つらつら日暮らし

三帰依と題目の関係について

拙僧の手元に、日蓮聖人の御書から、各項目に因んだ教えを集めた『崑玉撮要集』(上下巻、正徳6年初版の天保8年再版本)がある。本書を見ていると、様々な事柄について関係した日蓮聖人の教えを知ることが出来るということで、現代的なテキスト検索などが無かった時代には重宝したのだろうとか勝手に推察する次第である。

そこで、ちょっと気になる一節があったので、学んでみたい。

○三帰を唱ふるより題目を持するが勝れし事
十二御書に云く、三帰ばかりを持つ人大魚の難を免れ、何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心一切経の眼目也〈云云〉
    『崑玉撮要集』巻下・73丁表、見易く改める


なるほど、三帰依よりも『法華経』題目の方が勝れているという話をしているらしい。それで、この典拠となる御書は何であろうか?ちょっと調べたところ、真蹟が残る『法華題目抄』という文献に「三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる。何に況んや法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」とあるらしいので、ここか。

とはいえ、若干記述が違うけれども、この辺は江戸時代に一般的に参照されていた御書本文の校訂不足というところだろうか。

さて、この意図についてはどう理解すべきだろうか?拙僧などは、普通に「三帰依」の方が大事そうに思えてしまう。ただ、先の一節は、以下の問答の一部である。

問て云く 火火といえども手にとらざればやけず、水水といえども口にのまざれば水のほしさもやまず。只南無妙法蓮華経と題目ばかりを唱うとも義趣をさとらずば悪趣をまぬがれん事いかがあるべかるらん。
    『法華題目抄』


つまり、「南無妙法蓮華経」と唱えるばかりで、義趣(意義、内容)を悟っていない時は、悪趣(三悪趣・三悪道)を免れないのでは?という問いだったのだが、それへの答えとして、先の一節があるのである。しかも、日蓮聖人の意図は、先の一節に続く文章にあると思われる。

 汝等此れをとなえて四悪趣をはなるべからずと疑うか。正直捨方便の法華経には以信得入と云い、雙林最期の涅槃経には「是の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば則ち已に摂尽す」等云云。
 夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初め也。たといさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者也。たといさとりあれども信心なき者は誹謗闡提の者也。
    同上


要するに、題目の功徳をしっかりと信じることが大事だという。それを示すのに、悟りと信心との対比を行いつつ、後者の方が大事だと説くのである。ただし、これでは「三帰依」との比較にはなっていない印象があるのだが、この辺はどうなるのだろうか?むしろ、日蓮聖人の「三帰依」観を見る方が先か?

設ひ堅く三帰・五戒・十善戒・二百五十戒・十無尽戒等の諸戒を持てる比丘・比丘尼等も、愚痴の失に依て、小乗経を大乗経と謂ひ、権大乗教を実大乗経なりと執する等の謬義出来す。大妄語・大殺生・大偸盗の大逆罪の者也。
    『大学三郎御書』


こちらも、真蹟が残る御書から引用してみたが、喩え三帰依を護持していたとしても、実大乗経を正しく把握出来ていない場合には、大逆罪だとしている。そうなると、確かに三帰依よりも、『法華経』題目の方が大事という指摘が成り立つことが理解出来た。

まぁ、例えば拙僧などが把握している教えなどとも、この辺は当然に違っており、宗派間の相違だから、会通する必要も無いと思う。特に、拙僧などは禅天魔なので・・・

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