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時の関守

わたしの中のだめな自分 (1)

以前よく、近くの図書館に行っていた時期がありました。
(小説とか値段が高くて、よほど好きな作家じゃないと買えません。)

あるとき、とても気になる本がありました。
なにか、とても気になるのですが、手に取る勇気がありません。
何度か逡巡(しゅんじゅん)して、一度手に取って、ぱらぱらとめくってみました。
なんとなく内容がつかめましたが、やっぱりなぁ、
思っていたとおりの、恐ろしい本であることがわかりました。

読みたくないけど、(私の中では)きっと読むだろうというのがわかっていました。
半年後ぐらいでしょうか、やっと決心して、借りることにしました。
(おおげさですね。でも、実際、そんな感じでした。)
皆さんも知ってる人もいるかと思いますが、アフリカ、ルワンダでの大量虐殺(ぎゃくさつ)がありました。
そこで生き延びた女性の記録です。

私の直感的な感想がゆるされるなら、横溝正史の八墓村とアンネの日記を足(た)して、二で割ったうえ、バージョンアツプしたような感じです。
ルワンダが植民地支配を受けていた時代に、征服者が自分たちに都合のいい、この国を不幸にする支配の構造をつくりました。
少数民族のツチ族に、多数民族のフツ族を支配させたのです。

植民地支配という歴史は、いつしか終わりをつげましたが、ただ、ツチ族へのうらみだけが残りました。
悪事は、暴力によって一つの国を、なんの正当な理由なく、支配した当時の欧州列強のものです。
しかし、うらみは自分たちの近くにいて、比較的豊かな生活を送っていたツチ族にむけられました。

なにかで読んだことがあります。
お釈迦様の時代にも、人は借金することのつらさを嘆いていたそうです。
お金の借金でさえつらいのですから、うらみ、怒りが積もり重(かさ)なったとしたら、それは、人間の社会に、どれほどの不幸をもたらすのか、想像もつきません。

コメント一覧

tokinosekimori-kitaiwahara
@1948219suisen さんへ
ほんとうにそうですよね。
誰もが怒る相手が、巨大であっても、自分より強い相手であっても、そこに怒るべきだということは本当知っているのです。でも、無理だとわかって、自分より弱い相手に怒りをぶつける。
やってることは同じなのです。
それで少しは気が晴れた気がしていますが、加害者になることによって、より大きな業を背負うことになります。
人に虐められれば、大きな傷を負いますが、加害者になるということは、何代にもわたる業を背負うことになると私は思っております。
1948219suisen
>しかし、うらみは自分たちの近くにいて、比較的豊かな生活を送っていたツチ族にむけられました。

こういうことは現代社会でもありがちですね。

手の届かない人には恨みを向けるのに困難が伴うから近くにいて比較的虐めやすそうな人に対して妬みを晴らすということが個人間にもあるように思うときがあります。
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