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「出雲王国とヤマト政権」 ー伝承の日本史ー
富士林雅樹著 大元出版
より敬意を持って引用させていただく
p105 10行
3.出雲王たちの遭難
そのころ秦から徐福が渡来し、ホアカリと名のって、石見国に住んだ。(第四章参照)ホアカリは、出雲王の姫を奥方に迎えたいと希望した。神門臣家の家来になっていたホヒが通訳し、その旨を伝えたところ、王は承諾した。そして、神門臣家のヤチホコ王の娘・高照姫(道姫)が、石見のホアカリのもとに輿入れすることになった。彼女の屋形は、イズモ兵に守らせていた。
やがて、高照姫は男の子を産んだ。その子は、イソタケ (五十猛)と名付けられた。衛挺生は著書に、「徐福の父は、徐猛である。このことは梁王僧儒の『百家譜』および『北宋徐氏譜』に出ている。」と書いている。シナでは、先祖の名前の一字を、子孫に使う習慣があった。五十猛の「猛」の字は、祖父の名の一字を受け継いだものと考えられる。
ところで高照姫は、有力豪族・宗像家の次女・タギツの産んだ、王家の中で最も高貴な姫の1人であった。ホアカリ(徐福)が、彼女を嫁に貰い、その血筋の子供をもうけるということは、出雲王国内で相当の地位を手に入れるということを意味していた。
出雲王国で権力を持っために、王と血縁関係になることが最も近道であるということを、徐福はシナにいた時に商人たちから聞いて知っていたものと思われる。徐福が大した軍備を持たずに渡来したのは、出雲王家と血縁を結ぶことで、自分の野望を容易に達成できると考えていたのかもしれない。
ある日、タケヒナドリがヤチホコ王に、「海岸で海童かいどうたちが、ワニ(サメ)を捕えて騒いでいる」と、告げてきた。出雲では、ワ二は神聖な動物と考え、尊んでいた。王は、タケヒナドリに連れられて、園そのの長浜に出向いた。そして、海童たちにワニを放つよう説得した。すると、海童たちは王を取り囲み、船に引きずりこんだ。
それ以降、ヤチホコ王は行方不明になった。この異変は、タケヒナドリによって、神門臣家と富家にすぐに知らされた。このとき富家のコトシ口ヌシは、大庭の宮殿には不在で、美保の崎で魚釣りをしていた。
コトシ口ヌシに異変を伝えるために、さっそく使者のタケヒナドリを乗せた舟がオウ川をくだり、王の海(中海)を渡って知らせに出た。その速舟の様子は、のちに美保神社で「諸手もろた舟神事」として再現されることになった。タケヒナドリは使者として、諸手舟に乗りこんだ。そしてコトシ口ヌシに会うと、「ヤチホコ様が、園の長浜で行方不明になったので、コトシ口ヌシ様もいっしょに来て探して下さい」と告げ、コトシ口ヌシと従者を舟に乗せた。かれらは、数隻の舟で王の海(中海)を西に向けて進んだ。
舟は、弓ヶ浜の粟島あわしま(米子市彦名町)に着いた。すると、海童たちが現われ、舟を取り囲んだ。そして、コトシ口ヌシは舟から引きずり降ろされた。それ以降、コトシ口ヌシも行方不明になってしまった。出雲王国は、主王と副王の2人をほぼ同時に失うという、前代未聞の事態におちいった。
出雲王国の重臣だったホヒとタケヒナドリは、出雲王たちを案内して帰って来たあとは、何も話さなかった。
ひと月ほど後に、出雲王たちがいなくなったのはホヒ親子の仕業であると、海童の1人が白状した。
神門臣家がヤチホコ王を探し出した時は、王は猪目いのめ洞窟 (出雲市猪目町、図14)に幽閉され、枯死していた。
猪目洞窟については、『出雲国風土記』の出雲郡宇賀うが郷に、次のように書かれている。
・・・北の海の浜に、磯がある。・・・
磯から西の方にある窟戸いわやど(洞窟)は、高さ、広さがそれぞれ六尺ほどである。窟戸の中に穴がある。人が入ることはできない。深いのか浅いのかわからない。夢で、この磯の洞窟のあたりまで来ると、必ず死ぬ。だから、土地の人は、昔から今にいたるまで、黄泉よみの坂や黄泉よみの穴と呼んでいる。
この黄泉の穴の話は、奈良時代の都にも聞こえていたため、出雲は「黄泉の国」と呼ばれるようになった。
それで『記紀』では、イザナギとイザナミが争った黄泉の国は、出雲にあるように書かれた。
この洞窟は、海の方から見ると左上から右下に斜めにつづく地層を屋根としており、イノシシの右目の形に見えるので、今は猪目洞窟と呼ばれている。
猪目洞窟で、ヤチホコ王の遺体を確認した神門臣家の人々は、その西南にある竜山に、王の遺骨を移した。竜山は、昔は自然銅が採掘される山であった。その銅を掘った跡の穴に、ヤチホコ王は丁重に埋葬されたという。現在では、その場所はわからなくなっている。
猪目洞窟は、上の土が落ちて入口が土砂に覆われていたので、永い間忘れられていた「黄泉の坂」は、東出雲町の揖屋いやであると誤解されたこともあった。
1948年に、漁船置き場として利用するため、猪目港の崖の堆積土を取り除いたところ、入口が現れた。その際に洞窟の中から、いわゆる弥生時代から古墳時代にかけての人骨16体以上が発見された。ゴホウラ貝輪を腕にはめた人骨や、丸木舟に使われた材料で覆われた人骨、須恵器を枕元に置いた人骨などが見つかったことから、この場所が古代の埋葬遺跡であったものと推定されている。これらの人骨は、ヤチホコ王の遭難より後の時代のものであると考えられる。
『日本書紀』では、タケヒナドリのことをイナセハギ (稲背脛)と呼んでいる。猪目洞窟から少し西に行ったところには、伊奈西波伎いなせはぎ神社がある。それはまるで、タケヒナドリ(イナセハギ)が猪目洞窟方面を見張っているかのようである。
ヤチホコ王が遭難した園の長浜には、かれを祀まつる祠がつくられた。その祠は長浜神社(出雲市西園町)となり、今は6代大名持・オミヅヌを祀まつっている。
一方、富家がコトシ口ヌシを探し出した時には、かれは粟島の裏の洞窟に幽閉され、ヤチホコ王と同じように枯死していた。
粟島については、『伯耆国風土記(逸文)』に、次のように書かれている。
粟島あわしま。相見あいみの郡。郡家の西北に余戸あまりべの里があり、粟島がある。少日子すくなひこの命(コトシ口ヌシ)が、粟をおまきになられた時、粟の実が穂いっぱいに実って落ちた。その粟柄に乗ったらはじかれて、常世とこよの国へお渡りになった。それで、粟島という。
「常世の国へお渡りになった」とは、あの世に去ったということを示している。この史実の影響で、粟島の隣にあった大きな島が「夜見の島」と呼ばれるようになった。「夜見」とは、黄泉(死後の世界)を意味する。近くの弓ヶ浜という地名も、もとは夜見ケ浜であった。
コトシ口ヌシは粟島で亡くなったので、その粟にからませた神話がつくられた。しかし前述の通り、体が小さかった訳ではない。
現在粟島は、陸とつながり丸い丘となっており、丘全体は粟島神社 (米子市彦名町)になっている。急な長い階段を上ると、丘の頂上には本殿があり、少名彦が祀まつられている。本殿の後ろ側からは、木々の間に王の海(中海)が見える。
粟島神社の丘の裏手には、「静しずの岩屋いわや」という名の洞窟がある。この洞窟は、もともとは女神を祀まつる磐座だったものと考えられる。外からのぞくと、内部には非常に狭い空間が見える。コトシ口ヌシは、ここに幽閉され、お亡くなりになったという。
神社の境内には、万葉集335番の歌の石碑がある。その歌は、次のようなものである。
大汝おおなむち少彦名(少名彦)のいましけむ
志都しずの岩屋いわやは、幾代経ぬらむ
大名持(ヤチホコ王)と少名彦(コトシ口ヌシ)の宮殿は高床式住居であったので、この歌の石屋は住居ではない。つまりこの歌は、かれらがそれぞれ石屋に幽閉されたことを伝えるものであった。万葉集がつくられた奈良時代には、出雲王たちの遭難のことを人々はまだ覚えていた。
粟島神社では境内の「静の岩屋」こそが、万葉集の歌の「志都しずの岩屋いわや」であると言い伝えられているという。
また静の岩屋の近くには、「お岩さん」という名の小さな岩が祀まつられている。ここは、少名彦が粟島に舟で到着され、最初に上陸した聖地とされている。コトシ口ヌシは、タケヒナドリの船に乗せられてきて、この場所で舟から降ろされたのかもしれない。
粟島で発見されたコトシ口ヌシの遺体は、熊野山に運ばれ葬られた。神魂神社近くの東出雲王墓にも、コトシ口ヌシの拝み墓がもうけられた。
出雲市常松町には、常世とこよ(あの世)に去った少名彦(コトシ口ヌシ)を祀まつる、常世つねよ神社が建てられている。
『伊予国風土記(逸文)』の湯(道後温泉)の郡には、次のように書かれている。
大穴持(大名持)命が、後悔し恥じて、スクナヒコノ命を蘇生させたいとお思いになり、大分の速見の温泉(別府温泉)を下樋によって通して持って来て、スクナヒコノ命を浸して浴びせたところ、しばらくして生き返った。
この話は、伊予と出雲で場所は異なっているが、コトシロヌシが不慮に亡くなった事実を示したものと考えられる。この話には願望が書かれているが、コトシ口ヌシカヾ生き返ることはなかった。
ホヒとタケヒナドリは、イズモ兵につかまり監禁された。ホヒ・タケヒナドリ親子は、ホアカリの陰中(スパイ)であると噂されていた。そのため、出雲王たちの殺害を命じたのはホアカリ(徐福)であったということは、容易に想像できた。それで出雲の人々の怒りの矛先は、ホアカリやハタ族にも向けられた。ホアカリは和国の王になることが来航の目的であったので、出雲王たちを亡きものにすれば、手つ取り早く目的を達成できると考えたらしい。
王たちを殺された両王家の人々の怒りは、すさまじかった。高照姫をホアカリに輿入れさせ、ホヒ親子を重臣に取り立てていた神門臣家の人々は、とりわけ裏切られたとの思いが強く、「ホヒ親子に死罪を与えよ」と強く主張した。
ホヒらは、「自分らは徐福の命令に従っただけで、自分らに罪はない」と弁解した。
富家の人々は、銅鐸を持参した功績を考えてかれらの死刑を免じ、代わりに召使にして自由に操ろうと説得した。その結果、ホアカリの息子のイソタケが育っていることも考慮し、ホヒとタケヒナドリ親子の死罪は保留することになった。そして、かれらは富家に引き取られ、「やっこ」と呼ばれる召使として使われることになった。そのころの召使は小屋に住み、主人の許可がないと外出することもできなかった。
『古事記』で、スサノオが大国主(ヤチホコ)に対し、「この奴やっこ」と呼ぶ場面がある。これはホヒ家が、奴と呼ばれつづけた恨みをはらすために、『古事記』の編集者に頼んで書かせたものと考えられる。神門臣家や富家が奴になったことは、一度もなかった。
ヤチホコ王とホアカリの関係について、『播磨国風土記』の飾磨しかまの郡こおりに次のように書かれている。
昔、大汝命おおなむち(大名持・ヤチホコ)の(義理の)子である火明命は、心もおこないもとても恐ろしかった。こういうわけで、父神が悩んで、逃げ去り(子を)捨てようと思われた。因達の神山(姫路市)に到って、その子を遣つかわして水を汲ませ、かえってくる前に船を出発して逃げ去られた。このとき火明命が水を汲んでかえってきて、船が出発して去るようすを目にされ、大いにお怒りになった。そこで、風波をおこし、その船を追い攻められた。ここに父神の船は、進み行くことができなくて、ついに打ち破られた。・・・
・・・その時、大汝の神が妻の弩都比売のつひめに「悪い子から逃れようとしてかえって波風にあい、ひどく辛く苦しい目にあったなあ」と言われた。
この話は場所は変わっているが、ヤチホコ王がホアカリから横暴を受けたことを示している。
亡きヤチホコ王とコトシロヌシに捧げる
映画もののけ姫「(出雲族の末裔)アシタカせっ記」
アシタカは自然との調和、争いではなく、人々の和合を模索して懸命に生きる
The Legend of Ashitaka / Princess Mononoke (もののけ姫より「アシタカせっ記」) (Shakuhachi / Piano Cover)
ユダヤ人の徐福は、豊かな日本を乗っ取ろうと、和を重んじる出雲王国の王と副王であるヤチホコ王とコトシロヌシを幽閉し、飢え死にさせた
自らの野望のため、殺し、奪うことを躊躇なく行う、これを「侵略」という
そして、そこにいる国の民は、搾取する対象でしかない
「侵略者」とは、自ら生み出すことをせず、奪うことによってしか生きられない者をいう
一方、出雲族も現在のインドから渡ってきた民だったが、縄文の文化、縄文の神々を尊び、カタカムナの潜象物理の考えもよく理解し、尊重していた
出雲族の文化を調べればそれらの考えはすぐにわかる
インドはヨーガ・スートラでもわかるように瞑想に熟達した文化を持っていた
だから、カタカムナ人が究極まで研ぎ澄ました感受により発見をした、(目には見えないけれど確かに存在する)潜象物理もすんなり理解出来たのではないだろうか
それだけのアワ量を鍛錬する文化を持っていた出雲族が、マノスベに生きる、カムナガラで生きていたのは、自然や民と和をもって共に生きることが何より大切なことを悟っていからなのだろう
私たち日本人が忘れてはいけないことは、日本の歴史は、「常に他国からの侵略にさらされてきた」ということだ
そして、戦いに勝った側が広めた、権力者にとって都合のよい歴史ではなく、隠された正しい歴史を見れば、侵略とは国の内部から嘘によって塗り固められ進行することが多いとわかる
ヤチホコ王は、大国主命、又は大黒様として
コトシロヌシは、小名彦命、又は恵比寿様として
今も、多くの人々に愛されている、なぜか?ほとんどの人はその理由を知らない
このシリーズを読まれた読者の方々は、その意味をご理解いただけたと思う
そして、この隠された歴史を知ることが出来たのも、何かの不思議なご縁がはたらいているように思うのである
次回に続く
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