時

あほうづらをして眺めることしかできぬもの

冷たい雪山の中でストーブのぬくもりを求め

砂漠の只中ではションベンをさえ飲むもの

おれは神だから

 

求道生活を馬鹿にしてあざけり笑い

おれは神だから

湖に映った月の影のように

何よりも求道生活に精進する

聖者という俗人が

迷いと悟りを分けたばかりに

悟り好きの求道者は

悟りに到る様々な道を

もの狂おしくたどり続ける

そのあげくにおれが神であるばかりに

悟りという迷いを開いて喜ぶ

 

おれは売春婦という神だから

あの十七才の少女のように

一日として男がいなくちゃいられない

一切万物の幸福好きもこまったものだ

これもあれもみんな神なるおれの責任だ

おれは神

 

一ぱいのお茶をやさしく友人に出す

釈迦やキリストやクリシュナや老子などと いう

ニセ者が出たばかりに

世も末だ

おまえは神だからおまえを生きろ

おれは神だからおれを生きる

ヒマを持て余したおれは

やれ文明の没落だの

やれ宗教だ哲学だなぞと言い張り

ヒマを持て余したおれは

神だ神だと言い張る

ヒマを持て余したおれは

のどかな田園風景や

輝く陽光と銀色の海を愛し

 

よせばいいのにあそこのキャバレーで

女の子を口説き出す

そして神なるおれは

ヒマを持て余しているから

よせばいいのに神そのものであり続ける

 

おまえにはおまえの惚れているものがあり

おれには、 おれの惚れているものがある

おれは人間として必死に

今死にゆく癌患者の手を握り

処世の達人なぞ遠い妄想にすぎない

今までにおまえは

一瞬でも本気になったことがあるか

ありはしまい

なにしろおまえは神なんだから

おれはいつもいつも正真正銘の本気だ

なぜならおれは神なんだから

 

おれは四六時中ウソばかりついている

神だからだ

おまえは四六時中真実でいる

おまえが神だからだ

おれは神

おれの孤独を何とかしてくれと

叫び続けるもの

おれは神

 

さびしさなんぞどこ吹く風

絶対なる幸福なんぞにひっかかるなよ

おれ達は神なんだから

絶対なるこの幸福を戯れよう

おれ達は神なんだから

おれは神

蜜よりも甘い甘えで甘えるもの

おれは神

一沫の甘えも弱さも持たぬもの

おれは神

弱くて軟弱なめめしい生きもの』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP25-33から引用)

 

人が神を生きる場合、他人もあなたも神である。彼が人間を生きる場合、みじめで情けない人間の弱さも知っていて、一沫の甘えも弱さも持たないが、同時にすべてを許す愛も持っている。さらには恒星惑星の運行も支配し、天候の操作などお手のもの。またヒマを持て余して悪さをする人のことも知っているし、あらゆる不幸に見舞われつつも真摯に生きたヨブのことも知っている。

有の側を生きるということはそういうことなのだろうと思う。

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古神道の天の柱

2024-06-04 04:39:13 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-16

◎世界樹-14

◎地球の中心火球の黄金柱

 

さし絵は、キリスト教のヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子。いまや天上に昇らんとする多くの篤信者をこれでもかこれでもかといわんばかりに引きずり下ろす一群の黒い者がいる。

 

これと似た雰囲気の天の梯子、いや天の柱が出口王仁三郎の霊界物語にある。

これは、地球の中心火球(中心太陽、宇宙意識、ニルヴァーナ、神、仏、道のこと)の吹き上がる金気の威徳をパワーとして国の御柱がある。その天辺が二つに分かれて、左が男神の渡る橋、右が女神の渡る橋となっている。

この橋は黄金の丸木橋であるとされるが、そのものずばりで、葦の茎の如き黄金のクンダリーニの表象である。日本では古来、人のことを神柱と美称するが、この黄金柱こそ国の柱であり、神柱であった。

よって、霊界物語のこの段は、出口王仁三郎版の「クンダリーニ上昇の秘儀」たるパートであるが、やはり世界樹の全体像がクンダリーニの世界展開であるという基本イメージに沿っている。

 

さて霊界物語第五巻の24章天の浮橋の段から引用。

『眼を開けば今度は最高点の黄金橋の上に引き揚げられてゐたのである。まづ安心とあたりを見れば、国姫神は莞爾として四五の従神とともに吾前に現れ、

 

『この橋は黄金の大橋といひ、また天の浮橋ともいひ、地球の中心火球より金気昇騰して顕国の玉となり、この玉の威徳によりて国の御柱は中空に高く延長し、その頂上は左右に分れ、左は男神の渡るべき橋にして、右は女神の渡る橋なり、この黄金橋は滑にして、少しの油断あらば滑りて再び地に顛落し、滅亡を招くの危険あり。

汝は抜身の中に立つごとく心を戒め、一足たりとも油断なく、眼を配り、耳を澄ませ、息を詰め、あらゆる心を配りてこの橋を東方に向つて渡れ。また此橋は東南西北に空中を旋回す、その旋回の度ごとに橋体震動し、橋上の神人は動もすれば跳飛ばさるる恐れあり、また時には暴風吹ききたつて橋上の神人を吹き落すことあり。

欄干もなく、足溜りもなく、橋とはいへど黄金の丸木橋、渡るに難し、渡らねば神の柱となることを得ず、実に難きは神柱たるものの勤めなり』

と言葉嚴かに云ひ渡された。

王仁は唯々諾々として其教訓を拝し、東方に向つて覚束なき足下にて、一歩々々跣足のまま歩を進めた。』

いつの間にかこの橋を渡りきった出口王仁三郎の身は、天教山(富士山)の山頂に、神々とともに停立していたのだが、天教山は頭頂(泥丸)サハスラーラ・チャクラのシンボルである。

男女に分かれた橋が統合されるのは、エドワード・メートランドの見たキリストの二重性、男女の統合と同義である。

ヨアンネス・クリマコス(579年-649年)の最後の審判の梯子と、この古神道の黄金橋では、バックグラウンドの描写こそ違うものの、シチュエイションは似たようなものである。アセンションの梯子または黄金橋にとりついたものの、不心得のある者は次々に滑落していく。

 

さて我々はふつつかなれど、神の柱となれるのだろうか。

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名状しがたい光明の体験

2024-06-04 03:20:49 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-11

◎ニルヴァーナ-11

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-1

◎リアリティーとは、永遠の対立であり久遠の統合である

 

『生きとし生けるものはすべて数えきれない回数、死しては生まれ変わってきている。彼らはこの名状しがたい光明を幾度となく体験しているにもかかわらず、無知の闇に妨げられて、無限の輪廻を果てしなく彷徨っている。』

(パドマサンバヴァ(仏教をチベットに伝えた人)(チベットの生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P427から引用))

※名状しがたい光明:ニルヴァーナあるいは母の光明、原初の光。

 

『霊界の中心太陽とは、 

創造の光の発出源にすぎない。 

個生命達は、 

顕界と霊界とに交互に転生しながら、 

果しない旅の途上のどこかで、 

中心太陽へ飲み込まれていく。 

リアリティーとは、対立の統合ではない。 

この考え方は、人間的知性の限界の表明にすぎない。 

リアリティーとは、 

永遠の対立であり 

久遠の統合である。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP98-99から引用)

 

人間は、もともと全知全能にしてあらゆる空間と時間と物質を統べる神なのだが、それに気がついていないだけ。

それに気がつくためには、神にして人間であるそれぞれの人間、意識の限界的状況を通過しなければならない。

意識の限界的状況とは、悟りあるいはニルヴァーナという、もはや体験とはいえない体験のことである。

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