新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

家康は清和源氏との繋がりが必要だった

2022年08月05日 | テレビ番組
「ハヤシソン!」という面白いテレビ番組があります。歴史の偉人の子孫を調査し、偉人の隠れた一面を発掘していくバラエティ番組ですが、林修先生を登場させることにより深みのある番組になっています。

今回は、尾張徳川家初代·義直が家康の死後に作成したという16mにも及ぶ「御系図」が紹介されました。

尾張徳川家のお宝が厳重に保管されているお蔵から取り出されたものでした。初代義直が家康の死後に作成したものです。

清和天皇まで遡る清和源氏からの繋がりが書かれ、徳川を武家政権の正統だと示すものです。

丁度、来年の大河ドラマに備えて火坂雅志『天下 家康伝』を読み終えたところで、その始まりの部分に「松平家康」から「徳川家康」に変わるくだりが出ていました。
若き家康は守護職·三河守任官を朝廷に申請していましたが、松平家から三河守が出た前例はないとすげなく断られていました。三河国の支配を強化するために守護職の権威を望んでも、松平姓をのままでは守護職を得ることは不可能でした。

そこで動いたのが家康が懇意にしている京の商人·茶屋四郎次郎。五摂家の近衛前久や神祇職·吉田兼右に積極的に働きかけを行います。
『その結果、吉田兼右が元は清和源氏の新田氏につらなり、藤原氏にも通じるという徳川家の系図を見つけ出し、その端に家康の名を書き加えることで、ついに叙任が認められたのだった。系図の偽造ではあるが、当時はさほど珍しいことではない。以後家康は松平姓を捨て、徳川家康と名乗ることになる』と明快ないきさつが書かれています。

それが1566年12月。朝廷より「徳川」の姓をたまわり、従五位下三河守に叙任されたことで、名実ともに三河国の支配者となり、領内支配に自信をつけた家康は大きく一歩を踏み出すのです。
松平家は武士の名門源氏、平氏につらなる家柄ではなかったのが、巧妙に頼朝と祖を同じくする清和源氏に「挿入」されたのです。家康は終生「吾妻鏡」を手元に置いていたそうです。

歴史とは面白い!  
もう少し若い頃、歴史小説も大河ドラマもオジサンのものだと避けていましたが、60代になってから突如その面白さにはまりこみました。この面白さに出会わなかったら、老後の時間をどんな風に埋め合わせていたのだろう・・・。






 



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