つらつら日暮らし

胎児に授戒の功徳は及ぶのか?(3)

この記事は、以前【胎児に授戒の功徳は及ぶのか?(2)】という記事で書いた通りの問題意識で取り組んでいるものである。改めて、見ておきたい文脈を見出したので見ておきたい。

爾時、彼の国に大長者有り、一切施と名づく。長者に子有り、名づけて戒護と曰う。母胎に在りし時、母、信敬するが故に、予め其の子の為に三帰依を受く。子、既に生じて已に年、八歳に至る。父母、仏を請して家に於いて供養す。童子、仏を見て安んじて行き徐ろに歩み、足下に華を生じ、大光明有り。見已りて歓喜し、仏の為に礼を作す。礼し已りて諦観して目、暫らくも捨てず。一たび仏を見已りて即ち能く百万億那由他劫の生死の罪を除却す。
    『観仏三昧海経』巻9「本行品第八」


以上である。これなどは、明確に功徳を及ぼそうとして、母親が胎児のために三帰戒を受けているので、非常に参考になる。それで、この一節については、インドにいた或る長者に子供が生まれたが、その子供は母親の胎内にいる間に、三帰戒を受けてくれていたという。そして、その子供が生まれたあと、8歳の時、父母が仏陀を請して家で供養(食事)をしていただいていたところ、その8歳の童子が仏を見て近づこうとした。すると、足許からは華を生じ、大光明もあったという。

自らの異様な様子に満足したその童子は、歓喜して仏に礼拝し、しかもこの時、仏を礼拝することで、無量の罪が滅したという。

さて、ここから知りたいのは、まだ胎内にいた子供のために受けた三帰戒が、生誕後に活用されているかどうかである。上記一節では、明確な功徳があるとは示していないものの、実質的には8歳の時に仏陀に見え、多くの功徳を得たとあるので、多分にこの胎内での三帰戒を受けたことは、これらの善果に繋がったと思われる。

ただし、そのことを本経典では説いていない。何となく、文脈から察せよ、というほどの内容である。こういうのを見てしまうと、胎児に授戒の功徳が届くかどうか、仏教側でどこまで理論化しているか分からないということになる。

なお、この記事で扱っている問題を言い換えると、以下の幾つかの知見を導くことが出来る。

①仏教ではどの段階で功徳が届く「人格」を認めるのか?
②戒の代受を認めるのか?


以上であろうか。特に①の方が難しそうなので、その辺をアビダルマなどで確認すると、また新たな知見が得られるかも知れない。②については、菩薩戒として考えれば、話は簡単だ。

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/
> 風月 さん

なるほど、そういうご縁はあったかもしれないですね。ありがたいことです。

例えば、總持寺を横浜に移転させた石川素童禅師も、親が無住道曉禅師の長母寺を参拝しながら、もう1人子供を授かったら、仏門に入れる、と願ったそうで、生まれた石川禅師は大変に持律堅固の方として、猊座にまで上られました。
風月
胎児時代
https://blog.goo.ne.jp/fugetu3483
この記事を読ませていただきながら、5人兄弟の中で私だけが、信仰心があるのはなぜだろうか、と考えたことがありました。私が産まれる一年前に姉が亡くなっています。それで母はいつも手を合わせていたに違いない、と思っていました。
そうしますと、お腹の中でも、本人が三帰戒を受ければ、かなり影響があるのではないかと推察いたします。
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