第四部定理五七で,高慢な人間が寛仁generositasの人を憎むといわれているのは,ひとつのキーポイントです。第三部定理五九備考でいわれているように,寛仁というのは感情affectusのひとつであって,これは人間が理性ratioに従うときにのみ生じる欲望cupiditasのひとつです。したがって人間は高慢superbiaである限りは理性に従っている人を憎むのです。このことが,高慢は狂気であるとスピノザがいう理由のひとつとなっています。憎しみodiumというのは第四部定理四五および第四部定理四五系二から分かるように,スピノザが全面的に否定するnegare感情のひとつです。つまり高慢な人間は単に理性に従うことに反するという点で狂気といわれるわけではなく,理性に従っている人を憎むという点で狂気といわれているのです。 第四部定理二五というのは,自己満足acquiescentia in se ipsoあるいは自己愛philautiaだけを射程に入れたような定理Propositioではなく,ごく一般的な定理です。ですからこうしたことは自己満足だけに適用されるわけではなくて,受動的な喜びlaetitiaのすべてに妥当するといわれなければなりません。喜びはより小なる完全性perfectioからより大なる完全性への移行transitioであり,悲しみtristitiaはより大なる完全性からより小なる完全性への移行ですから,ある特定の人間だけを抽出すれば,悲しんでいるよりも喜んだ方がよいということになります。しかし人間が共同で生活するという点に着目すると,喜びはかえって迷惑を及ぼすので,悲しみを感じていた方が人びとの和合には有益であるという場合も生じるのです。
ここではこのことを,希望spesと不安metusの場合で考察します。というのはこのふたつの感情は表裏一体の感情であり,僕たちは希望を感じているときは不安も感じていて,逆に不安を感じているときには希望も感じているからです。このゆえに,一人ひとりの人間は,不安に苛まれているよりは希望に胸を膨らませている方がよいのであり,実際に強い不安に苛まれている人に対しては,僕もそのようなアドバイスをします。強い不安を感じるということは,それだけ大きな希望を抱いているということの裏返しなのであって,そうであれば少なくともその人間にとっては,大きな希望の方にすがっている方がよほどましであると僕は考えるconcipereからです。
第四部定理三五にある通り,僕たちは理性ratioに従っている限りでは現実的本性actualis essentiaが一致します。ですからたとえ第四部定理二五にあるように,各人がそれぞれ自己の有の維持に努めるconariとしても,それが他者の自己の有esseの維持を阻害することはありません。よってこの様式である人間が自己満足acquiescentia in se ipsoを感じたとしても,それで他者の現実的本性を阻害することはないのです。ところが第四部定理三四にあるように,各人は受動的であるときは相互に対立的であり得ます。必ず対立するというものではありませんが,対立的である場合もあります。つまり各人が受動的に自己の有を維持することに努めると,それが他者の自己の有の維持を阻害する場合が生じ得るのです。第三部定理九は,僕たちが混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも自己の有に固執するperseverareといっています。これは,第三部定理一により,僕たちは受動的である限りにおいても自己の有に固執するというのと同じです。よってこの様式で僕たちが自己満足を感じたときは,それが他者の現実的本性を阻害することが生じ得るのです。このために第三部定理二六備考では,自己満足の一種である高慢superbia,これは第三部諸感情の定義二八から,受動的な自己満足ですから,スピノザの分類に倣えば自己愛philautiaの一種である高慢が,狂気と称されるのです。これは,自己満足が,能動的であれ受動的であれ,最高の満足であるとみなせば理解できると思います。受動的な自己満足は,それを感じる当人にとって最高の満足であるがゆえに,他者にとって最高の迷惑にもなり得るのです。
理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoは最高の満足ですが,表象imaginatioから生じる自己満足は,狂気ともなり得るのです。これは,自己満足が,自己の能力potentiaを観想するcontemplariことによって生じる喜びlaetitiaであるといわれるとき,観想するということが,自分自身だけを見つめるということも意味し得るし,自分自身を他と比較して表象するimaginariということも意味し得るからこそ生じるのです。いい換えれば自己満足は,自分自身だけを見つめたときには最高の満足であり,他と比較したときにもその当人にとっての最高の満足であるのですが,前者は他からみても何も問題のない満足であるのに対し,後者は他からみた場合には狂気ともいえるような,迷惑を及ぼす満足であるということになるのです。
これに関連して僕の方からいっておきたいことがあります。 第四部定理五二は,理性rationeから生じる最高の満足が自己満足acquiescentia in se ipsoであるといっています。では受動的な満足のうち最高の満足は何であるかといえば,それも受動的な自己満足であろうと僕は考えます。ただこのことは,それを感じるその当人にとってそうであるというだけで,人間が協働して生活を送っていくということを考慮した場合は,その最高の満足がかえって他者に対して迷惑を及ぼすこともあるでしょう。スピノザが第三部定理五五備考のようなことをいうのは,そうしたことも考慮に入れている,というかむしろ人間は共同で生活していくものだということを念頭に置いているからだといえると思います。たとえば人間は他者の力potentiaと自身の力を比較して,自身の力を過大に評価することによって喜びlaetitiaを感じるということがあります。これは自分の力を観想するcontemplari,表象するimaginariという意味ではありますが観想することによって感じる喜びですから自己満足にほかなりません。一方,ここでは自身の力を過大に評価するということを前提としているわけですから,自己満足のうちとくに第三部諸感情の定義二八にある高慢superbiaであるといえるでしょう。この定義でいわれている自己への愛philautiaというのは自己愛philautiaなのであって,スピノザはとくに受動的な自己満足についてそれを自己愛といっているからです。ですから高慢というのは,人間が受動的に感じる喜びの中では,最高の満足のひとつであるといっていいでしょう。ところが第三部定理二六備考では,この高慢が狂気といわれているように,きわめて否定的に評価されているのです。
ここで國分が第三部において重要な定理Propositioのひとつとしてあげていた,第三部定理二八に着目します。ここから僕たちは,喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するということが分かります。第三部定理五三系でいわれている賞賛lausは喜びですから,僕たちによって希求されることになります。いい換えれば僕たちは,他者からの賞賛を欲望するようなコナトゥスconatusあるいは同じことですが現実的本性actualis essentiaを有していることになります。
このことの否定的な側面をこれから論考していくことになりますが,この現実的本性は,否定的な側面だけを有しているわけではないということを,前もっていっておきましょう。というのは,僕たちは他者からの賞賛を欲望するがゆえに,他者に賞賛されるようなことを実際になすということがあり,そうしたことのためになす行為のうちには,他者に喜びを齎すことも含まれるであろうからです。単純ないい方をすれば,褒められたいがためにいいことをするということは僕たちには生じ得るのであって,このような効果が賞賛を欲望する現実的本性から生じるのであれば,この現実的本性は結果effectusとしてよいことを僕たちに生じさせるでしょう。ですから賞賛を欲望するということは,人間の現実的な生活の上で,全面的に否定的な要素だけ含んでいるというわけではありません。
それから賞賛は,自己満足acquiescentia in se ipsoあるいは自己愛philautiaという別の喜びを強化する感情affectusでもあります。したがって,ほかの条件が同一であるならば賞賛はほかの喜びよりも強く希求されることになります。いい換えれば一般的に喜びを希求するというよりも強く,僕たちは賞賛を希求するのです。
ではこの現実的本性の否定的な側面は何かといえば,それはスピノザ自身が第三部定理五五備考の中で語っています。スピノザはこの備考Scholiumの中で,自己愛と自己満足を分けているのですが,それに続けて次のようにいっています。
「そしてこの喜びは人間が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから,したがってまた各人は,好んで自分の業績を語ったり,自分の身体や精神の力を誇示したりすることになり,また人間は,このため,相互に不快を感じ合うことになる」。
國分は第三部定理五五を,ひとつのクライマックスといっていました。もっともそれは,具体的な感情論の最後の部分に当たるという意味合いでしかないのですが,だからといって,第三部定理五三で自己の能力potentiamを観想するといわれるとき,それを第三部定理五五の前振り,つまり能力は観想されるが無能力impotentiaは表象されるということだけの意味として理解するわけにはいかないといっています。人間が自己の能力を観想することは,第四部以降にも重要な場面で『エチカ』の中に登場します。現実的に存在する人間が自己の能力を観想することによって生じる喜びlaetitiaは,第三部諸感情の定義二五にあるように,自己満足Acquiescentia in se ipsoといわれるのですが,第四部定理五二は,理性rationeから生じる自己満足は最高の満足であるといっていますし,第五部定理二七では,第三種の認識cognitio tertii generisから自己満足が生じ,これが精神mensの最高の満足であるという意味のことがいわれています。ですから,現実的に存在する人間が,自身の能力を観想することが,スピノザの哲学において重要な思惟作用であるということは疑い得ません。
ただし,第三部定理五三で実質的に自己満足が言及されるとき,それが第三部定理五五の前振りのような形になっていることにも意味があるのだと國分はいっています。これはまさに観想するということが表象するimaginariということでもあり得るということと関連するのです。理性から生じたり第三種の認識から生じるのであれば,それは十全な認識です。つまり自己の能力というのを正しく認識した上での自己満足です。しかし現実的に存在する人間は,自己の能力を表象する場合もあるのであって,これも第三部諸感情の定義二五によって自己満足といわれるのですが,これは表象しているのですから,自己の能力を正しく認識した上での自己満足ではありません。あるいは同じことですが,自己の能力を見誤って認識した上での自己満足です。こうした自己満足はきわめて危険な自己満足なので,スピノザはあえてこういう文脈にしていると國分はいっています。