つらつら日暮らし

天台宗の「十二年の籠山行」に関する雑考

「十二年の籠山行」という言葉、伝教大師最澄が定めた日本天台宗の修行体系だという。伝教大師の弟子の1人である光定は次のように述べている。

最澄法師、国家のために備えて、園田を欲せず。酒とこの女とを入れざるを永代の常例として修学せしむ。十二年の山籠僧なり。
    『伝述一心戒文』


要するに、伝教大師が国家のために役立つ僧侶を育てようとしているが、その場合、荘園などを欲せず、酒と女性を入れない道場で12年の籠山行を行うと定めたというのである。ということで、伝教大師の言葉の中で、どの辺が典拠になるのかを見ておきたいが、おそらくは以下の一節である。

 凡そ大乗の類は、即ち得度の年、仏子戒を授けて菩薩僧と為す。其の戒牒、官印を請して、大戒を受け已り、叡山に一十二年住せしめて、山門を出でず、両業を修学す。
 凡そ止観業とは、年年毎日、法華・金光・仁王・守護、諸大乗等・護国衆経を長く転じ長く講ず。
 凡そ遮那業とは、歳歳毎日、遮那・孔雀・不空・仏頂、諸真言等・護国真言を長く念ず。
 凡そ両業の学生、一十二年に修する所、学する所の業に随って任用す。
 能く行じ能く言うは、山中に常住して、衆の首と為り、国の宝と為る。
 能く言い能く行わざるは、国の師と為る。
 能く行い能く言わざるは、国の用と為る。
    『山家学生式』


以上の通りである。要するに、比叡山で12年籠山行を行う際に、2つの修行体系があって、それをどう行ったかによって、「国の宝」「国の師」「国の用」という3種類の活用方法があるとしているのである。とはいえ、これだけだと、12年という年数の典拠が良く分からない。そして、もしかして、12年の修行というのは、北伝の釈尊伝だと、苦行・瞑想をそれぞれ6年ずつ、合計12年行ったという話もあるので、その辺に準えたのかな?とか思っていたが、そんな簡単な話ではないようで・・・

問うて曰く、何故か一十二年に限るや。
答えて曰く、謹んで案ずるに蘇悉地羯羅経中巻に云く〈定引に向かうが如し〉。
    『天台法華宗学生式問答』巻八


これを読むと、密教系の経典の中に、12年という話が出ているという。

又た一切の真言念誦して一倶胝すれば、決定して成就す。若しくは時を作して念誦するは、十二年を経る。縦い重罪有れども、亦た皆な成就す。仮使、法を具足せざれども、皆な成就することを得る。
    『蘇悉地羯羅経』巻中


どうやら、ここに「十二年」と出てくる。おそらくは、真言を念誦して、一倶胝という、実質的な無限に近い時間を経れば、必ず成就するというが、しかし、具体的な時間を設定して念誦するとすれば、12年を経るべきだという。それくらいの期間、念誦すれば、たとえ、重罪があっても、真言を成就することが出来るとし、それは、行者自身に法を具足しなくても、成就することが出来るという。

最後のところは、正直なところ、テクニカルに過ぎて、何を言っているか良く分からないので割愛するが、ここで「12年」とあることで、それまでの自分自身の罪などがあっても、それを克服することが出来ることになるだろう。しかし、最初の『伝述一心戒文』の部分だけを見ると、12年は本人の持戒に掛かっている印象があるが、実際には滅罪と真言の成就だったという話なのだろうか。

そうなると、真言宗ではむしろどうだったのか?とか思ってしまうが、門外漢の当方では良く分からないので、この記事はここまで。

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