つらつら日暮らし

マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・2

ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載2回目である。

2 その言葉が(司祭が職務上行う告解と償罪としての悔い改め、すなわち)サクラメントとしての悔い改めを指していると理解することはできない。
    下掲同著・13頁


ここでいう「その言葉」とは、第1条における、イエスが述べた「悔い改めのサクラメント」のことを指しており、ここで、ルターはイエスが述べた「悔い改めのサクラメント」と、ルター当時の教会で用いていた「サクラメントとしての悔い改め」を選り分けることを主張していることが分かる。

確かに、第1条でルターは、イエスが述べた「悔い改めのサクラメント」とは、「信じる者たちの生涯のすべてが悔い改め」であることを願ったという解釈をしている。つまりは、イエスの場合には教会に於ける儀礼のみを意味しているのではなくて、その「信じる者」に於いて、その生涯が自らの罪と向かい合う悔い改めであるべきだという立場だということになるだろう。

しかし、当時の教会は、この言葉について、教会でのサクラメント(儀礼を伴う秘蹟)という意味で用い、結果として人々に教会へと向かわせ、そして、罪を償うための罰を代行させる「贖宥状」の販売について肯定的に主張する根拠にしていた、ということになるのだろう。

この『提題』の段階で、ルターがどこまで人間内面の信仰にまで踏み込んでいたのか、拙僧自身まだまだ理解が足りないが、少なくとも個人的な信仰と、当時の教会のあり方を対決させようとしていたいとは、この短い一文からも知ることが出来るように思う。

【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』(講談社学術文庫、2017年)

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