いかりじいじのブログ

私の宗教観、生き方について

 これまで生きてきて、こんなことを思っている人もいるのだなあと思ってもらい、前向きに生きることができる助けになればと思ってブログを始めました。
 今日は、私が感じている宗教観、生き方についてお話しします。
 私の実家は曹洞宗という仏教の宗派でした。子供の頃は、毎月17日になると17夜(じゅうしちや)といって、檀家がお寺に集まり、主に母親が子供を連れて行っていたのですが、お経をあげて、お茶をして帰るという行事でした。
 近所の人も集まるので地域の団結という意味ではよかったのかなと思っています。
 高校生の時に読んだ本では、外国で無宗教というと野蛮人のように思われるという内容に接しました。そうなのかなあと思いながらいましたが、新婚旅行で外国の入国審査に当たり宗教の欄があってブッダとか記載した記憶があります。野蛮人と思われないために。
 それでも、年をとっていく中で、私のいとこが結婚した女性が「ものみの塔」だとかいう原理的な宗教にはまり、うちの父におじさんが助けを求めてきたのが忘れられません。
 これは偶像崇拝はしないとか、輸血はしないとか、テレビでも問題になっていました。
 そのほかに、創価学会の同級生は家庭が壊れてしまい、皆でやる行事にも出てこなくなり、しかも、勧誘を強制されたりとかしていました。
 そのほかでは、イスラム国などの暴虐無人な行動を見ていると、宗教って何なのかなと思っています。これも偶像崇拝はいけないとかでバーミヤンというところの仏像を壊してましたね。恐ろしい。
 人を救えて初めて宗教のはずなのに、苦しめている。お金、勧誘などなど。
 そして、私は無宗教になりました。
 両親も亡くなってずいぶんたったので、実家のお寺に離壇(檀家をやめること)の挨拶に行き、10万円をお布施として納めました。墓があったので、撤去して更地にしました。
 そして、自宅の近くの墓地にオリジナルの墓を建てました。やはり、子供たちには先祖への感謝は忘れて欲しくないからです。それを忘れなければ、この後、この墓がどうなってもいいと子供たちには言っています。
 無宗教になったからといって、何もしない訳ではありません。月曜日から金曜日までは、朝早くから近所の八幡宮までウオーキングをして、家内安全と無病息災、そして子供たちの幸せをお祈りしています。
 無宗教じゃないのではないかと思われるかもしれませんが、私は、神様は自分がどう思うかだと思っているので、祈るということは、自分自身に対する確認や確証を強くするためのもの、夢を実現するための確認作業のようなものと思っているのです。
 好きな言葉は「天上天下唯我独尊」です。これは人として産まれてよかった。その生き方を大切にしようという言葉らしいのですが、私は、この世は一度きり、自分がどう感じるかが大切だ。幸せも不幸も自分がどう感じるかだけなんだ。だから、この世は自分1人なんだから、前向きに生きるべきだと解釈しています。
 それで、高齢になりましたが、前向きに生きています。宗教で悩んでいる人もいるでしょう。両親がはまっていると大変ですね。今の環境は受け入れながら、できないことはしないことです。特に、お金のこととか。
 それと、介護なんかもそうですが、親子だから面倒をみるのが当然みたいなところがありますが、それは良識のある親に対してです。良識のない親は親ではありません。ただし、民法上は縁が切れないんですよね。私も父親と縁が切りたくていろいろ調べましたが、逆に大学の学費を請求されたら返さなければならないなんていうのもありました。父親の借金を8年間も返してきたので、チャラと思いますが。
 つまり、言いたいことは、正解はないのです。自分の幸せを壊さない程度に対応すればいいのです。子供の不幸を願う親なんていませんよ。宗教でも同じでしょう。信じている人を不幸なんてしませんよ。
 子供の不幸を願わない親はいないと思うのですが、自分だけの幸せを追い求めて子供に負担をかける親もいますから、そうした親は親ではないと思えばいいのです。
 困ったとき、苦しいとき、自分で選択して、その結果は素直に受け入れ、引きずったとしても、時が解決してくれると思えばいいのです。最後の手段は逃走ですが。
 人生は、自分の気持ち次第です。挫折があっても前向きに生きましょう。

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