スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

川崎スパーキングスプリント&狂気

2024-06-12 19:03:26 | 地方競馬
 習志野きらっとスプリントトライアルの昨晩の第4回川崎スパーキングスプリント
                                        
 コパシーナは加速が鈍く1馬身の不利。大外から押していってノボベルサイユの逃げ。エンテレケイア,プライルード,ティアラフォーカスの順で続きカプリフレイバー,マッドシェリー,サンダーゼウスの3頭が併走。2馬身差でアルバミノル。コパシーナはその後ろまで巻き返し,ヴァンデリオンとアポロビビは併走。2馬身差の最後尾にホウオウスクラム。ハイペースでした。
 逃げたノボベルサイユは飛ばしていったので2馬身くらいまでリードが広がりました。先に追い上げていったのはティアラフォーカスで,エンテレケイアは内に。そして外からプライルードで最終コーナーから直線へ。ノボベルサイユが一杯になりティアラフォーカスが一旦は先頭。2頭の間を突こうとしたエンテレケイアは狭くなって最内に進路を変更。ティアラフォーカスの外からプライルード。ティアラフォーカスがまず一杯になり,残った2頭の優勝争い。外のプライルードが制して優勝。エンテレケイアがアタマ差で2着。ティアラフォーカスが1馬身半差で3着。
 優勝したプライルードは前々走のオープン以来の勝利。南関東重賞は一昨年のアフター5スター賞以来の3勝目。出走メンバーの中では実績は上位。900mに出走するのが初めてだったのですが,問題とはなりませんでした。現状は1200mよりも1000mの方がよいというタイプになっているのかもしれません。タイムは上々だったと思います。父はラブリーデイ。母の父はサクラバクシンオー。ふたつ上の半姉が2019年のローレル賞を勝ったブロンディーヴァでひとつ上の半姉が一昨年の福島牝馬ステークスを勝ったアナザーリリック。Praeludeはプレリュード。
 騎乗した船橋の本田正重騎手は東京湾カップ以来の南関東重賞18勝目。川崎スパーキングスプリントは初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞27勝目。川崎スパーキングスプリントは初勝利。

 第四部定理五七で,高慢な人間が寛仁generositasの人を憎むといわれているのは,ひとつのキーポイントです。第三部定理五九備考でいわれているように,寛仁というのは感情affectusのひとつであって,これは人間が理性ratioに従うときにのみ生じる欲望cupiditasのひとつです。したがって人間は高慢superbiaである限りは理性に従っている人を憎むのです。このことが,高慢は狂気であるとスピノザがいう理由のひとつとなっています。憎しみodiumというのは第四部定理四五および第四部定理四五系二から分かるように,スピノザが全面的に否定するnegare感情のひとつです。つまり高慢な人間は単に理性に従うことに反するという点で狂気といわれるわけではなく,理性に従っている人を憎むという点で狂気といわれているのです。
 第四部定理二五というのは,自己満足acquiescentia in se ipsoあるいは自己愛philautiaだけを射程に入れたような定理Propositioではなく,ごく一般的な定理です。ですからこうしたことは自己満足だけに適用されるわけではなくて,受動的な喜びlaetitiaのすべてに妥当するといわれなければなりません。喜びはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioであり,悲しみtristitiaはより大なる完全性からより小なる完全性への移行ですから,ある特定の人間だけを抽出すれば,悲しんでいるよりも喜んだ方がよいということになります。しかし人間が共同で生活するという点に着目すると,喜びはかえって迷惑を及ぼすので,悲しみを感じていた方が人びとの和合には有益であるという場合も生じるのです。
 ここではこのことを,希望spesと不安metusの場合で考察します。というのはこのふたつの感情は表裏一体の感情であり,僕たちは希望を感じているときは不安も感じていて,逆に不安を感じているときには希望も感じているからです。このゆえに,一人ひとりの人間は,不安に苛まれているよりは希望に胸を膨らませている方がよいのであり,実際に強い不安に苛まれている人に対しては,僕もそのようなアドバイスをします。強い不安を感じるということは,それだけ大きな希望を抱いているということの裏返しなのであって,そうであれば少なくともその人間にとっては,大きな希望の方にすがっている方がよほどましであると僕は考えるconcipereからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・谷津の雑感⑤&様式

2024-06-11 19:14:00 | NOAH
 でいったように,カンサスシティーで全日本プロレスの一行と面会した後,谷津は帰国し新日本プロレスでの仕事をするようになりました。長州力が率いる維新軍の一員だった谷津は,ジャパンプロレスに入り,1984年末からは全日本プロレスで仕事をするようになります。谷津は馬場とも面識があったわけですから,最初から受け入れてもらえたといっています。ただこの当時の新日本プロレスと全日本プロレスはライバル団体でしたから,ジャパンプロレス勢の中には全日本プロレスは嫌いだった選手もいたと谷津は言っています。カーンの雑感⑨でいったように,カーンは全日本で仕事をすることを歓迎していたので,谷津がいっているのはそれ以外の選手ということになります。
 ジャパンプロレスには若手も何人かいたのですが,とくにそうした若手たちは,新日本プロレスの道場で基礎を学んだということもあり,全日本プロレスの選手たちと練習をすることも嫌った選手が多かったようです。谷津が例外としてあげているのは馳浩で,馳は全日本プロレスの中に躊躇なく入っていくことができたので,馬場に気に入られたといっています。ただ,馳は入団は全日本プロレスではなくジャパンプロレスでした。ですからほかの若手たちが経験したような新日本プロレスの道場での洗礼というのは受けていなかったかもしれません。このことがあって,馳は馬場にはかわいがられたそうです。谷津は馳のこのような態度に関しては,権力者にかわいがられる術を知っているというように思えたのでむしろ怖かったといっています。全日本プロレスとの合同練習などには参加したくないと思っていたほかの若手の方が,純粋でかわいらしく思えたそうです。ただ,馳自身は馬場の指導が的確だったから馬場から学んだというようなことをいっていますので,これが権力者にすり寄るための技量であったのかどうかははっきりとは分かりません。一方,馳がプロレスラーとしてはインテリの部類であったのは事実で,そのことでほかの選手との間で問題になったことがあったそうです。

 第四部定理三五にある通り,僕たちは理性ratioに従っている限りでは現実的本性actualis essentiaが一致します。ですからたとえ第四部定理二五にあるように,各人がそれぞれ自己の有の維持に努めるconariとしても,それが他者の自己の有esseの維持を阻害することはありません。よってこの様式である人間が自己満足acquiescentia in se ipsoを感じたとしても,それで他者の現実的本性を阻害することはないのです。ところが第四部定理三四にあるように,各人は受動的であるときは相互に対立的であり得ます。必ず対立するというものではありませんが,対立的である場合もあります。つまり各人が受動的に自己の有を維持することに努めると,それが他者の自己の有の維持を阻害する場合が生じ得るのです。第三部定理九は,僕たちが混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも自己の有に固執するperseverareといっています。これは,第三部定理一により,僕たちは受動的である限りにおいても自己の有に固執するというのと同じです。よってこの様式で僕たちが自己満足を感じたときは,それが他者の現実的本性を阻害することが生じ得るのです。このために第三部定理二六備考では,自己満足の一種である高慢superbia,これは第三部諸感情の定義二八から,受動的な自己満足ですから,スピノザの分類に倣えば自己愛philautiaの一種である高慢が,狂気と称されるのです。これは,自己満足が,能動的であれ受動的であれ,最高の満足であるとみなせば理解できると思います。受動的な自己満足は,それを感じる当人にとって最高の満足であるがゆえに,他者にとって最高の迷惑にもなり得るのです。
                                   
 第四部定理五七にあるように,高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒adulatorが現実的に存在することを好みます。したがって,高慢な人間と阿諛追従の徒は,各々が受動的ではありますが,各々の現実的本性を阻害するどころかむしろ向上させ合うでしょう。第四部定理三四で,現実的に存在する人間が受動的である限りでは相互に対立的であるといわれず,対立的であり得るといわれているのは,このような事情も考慮されているためです。ただ第四部定理五七でいわれているように,高慢な人間が憎むのは寛仁generositasの人ですから,やはり高慢は狂気といって差し支えありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万博協賛ミリオンナイトカップ&第四部定理二五

2024-06-10 19:23:05 | 競輪
 函館競輪場で行われた昨晩のミリオンナイトカップの決勝。並びは大川‐坂本‐菊地‐竹村の北日本A,酒井‐桜井の北日本B,菊池‐杉本の関東で阿部は単騎。
 菊地と菊池がスタートを取りにいきました。内の菊地が誘導の後ろに入って大川の前受け。5番手に阿部,6番手に酒井,8番手に菊池で周回。残り3周のホームの出口から菊池が上昇。バックで大川の外に並びました。残り2周のホームまで併走のまま周回し,誘導が退避するタイミングで大川が突っ張ると菊池は引き,周回中と同じ隊列に戻って打鐘。残り1周のホームを通過してから菊池が巻き返しにいきましたが,単騎の阿部がバックで先捲り。これで菊池は不発。坂本が番手捲りを敢行して阿部に対抗しましたが,直線で阿部が抜け出して優勝。坂本が4分の3車身差で2着。阿部を追走するようなレースになった酒井が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は前回出走の別府のFⅠを完全優勝していて連続優勝。4月の高知記念以来となるGⅢ3勝目。このメンバーでは脚力は圧倒的に上位。単騎の戦いになりましたので位置取りが鍵でしたが,大川が先行するとみてそのラインの後ろに。大川の突っ張り先行になりましたので,その判断も確かでした。坂本の番手捲りの上をさらに捲って勝ったのですから,確かに力を見せつけての優勝だったといっていいでしょう。

 理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoは最高の満足ですが,表象imaginatioから生じる自己満足は,狂気ともなり得るのです。これは,自己満足が,自己の能力potentiaを観想するcontemplariことによって生じる喜びlaetitiaであるといわれるとき,観想するということが,自分自身だけを見つめるということも意味し得るし,自分自身を他と比較して表象するimaginariということも意味し得るからこそ生じるのです。いい換えれば自己満足は,自分自身だけを見つめたときには最高の満足であり,他と比較したときにもその当人にとっての最高の満足であるのですが,前者は他からみても何も問題のない満足であるのに対し,後者は他からみた場合には狂気ともいえるような,迷惑を及ぼす満足であるということになるのです。
                                   
 こうしたことが生じる事情というのを一般的にいえば,第四部定理二五でいわれていることが基になると僕は考えます。
 「何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めない」。
 これはコナトゥスconatusが各々の個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるという第三部定理七から明白です。つまり各々の現実的本性が与えられれば,そのものはそのもの自身の有esseを維持しようと努めるconariという第三部定理六でいわれていることが必然的にnecessario帰結するのであって,これを帰結させるためにほかの事柄に訴求する必要はありません。いい換えれば他のものの本性に訴求する必要はないのです。よって現実的に存在する人間が自己の有を維持しようとする傾向conatusを有するのは,それ自身の本性のためであり,ほかのものの本性のためではありません。そしてこれは,現実的に存在する人間はほかのもののために自己の有の維持に努めるわけではないといっているのと同じです。
 しかしこのことはスピノザが論証Demonstratioでいっている通り,第四部定理二二系からもっと簡単に証明することができます。もしも現実的に存在する人間がほかのもののために自己の有の維持に努めるとすれば,virtusの第一の基礎はそのほかのものであるといわなければなりません。しかしそれはこの系Corollariumに反します。ゆえにそのようにいうことはできないのであって,現実的に存在する人間が自己の有の維持に努めるのは,それ自身のためであるといわなければならないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪・関西万博協賛競輪in奈良&意図

2024-06-09 19:15:07 | 競輪
 奈良競輪場で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは佐々木‐菅原の神奈川,中井‐元砂の奈良,松岡‐松川の熊本に三宅で佐藤と大矢は単騎。
 元砂がスタートを取って中井の前受け。3番手に松岡,6番手に佐藤,7番手に大矢,8番手に佐々木で周回。残り3周のホームから佐々木が上昇を開始。ゆっくりとした上昇で,バックの出口で中井を叩きました。だれもこのラインには続いていなかったので,3番手に中井,上昇した大矢が5番手で松岡が6番手,最後尾に佐藤という隊列になってホームを通過。バックで佐々木が内を開けたので,内から中井,外から松岡が上昇。中井を打鐘で叩いた松岡の先行に。中井は引かずに松川の内から競りにいきましたが,これは松川が守りました。バックから大矢が単騎で発進。松川に競り負けた中井の後ろの元砂は大矢にスイッチ。直線は粘る松岡の外から大矢,そしてスイッチした元砂が両者の中を割って3人の争い。外の大矢が制して優勝。マークになった元砂が4分の3車輪差で2着。逃げ粘った松岡が4分の3車輪差で3着。
 優勝した東京の大矢崇弘選手はこれがS級での初優勝。初めてS級に昇級したのは2017年の6月ですから,S級では頭打ちだったといっていいクラスの選手で,最近はFⅠでも決勝に進出できていませんでしたから,単騎での優勝は正直いって驚きました。展開としてはそこまで楽だったわけではありませんから,これくらいの力はあったということで,たぶんレースで自身の力を十全に発揮するというような形に持ち込むのが苦手というタイプなのではないでしょうか。発進したときの加速にもやや課題があるようには感じます。

 自己の能力potentiaの観想contemplatioは,最高の満足でもあり得るのですが,他者との比較という表象imaginatioが介入すると,あまりにもつまらない不快事になってしまうとスピノザは第三部定理五五備考でいっています。そしてこうしたことをいいたいがために,スピノザは第三部定理五三を,この部分では第三部定理五五の前振りとして使ったと國分はいっています。本当にスピノザがそのような意図を有していたか僕には分かりません。ただ,この部分の文脈の流れがそのようになっているのは確かだといえるでしょう。
                                   
 これに関連して僕の方からいっておきたいことがあります。
 第四部定理五二は,理性rationeから生じる最高の満足が自己満足acquiescentia in se ipsoであるといっています。では受動的な満足のうち最高の満足は何であるかといえば,それも受動的な自己満足であろうと僕は考えます。ただこのことは,それを感じるその当人にとってそうであるというだけで,人間が協働して生活を送っていくということを考慮した場合は,その最高の満足がかえって他者に対して迷惑を及ぼすこともあるでしょう。スピノザが第三部定理五五備考のようなことをいうのは,そうしたことも考慮に入れている,というかむしろ人間は共同で生活していくものだということを念頭に置いているからだといえると思います。たとえば人間は他者の力potentiaと自身の力を比較して,自身の力を過大に評価することによって喜びlaetitiaを感じるということがあります。これは自分の力を観想するcontemplari,表象するimaginariという意味ではありますが観想することによって感じる喜びですから自己満足にほかなりません。一方,ここでは自身の力を過大に評価するということを前提としているわけですから,自己満足のうちとくに第三部諸感情の定義二八にある高慢superbiaであるといえるでしょう。この定義でいわれている自己への愛philautiaというのは自己愛philautiaなのであって,スピノザはとくに受動的な自己満足についてそれを自己愛といっているからです。ですから高慢というのは,人間が受動的に感じる喜びの中では,最高の満足のひとつであるといっていいでしょう。ところが第三部定理二六備考では,この高慢が狂気といわれているように,きわめて否定的に評価されているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三四郎と代助&第三部定理五五備考

2024-06-08 19:05:31 | 歌・小説
 『なぜ漱石は終わらないのか』の第八章で,『それから』の代助が三四郎の後身であるということが語られています。『三四郎』,『それから』,『』は三部作といわれていて,それぞれの主人公といえる三四郎,代助,宗助がそれぞれ似たところを有しているのはある意味では当然のことといえます。ただこの部分では,それが独特の観点から指摘されているのです。
                                        
 『それから』の平岡は新聞記者という設定になっています。ここでは新聞というのが隠されたモチーフとして設定されているのだと小森が述べています。これは説明すると長くなってしまうので,ここでは省略します。しかし代助はその新聞の役割というのを具体的にはまったく理解していません。というか,理解していないように書かれています。これは代助がボンボンであって,世の中のことをよく理解していないからです。平岡の方はこのことに自覚的であって,だから自分の立場を利用して代助に脅迫めいたことまでするのですが,代助はそのあたりの事情がよく分かっていないのです。
 こうした代助の設定が,三四郎によく似ているというように石原はいっています。『三四郎』には新聞のモチーフは出ていませんが,三四郎は熊本から出てきたばかりであって,世の中のことをよく理解できていない,抽象的にしか理解できていないという点で,代助と共通します。ボンボンであるというところも一致しているといっていいでしょう。しかしただそれだけではなく,『三四郎』には三四郎にはよく分からないことが,小説の地の部分には書かれているように,『それから』では代助には分からないようなことが小説の地の文章に表出しているのであって,新聞を巡るプロットはそのひとつを代表するようなものなのです。つまりこのような点においても,小説の主人公として,代助は三四郎の後身であると石原は指摘しています。
 代助が三四郎の後身であるのは,単に恋物語を巡る文脈の中でそうであるといえるのではありません。小説を書く技術の側面からも,代助は三四郎の後身なのです。

 ここで國分が第三部において重要な定理Propositioのひとつとしてあげていた,第三部定理二八に着目します。ここから僕たちは,喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するということが分かります。第三部定理五三系でいわれている賞賛lausは喜びですから,僕たちによって希求されることになります。いい換えれば僕たちは,他者からの賞賛を欲望するようなコナトゥスconatusあるいは同じことですが現実的本性actualis essentiaを有していることになります。
 このことの否定的な側面をこれから論考していくことになりますが,この現実的本性は,否定的な側面だけを有しているわけではないということを,前もっていっておきましょう。というのは,僕たちは他者からの賞賛を欲望するがゆえに,他者に賞賛されるようなことを実際になすということがあり,そうしたことのためになす行為のうちには,他者に喜びを齎すことも含まれるであろうからです。単純ないい方をすれば,褒められたいがためにいいことをするということは僕たちには生じ得るのであって,このような効果が賞賛を欲望する現実的本性から生じるのであれば,この現実的本性は結果effectusとしてよいことを僕たちに生じさせるでしょう。ですから賞賛を欲望するということは,人間の現実的な生活の上で,全面的に否定的な要素だけ含んでいるというわけではありません。
 それから賞賛は,自己満足acquiescentia in se ipsoあるいは自己愛philautiaという別の喜びを強化する感情affectusでもあります。したがって,ほかの条件が同一であるならば賞賛はほかの喜びよりも強く希求されることになります。いい換えれば一般的に喜びを希求するというよりも強く,僕たちは賞賛を希求するのです。
 ではこの現実的本性の否定的な側面は何かといえば,それはスピノザ自身が第三部定理五五備考の中で語っています。スピノザはこの備考Scholiumの中で,自己愛と自己満足を分けているのですが,それに続けて次のようにいっています。
 「そしてこの喜びは人間が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから,したがってまた各人は,好んで自分の業績を語ったり,自分の身体や精神の力を誇示したりすることになり,また人間は,このため,相互に不快を感じ合うことになる」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯棋聖戦&第三部定理五三系

2024-06-07 19:04:59 | 将棋
 木更津で指された昨日の第95期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋聖が1勝,山崎隆之八段が1勝。
 ホテル三日月の社長による振駒で山崎八段が先手となり相掛り。後手の藤井棋聖だけが飛車先の歩を交換する形になりました。
                                        
 先手はここから☗3三角成☖同銀と角を交換して☗7五歩と突きました。これは後手に☖7四歩と突かせないことによって桂馬を使わせないようにするという意図。
 後手は☖4四歩と突き☗8八銀と上がったときに☖4三銀と引きました。これが非凡な一手。先手は☗7七銀と上がりたいのですが☖5四角と打たれて困ります。なので☗2六飛と浮いて受けました。
                                        
 第2図となって先手が主導権を放棄したような形になり,作戦負けとなりました。第2図以下☖3一王☗6八玉としてから☖3五歩と飛車を目標にこれも非凡な攻めを見せ,後手の快勝となっています。
 藤井棋聖が先勝。第二局は17日に指される予定です。

 受動的な自己満足acquiescentia in se ipsoが危険であることを國分は次のように説明しています。
 第三部定理五三には系Corollariumがあります。まずそれをみておきましょう。
 「この喜びは人間がより多く他人から賞賛されることを表象するに従って,ますます強められる」。
 なぜこのようなことになるかといえば,賞賛lausをスピノザは感情affectusのひとつとして解していることと関連しています。ここでいわれている,あるいは同じことですが,スピノザがいう賞賛とは,我々を喜ばせようとするコナトゥスconatusの下になされた他人の行為を表象するimaginariときに我々が感じる喜びlaetitiaのことなのです。したがって,AがBに賞賛されるというのは,Bを喜ばせようとする行為をAがなしているとBが表象したときにBが感じる喜びです。よってBがAを賞賛しているとAが表象するときには,Bの賞賛の原因causaがA自身であるというようにAは認識するcognoscereことになります。つまりBはAを原因として伴った喜びを感じているというようにAは表象するのです。第三部定理二七により,AはBに対して感情の模倣affectum imitatioを起こすでしょう。いい換えればAはA自身を原因の観念ideaとして伴った喜びを感じることになるでしょう。つまりAはA自身の観念を伴ったそれだけ大なる喜びを感じることになるのです。つまり,もしもAがA自身の能力potentiaを観想するcontemplariことによって喜び,自己満足という喜びを感じているときに,その能力を賞賛されるということがAに生じるのであれば,Aの自己満足はそれだけ強められるということになります。
 ここでは表象されることを前提にこのようにいわれているわけですから,この能力の観想contemplatioというのが受動passioであるということが前提となっているのと同じことです。つまり,前もっていっておいたように,スピノザは理性ratioによる自己満足とか第三種の認識cognitio tertii generisから生じる自己満足は,人間が感じる最高の満足であるといっているわけですが,自己満足のすべてを肯定的に評価するわけではないのです。そしてこの文脈でスピノザが自己満足について語っているのは,構成の上での理由であると國分は指摘していたわけです。そしてスピノザが,受動的な自己満足を自己愛philautiaというのも,それが理由になっているといえます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典東京ダービー&前振り

2024-06-06 19:23:31 | 地方競馬
 昨晩の第70回東京ダービー
 好発はムットクルフェでしたが逃げたのはアンモシエラ。2番手にサトノエピックで3番手にティントレットとラムジェット。2馬身差でシシュフォスとシンメデージー。7番手にイチニチシャチョウ。2馬身差でイモノソーダワリデ。9番手にハビレとオーウェル。11番手にムットクルフェ。12番手にボンドボーイとフロインフォッサル。14番手にクニノトキメキとマコトロクサノホコ。3馬身差の最後尾にキタノヒーロー。前半の1000mは64秒0の超スローペース。
 3コーナーではアンモシエラとサトノエピックは併走で直後にラムジェット。3馬身差でティントレットが追走し直後にシシュフォスとシンメデージー。直線の入口では前の2頭がラムジェットに2馬身ほどの差をつけましたが,直線に入るとまたラムジェットが差を詰めてきて,内で競り合う2頭を差すと抜け出して快勝。競り合いを制したサトノエピックが6馬身差で2着。アンモシエラが2馬身差で3着。
 優勝したラムジェットはユニコーンステークスからの重賞連勝で大レース制覇。デビュー戦でまったく走る気を見せず,離された最後尾から直線だけで前をいく馬すべてを差し切った馬で,その時点でスター候補生になりました。2勝目をあげるのに3戦を要しましたが,それ以降は負け知らずでここまで来ました。反応は鈍いけれども脚は長続きするという内容での重賞連勝ですから,もっと強くなる余地があるように思えます。現状は距離が長い方がレースはしやすいのではないでしょうか。母の父はゴールドアリュール。祖母が2009年に関東オークススパーキングレディーカップ,2010年に名古屋大賞典スパーキングレディーカップ,2011年にTCK女王盃エンプレス杯スパーキングレディーカップを勝ったラヴェリータ。Ramjetはジェットエンジンの一種。
 騎乗した三浦皇成騎手は2022年のJBCスプリント以来となる大レース3勝目。管理している佐々木晶三調教師は2015年の中山大障害以来となる大レース制覇。このレースは今年から重賞になりましたので,両者ともに初勝利です。

 観想するcontemplariという思惟作用をどのような意味で用いればよいかは概ね決定することができましたので,再び國分の議論に戻ります。
                                        
 國分は第三部定理五五を,ひとつのクライマックスといっていました。もっともそれは,具体的な感情論の最後の部分に当たるという意味合いでしかないのですが,だからといって,第三部定理五三で自己の能力potentiamを観想するといわれるとき,それを第三部定理五五の前振り,つまり能力は観想されるが無能力impotentiaは表象されるということだけの意味として理解するわけにはいかないといっています。人間が自己の能力を観想することは,第四部以降にも重要な場面で『エチカ』の中に登場します。現実的に存在する人間が自己の能力を観想することによって生じる喜びlaetitiaは,第三部諸感情の定義二五にあるように,自己満足Acquiescentia in se ipsoといわれるのですが,第四部定理五二は,理性rationeから生じる自己満足は最高の満足であるといっていますし,第五部定理二七では,第三種の認識cognitio tertii generisから自己満足が生じ,これが精神mensの最高の満足であるという意味のことがいわれています。ですから,現実的に存在する人間が,自身の能力を観想することが,スピノザの哲学において重要な思惟作用であるということは疑い得ません。
 ただし,第三部定理五三で実質的に自己満足が言及されるとき,それが第三部定理五五の前振りのような形になっていることにも意味があるのだと國分はいっています。これはまさに観想するということが表象するimaginariということでもあり得るということと関連するのです。理性から生じたり第三種の認識から生じるのであれば,それは十全な認識です。つまり自己の能力というのを正しく認識した上での自己満足です。しかし現実的に存在する人間は,自己の能力を表象する場合もあるのであって,これも第三部諸感情の定義二五によって自己満足といわれるのですが,これは表象しているのですから,自己の能力を正しく認識した上での自己満足ではありません。あるいは同じことですが,自己の能力を見誤って認識した上での自己満足です。こうした自己満足はきわめて危険な自己満足なので,スピノザはあえてこういう文脈にしていると國分はいっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

努力と能動&観想と表象

2024-06-05 19:02:22 | 哲学
 努力conatusとは何かということを検討したときに明らかにしたように,現実的に存在する人間が自己の有esseに固執するperseverareことに努力するconariとき,それが能動的である場合を努力というのであれば,努力はすべての能動actioに帰せられることになります。いい換えればこの場合の努力は能動と意味の相違がないことになります。よってこのような意味において努力という語を使用することには何も意味がないことになってしまいます。
                                   
 このことから理解できるのは,スピノザの哲学で努力といわれるときには,それは能動を意味するわけではないということです。もちろん能動的に努力することもあるのですが,受動的に努力することもあるということです。第三部定理六というのは,現実的に存在する人間が能動的である場合でも受動的である場合でも適用されます。これは第三部定理九から明らかです。そしてこの定理Propositioにおいてスピノザは努力という語を用いているのですから,スピノザが努力を能動あるいは受動passioの一方と関連付けていないということは明白です。
 コナトゥスconatusを努力という日本語に翻訳するとき,気をつけなければならないことはいくつかあるのですが,このこともそのひとつであるといえるでしょう。一般的には僕たちは何事かに向けて努力するというなら,その人がその何事かに向かって能動的に立ち向かうという意味に理解するのではないでしょうか。ところがスピノザの哲学で努力といわれるときには,それは成立しないのです。それどころか,第三部定理六というのは能動的であろうと受動的であろうと成立するのであり,しかも人間は能動的であるか受動的であるかのどちらかなのですから,実はこの定理は人間が現実的に存在しているときには常に適用されるのです。そしてこのことが努力といわれるのですから,現実的に存在する人間は常に努力しているということになります。ここがとくに重要です。現実的に存在する人間は常に努力しているのであって,そこに能動も受動もないのです。

 観想するcontemplariという思惟作用は,精神の能動actio Mentisであるか受動passioであるかとは関係なく使われるということが分かりました。したがって,これはある仕方で精神mensが事物を認識するcognoscereときに,それが受動であるか能動であるかに関わらずに用いられるということになります。ではその仕方がどのような仕方であるのかということについては,國分がいっていることがヒントになるのではないでしょうか。國分がいうには,人間は自分の能力potentiaを観想することはあるけれど,自分の無能力impotentiaを観想することはないのであって,それは表象されるのだといっていて,その理由は,自己の力は自分自身を認識するだけで成立する思惟作用であるのに対し,自己の無能力は自分自身を認識するだけでは成立しない思惟作用であって,自分自身を他と比較するときに成立する思惟作用であるといっていました。つまり人間の精神mens humanaがある事物を観想するというのは,観想されるあるものをそれ単独で認識する場合に用いられる思惟作用であるということになります。
 第二部定理一七は,表象imaginatioという作用について,事物を現実的に存在するということを観想するといっていて,これは國分の指摘に反すると思われるかもしれませんが,そうともいえません。というのはこの定理Propositioでいわれているのは,ある表象像imagoが単独で認識されるということを前提しているのであって,そのような単独で認識された表象像は,やはり単独で認識された別の表象像によって排除されるといっていると解せるからです。ですから自己の無能力は観想されるということはなく表象されるのですが,だからといって表象像が観想されることはないというわけではありません。一方,自己の力は観想されるものであって,それは概念される場合もあるのですが,必ず概念されるというわけではなく,表象される,つまり自己の力が現実的に存在すると観想される場合もあるでしょう。表象するimaginariとは,事物が現実的に存在すると知覚されることですが,観想するは事物が概念される場合と知覚される場合の両方を含むので,表象像が観想されるということはあり得るのであって,ただし複数のものが比較されるなら,それは観想するとはいわれないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登支援・万協三山王冠争奪戦&観想する

2024-06-04 19:04:08 | 競輪
 前橋記念の決勝。並びは真杉‐小林‐佐々木の北関東,森田‐平原の埼玉に佐藤,窓場‐村田の近畿で橋本は単騎。
 佐々木がスタートを取って真杉の前受け。佐々木の後ろは内に森田,外に橋本の競り合い。佐藤の後ろに窓場という隊列で周回。残り4周のバックから窓場が上昇。残り3周のホームで真杉と窓場の併走となりましたが,バックで真杉が突っ張り,窓場は後退。この真杉のスピードアップで佐々木の後ろの競りも決着がつき,4番手に森田,7番手に橋本,8番手に窓場の一列棒状に。ホームから森田が発進しましたが,真杉がスピードを上げて合わせたため,佐々木の横で森田が併走する形で打鐘。競り合いはホームの出口まで続きましたが,森田は浮いてしまい脱落。森田が不発になったのでバックから平原が自力で発進すると小林が番手捲りを敢行。小林はそのまま後続を寄せ付けずに快勝。平原はコーナーで佐々木の内を突き,両者がもつれ合う間に外から差してきた佐藤が2車身差で3着。平原が1車身半差の3着で,平原のすぐ外を強襲した橋本が4分の1車輪差で4着。
 優勝した群馬の小林泰正選手は2月の豊橋のFⅠ以来の優勝。記念競輪は初優勝。このレースは真杉の自力が上位。その真杉が前受けから駆けてきたふたりを突っ張るという作戦に出ましたので,番手の小林が恵まれました。真杉の後ろが地元のふたりだったということで,このような作戦になったのでしょう。小林は記念競輪の決勝までは乗ってくる選手ですが,ここは真杉の力を借りてのものですから,それほど評価はできません。自力で記念競輪の優勝を掴むのがひとつの目標になってくるでしょう。

 人間の精神mens humanaによるすべての認識作用は,概念conceptusか知覚perceptioに分類されます。したがって,これ以外の認識作用について言及されるのであれば,それは概念の一種か知覚の一種か,そうでなければ概念の場合もあり知覚の場合もあるということになります。たとえば人間の精神が何かを表象するimaginariといわれるなら,これは知覚の一種であって,人間の精神が何かを現実的に存在すると知覚するのであれば,それは表象するといわれるのです。一方,いくつかの定義Definitioで解するintelligereといういい方をスピノザはしていますが,この解するというのは理解するという意味で,概念の一種です。いい換えれば解するというのは理解するという意味で,たとえば第一部定義六を例にあげれば,無限に多くの属性からなっている実体substantiam constantem infinitis attributisを概念するconcipereとき,それを神Deumという語で理解するという意味です。つまり解するというのは,ある語を何らかの概念によって理解するという意味であり,この意味において概念の一種であるということになります。
                                   
 それでは,観想するcontemplariというのはどのような思惟作用を意味するのでしょうか。
 観想するというのが知覚の一種であるということは疑い得ません。これは第二部定理一七から明白で,ここではある表象像imagoを観想するといわれています。表象imaginatioは知覚の一種なのですから,表象像を観想するのは知覚の一種だといわれなければなりません。では観想するというのは知覚だけを指すのかといえば,そうではありません。第三部定理五三で観想するといわれる場合は,この後の國分の指摘をみれば分かるように知覚でもあり得ますが,概念でもあり得るからです。僕たちが事物を十全に認識するcognoscereということは僕たちの精神の力potentiaなのであって,その力を観想するときには,僕たちは自身の力を知覚しているのではなく概念しているからです。それまで理解していなかったことを理解することができるようになったとき,喜びlaetitiaを感じたことがあるという方は多いのではないかと思いますが,それは第三部定理五三でいわれている喜びにほかならないのであり,これはそれ自体で明らかなように知覚ではなく概念であるといえるからです。つまり観想するは,概念でも知覚でもあり得るのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大成建設杯清麗戦&概念と知覚

2024-06-03 19:17:41 | 将棋
 5月31日に指された第6期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が12勝,加藤桃子女流四段が11勝。NHK杯の予選を含んだ成績です。
 振駒で加藤女流四段の先手となり,西山女流三冠の角道オープン三間飛車。後手から角を交換して向飛車に進みました。
                                        
 第1図で後手は☖5三銀と上がりました。先手は☗3六歩。後手が☖5五歩と突いたところで☗3一角と打ち込み,☖3二飛☗5三角成☖同金☗2四歩☖同歩☗同飛の強襲をかけました。
                                        
 駒損ですが2筋の突破が約束され,先手が優勢に。手順中☗3六歩と突くのが重要なところで,これがないと☖1四角という手筋が成立します。後手としては第1図から☖5三銀~☖5五歩としたのが危険で,☖3五歩とか☖3三桂のような手を指しておくべきだったのではないでしょうか。
 加藤女流四段が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負には一昨年以来の出場。第一局は来月10日に指される予定です。

 『スピノザー読む人の肖像』でいわれていることと関係ありませんが,ここでスピノザの哲学で思惟作用を表す用語について改めてまとめておくことは徒労ではないでしょう。
 第二部定義三説明でスピノザは,事物を概念するconcipereということと事物を知覚するpercipereということの相違を説明しています。この説明では,概念するは精神の能動actio Mentisを意味し,知覚するは精神の受動passioを意味することになっています。よく知られているように,『エチカ』においてもこの用法は遵守されているわけではありません。ただスピノザがこのようにいっているという事情に鑑みて,このブログの中では,精神が能動によって事物を認識するcognoscere場合は概念するといい,精神が受動によって事物を認識する場合には知覚するといういい方をします。僕が単に認識するという場合は,どちらの場合も含むときか,そうでなければそれが精神の能動であるか受動であるかをとくに重視しないという場合です。また,知覚するはともかく疑念するは日本語ではあまり使われることがありませんから,僕はそれを単に考えるconcipereということがあります。僕が考えるというときはそれは概念するという意味なのであって,精神が何かを知覚するときには考えるといういい方はしないという点に気を付けてください。
 思惟作用に限らず,僕はすべての作用は作用するものの能動であるか受動であるかのどちらかであって,能動でも受動でもない作用はないと考えます。このことはとくに思惟作用に留意すれば第三部定理一から明らかです。この定理Propositioから,もし能動でも受動でもない思惟作用が生じるとすれば,十全な観念idea adaequataでも混乱した観念idea inadaequataでもない何らかの観念があるということが帰結します。しかしそのような観念は存在しません。つまりあらゆる思惟作用は精神の能動であるか受動であるかのどちらかなのであって,要するにそれは,すべての思惟作用は概念conceptusであるか知覚perceptioであるかのどちらかであるということになります。よって僕はすべての思惟作用は,精神が事物を概念するという思惟作用と,精神が事物を知覚するという思惟作用の二種類に分類することができると考えますし,その考えの下に思惟作用に関する語を使用します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする