星の依る庭

よる【依る/寄る/縁る/夜】

人知れず大切なものを書き留める、SF(すこし・ふしぎ)メルヘンブログ。

人間人間するもしないも

2022-08-09 05:57:24 | 日記

なんだかんだブログ期間を開けてた。。。

いつもついつい、私は何か物事をやり始めると、「やりたい」ではなく「やらなきゃ」という義務感寄りな考え方になってしまいます。

おまけにきれいにやらなきゃ、全うしなきゃ、とか、完璧主義おじさんになってしまいます。
でも私は知っています。。。


ブログとダイエットは義務感では続かないことを。。。


ということで、気が向いたとき、あるいは私のデトックスのために、このブログは緩く書いております。

ブログコンセプトも、そんな感じにしていたのを、私自身が忘れかけておりました。笑

はなから続かせる気がないつもりで、完璧主義からご都合主義に、気持ちを切り替えようかなと思います。


そういう感じでいいんだよなぁ。と、またふと思い出したような感覚でいる今日この頃。




さて、そんな私はよく、自分のことばかりしか目が行っていない、おおよそ視野が狭くなってるときに、ふと一歩下がれたときの感覚や方法を、体験するたび、すっぽり忘れてしまいます。

さきほどの義務感の話もまさにそうで、その話で言うならば、

ゆるくやっていいんだよ~、自由に楽しんでいいんだよ~とふと気づき、心にじんわり染み込ませ、覚えさせて気持ちが軽くなっても、

ふとしたら忘れて、心が軽くなるようなそのエネルギーの波的なものに乗っていたところから、ガクッと落ち込む感じになるときがあります。

それはしかも、周期的に来る。

エネルギーの波と言ってもいいのかもしれない。


感覚の話なので、とても表現が難しい。。。


私としては、せっかく、波から脱する方法を掴んだのに、忘れてどうするんだい!!!っていう。。。笑



論理から直感への切り替え、みたいな。


そういうときの度合いの表現方法として、
「人間か、人間じゃないか」「人間人間してるか、してないか」
という表現方法が個人的にとてもしっくり来ていて、
ひょんなことから先程見てた方の、なんとまあYouTubeで気づきを得てきてしまいました。笑


私はつい先日から、いかにも人間らしい(人間人間してる)、謎の「恐怖」や「不安」、急な頭痛で「何かが(エネルギーが?)下がる感覚」といった、人間スパイラルのドツボにハマるところでした。

客観的視点に戻れて、
謂わば、人間と人間じゃないくらいの間のところまで戻ってくることができました。笑


大事なのは、やはりいつも、自分の意識だなと。

人間か人間じゃないかというグラデーションの中のどこに行くかを、意識だけで定めること。
それを決める事自体も、すべて自由であるということを忘れない。

そこに良い悪いもなく、どんな事態が起きても、それをただそのまま"観て"、そこから抜けたきゃ、何も考えずにすっぽり抜けて、行き来できる意識。

どこに焦点を置くか。

それをしやすくするために助けてもらう、目を向けるのは、簡単に言ってしまえば、感謝&愛やなぁ、と、改めて気づいた次第です。。。

私はまだまだ、来た事態、サイクルにとらわれがちだったのだなぁと。

守ってくれる方々に感謝です、ほんと。

ですが、最近は昔より、その意識の仕方を少しずつ体得できてるのかなぁと思えることも増えてきました。そのおかげか、今回はだいぶ波を脱するのが「フッ軽」だなと思えます。笑


デトックスの方法も少しずつ心得て、人間人間になるもしないも、
グラデーションの中を自由に行き来できるような人になれるよう、練習中の私でした。



書いたから、これでもう忘れない、よね…?



Serendipity - セレンディピティ -

2022-04-12 11:48:53 | 日記

Serendipity -セレンディピティ-という言葉があります。


これは、私が3年ほど前……
ってもう3年前!?と書きながら驚いておりますが、
2019年頃に、私は岩手県で働くことになりました。

この言葉は、そこで知り合った方が教えてくださった、今でも印象に残っている言葉です。


その頃、私は前の記事で書いたとおり、
新天地でさあ頑張るぞとしてはいたのですが、
当時社会経験のまったくない22-3歳の青二才(韻踏んでる)が、
いきなり数ヶ月前まで名前も知らなかった土地で、
トントン拍子で社会貢献的なことをする立場になったものですから、
まぁ手も足も出ず。

おまけに高校生あたりからその頃くらいまで、ずっと簡単に言ってしまえば鬱のような感じだったのです。


心療内科系の病院にも通ってました。


これは、同じようなケースの方々の助けになればなぁと思って、最近は多少重い話でも忌憚なく話すようにしています。
こういう過去は伏せる方々意外と多いんじゃないかと思ってはいるのですが、私は敢えて伏せません。


話すことで、私自身が過去のものとして消化できるというのもありますし、
なにより、今は完治している(寛解している)と言いきれる自信があるほど、私は良い状態になれているからです。

本当に、人のご縁のおかげ様です。




さて、
人のご縁という言葉をちょうどよく出せたあたりで、
セレンディピティの意味に触れます。

ネット辞書からヨイショヨイショするとこういうことです。

    セレンディピティ◆別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能。


もともとはざっくり言えば英童話からの造語らしいですが、英単語として浸透しているかと。

また才能となってはいますが、その事象自体も意味に含まれるのかと。


私は、この言葉を、
見ず知らずの土地で、「人のためになにかしなきゃ」という義務感からの"やらなきゃ"に自ら押しつぶされに行っていた中で、
唯一自分が心から興味のあった、音楽(音響)というもので自分から繋がりに行った、
昔の真空管アンプに始まるようなステレオと、それらでジャズを聴くのが大好きな素敵なおじ様から教えていただいた言葉でした。




(探したら見せてもらった真空管アンプの写真がありました。懐かしい。)



そのおじさまは、機材にとても興奮して食いついている私に、
「私は『邂逅』と『セレンディピティ』という言葉が好き。」と、
おそらくジャズ、かつての名作などの知見から得た言葉と察することができる雰囲気で、私に話してくれました。

邂逅の意味もセレンディピティと辿れば似ていて、
思いがけなく巡り会うことという意味。


ちょっとセレンディピティの意味合いが色々含まれている感じで、未だに解釈が難しいですが。。。

この言葉の意味の豊富さ、壮大さ自体が、まさに言葉にしきれない偶然というものを表しているな…と思います。



「あなたと出会ったのも、何か意味があるのかもしれないね。」

おじさまはたしか、そんなことも言っていたようにうっすらとですが覚えています。


当時の私は、本当に心が死んでいて、笑ってるようで心にまでは届かずに笑ってないみたいな状態でしたが、

そんな中でも、そのおじさまや、以前のブログでも紹介していたEさんやIさんなど、その他もちろんたくさんのご縁もあって感謝はしていますが、やはりそのセレンディピティ現象的な?ものを知るキーパーソンとなる方ような方がいらっしゃって、

乾いた心にも残るような出来事だったんだと、本当に奇跡のようなものを感じます。


そしてその後の発展をつなげていく過程もまた、セレンディピティがそこにある感。

点と点がつながる感覚。

今となっては本当に、その出会いには意味があったのだと感じています。


そもそも偶然や巡り会いは普段当たり前のようにどこにでもあることであって、たぶん感度の違いや、カメラのピントがタイミング的に合うか合わないかの違いみたいなものかな、と思います。

偶然隣の席になった、
偶然同じ場所に居た、
偶然タイミングが合った。。

それらを偶然だとして見なければ、それは偶然ではないから。

電車で隣に見ず知らずの人が座っても、「奇遇ですね!!」という話にはいきなりならない。

然るべき経験があって、初めてそこにピントが合うようになって、はじめてその"点"に気づくこと。
ストーリーがあること。
そしてそれがつまるところ縁である。。。

偶然というものは、常に起きていて、
それはつまり常に起きている奇跡だけど、それに気づくには過程が要る。

私はそれをちょっとばかり多くありがたく思えたのか、
本当に、運が良いといいますか、ちょっとばかり点と点を繋げやすい(繋がったと思いやすい)ひとだったのか、
特にややオカルティックな面では取り柄はないと思っていましたが、

セレンディピティ、
そんな名前の誰しも持つ才能にだけは、ちょっとばかり早く、気がつけることができたのかななんて思ったりします。




道端の名もない花に気づけるかどうか。

誰だって、みんな、気づけた瞬間には、愛でて幸せになる力は持ってるはずですもんね。



まずはそのおじさまに、私がつなぐことのできた点となるものをいただけて、ありがとうございました、ですね。

ほんとに、こういうときのために、「有り難い」という言葉があるんだなぁと思います。

きっとこのブログは、様々な伏線で繋がったセレンディピティ物語を綴っていくんだろうなぁ。

その後のセレンディピティさん(?)たちの話はまた別記事で。


いつもありがとうございます。



Blotter

2022-04-12 08:27:51 | 日記
前回記事で名前を変更し、ブログを更新してやろうと意気込んでいたにもかかわらず、だいぶ間が空いてしまいました。

ブログって本来日記なのだから、
考えずに気軽に書けばいいものなのに、
性分というか、一応デザイナー・クリエイターの端くれなので、
一つのものを作ることに、私はだいぶエネルギーを使ってしまいます


無駄なエネルギーを使うということは、まだまだ本当に端くれなんだなぁと反省します。

上手な方々は、色々な意味で、
「手を抜いている」─。
いわば力が抜けている状態だと思うのでね。


もっと気を楽に。。。気を楽に。。。




Twitterならば、もう住処みたいなものだし、140字という制限があるので、ほど良く疲れないくらいに文章をかけるのですが、gooブログ氏、30000字だからなぁ。。。
(全部書けとは言ってない)


本来は私自身の癒やしの場所としてここがある、というのがコンセプトのひとつなので、もっとTwitter感覚で、気楽に、そして簡潔に書いていきたいと思います。


以前の記事でも、
ブログをTwitter感覚でやるというのはすでに掲げていて、
『ブロッター』(Blog+Twitter)という造語をつくったりしていたので、
もうここはブロッターということにしますね。笑


読みやすいし最高でも3000字くらいにして、記事分けするようにしよう。。。


ではでは今回は早めに、1000字くらい過ぎたあたりで、また次回。

いつもありがとうございます。


星のよるには

2021-11-19 01:34:24 | 日記
ブログの名前について。


前記事にて、現在の「星の依る庭」と名前を変え、初心表明なのかなんなのか、思うところを色々と書きました。
宇宙がもともと好きだという理由もありますが、このブログ名は、私が今年出会った存在などをまとめて名前にしました。
星(宇宙にいる存在)、星の王子さま、玉依姫命。
並べただけでは、もうワケワカメです。(~ 'ω')~


もともとは、ブログを「いつオト」と名しており、
これは、私のずっと昔からの人生テーマのようなものであった、"いつ頃大人になるんだろう"から、略して取っております。

加えて、"いつか聴いた「音」になる "という、私の大好きで、助けられていた音楽に私がなるという意味もありました。
今でもこれが人生のテーマであることは変わっていませんし、個人的な別のサイト上では、普通にテーマとして使っています。


いつまで子どもで、いつから大人のなのか─
私は結構、夜の校舎窓ガラス壊して回らずとも(笑)
思春期時代は、夢を否定したり、始めから諦めたり、自分は大人だからという態度を子供に振りかざすような、

典型的な"好ましくないほうの大人像"を、妙にとても嫌っていました。


私自身が、高校生時代、音楽や芸術などの"不安定な"道にいくか、それとも"真っ当な"就職の道にいくか、色々と揺れ動いていたからだと思います。
今となっては、「真っ当な道」というのは、
自分が決めたらそれはすべて真っ当な道だと思います。



それはそれとして、
その"いつオト"というテーマを、やや解釈を柔らかくさせながらも、(丸くなりながらも笑)
年齢的には大人になった現在の私は、今年に入ってから、割と今までとは全然速いペースで、様々な出会いを経験しました。
主なポイントをまとめると、

①神社・神様
②それにまつわる方々
③星の王子さま
④占い

このブログのジャンルを"SF(すこしふしぎ)メル変ブログ"と名付けた通り、
やっぱりオカルティックになってきました。笑
占いに関してはまた今度書くとして、それ以外をブログ名の由来として。



①神社・神様
今年に入ってから、というか去年くらいからだと思うのですが、急に色々な神社に行くようになりました。
占いの部分と少し関連してくるのですが、私はカードをやったりしていたので、何回も同じ神様の情報が目に入ってきて、

「あっ、行こう」とおもった神社にそのまま行き、うまく言葉にできませんが、今まで見てきた日常の情報から、つながって見えたり、ひとりで妙に納得して帰ってくる感じです。

あとは後述の方々の言葉や、情報から自然と神社とのご縁がつながっていったりしていきました。直感行動型な動き方をしています。


②それにまつわる方々
私がこんな辺境の、メル変ブログをするにあたるまで、それにまつわるいわばサイキックな方々との出会いがありました。

そのつながりのはじまりは、二年前に、一瞬の対面だけでつながり「これぞ有難いご縁」と言わんばかりなことでした。

なんにせよ、2年前の私というのは本当に、もともと脆いメンタルではありましたが、これまで全然知らない土地にほぼ勢いで導かれ住むことになり、比喩ではなく死にそうな精神状態にまでいましたので、

そんな中その土地で、仲良くさせていただいていたある方に、その一瞬だけ出会ったサイキックさん(Iさんとします)の書いているブログを後々紹介されなければ、私は神様&サイキック界隈にも、gooブログにも辿りつくことはなかったでしょう。

「教えなきゃいけない気がする」と、紹介していただいたEさん(仮)には本当に感謝しています。またそのセリフも、なんだか不思議な感じです。笑

なにより、そういう世界をIさんのブログから教えていただけたことで、私的にはだいぶ心の支えになりました。狭かった視点が広がったような、そんな感じです。ほんとに感謝。

その後、またさらにIさんと繋がりのある、サイキック姉さんを知ることになります。笑
そして今年5月に、またまたEさんになんとなく、そのサイキック姉さんの住まわれる東京に私用で行くことを連絡したら、トントン拍子で「行ってきな!!」と背中を押され、段取りもしていただき…。笑


私としてはまだ半分心の準備ができておりませんでしたが、お会いして、それはそれはわかってはいてもスゲェの一言で、その後も私はドキドキしながらも連絡するようになり…笑
詳しい経緯はまた別の機会にするとして、その姉さんから頂いていた、私に関するキーワードが「玉依姫命」さんでした。
書けば書くほど、胸がじんわりするのは、何なのでしょうね。


③星の王子さま
サン・テグジュペリ著「星の王子さま」という作品との出会いが今年後半に入ってありました。

それはもう急激に。

私はこれまで、本はあまり読んでいるタイプではなく、嫌いではないのですが、活字だらけの本は余程のことがないと読まないので、
AmazonのAudibleという、「聞く読書」と呼ばれる本の朗読サービスをたまに使うことがありました。


ある日そこで星の王子さまを発見し、「あっ!!」と思ったころには購入していました。
私はいままで、世界で読み継がれている作品だというのに、名前しか知りませんでした。
ですが、見かけたときには「これは今自分が一番読まなくてはいけない作品だ」と直感していました。

素敵な読み手さんによって、さまざまな典型的な大人的キャラクターの個性が声によって彩られていく中、

大人になってしまって見えなくなった世界、誰もがもっていたのに忘れてしまった気持ち、絆とはどういうことか。

「大切なことは、目に見えないんだ」
これの意味を、とても子ども向けに作られた作品とは思えないほど、
大人になったひとたちに深く考えさせる言葉の数々が流れていき。。。

私は完全に虜になりました。

それは、私が、しかも特に今年に入って強く掲げていたテーマ「いつになったらおとなになるのか」という私の「大人」というものに対する長年のもやもやに、
本当に突然王子さまが現れたかのように、手を差し伸べてくれたような作品でした。
前記事で星の王子さまと、大人について書いた理由はこのためでした。

そして、前述の「いつオト」話題へつながるわけです。


まだ私的には語りきれませんが、長くなりそうなことはのちのち…。

星(宇宙にいる存在、見えない存在)、星の王子さま、玉依姫命さん、
全部合わせて、「ほしのよるにわ」→「星の依る庭」となりました。
「庭」になった理由もあったりするのですが、これもまたのちのち…。笑
感謝の気持ち、考えや存在が依るところ、私含め、見える見えない関係なく様々なご縁の「よりどころ」にするということで
この名前になりました。誰かがここで癒やされればこれ幸いです。私はこのブログ名にして、いま記事を書いているそばから、

私自身が妙に癒やされる感じがするのです。
名前とは大事なものだと思います。

親にもらった名前然り。つければ命があるように感じますよね。

ちなみに私は姓名判断なども見たりしますが、結局は最後直感だと思います。

気持ちがこもっていればよし。

大切なことは、目に見えませんから。
うまくまとまった…かな?笑
おしまい。

いつもありがとうございます。


生まれかわり

2021-11-17 00:41:54 | 日記
udokと申します。

さて、いきなりですが、
ブログの名前が変わりました。

もともとあまり更新してはおりませんでしたが、
執筆の方向性を変えて、ぼちぼち更新することにしました。

改めまして、

「メルヘン(メル変)ブログ」

星の依る庭(ほしのよるにわ)

と申します。

よろしくお願いいたします。



「大切なことは、目に見えないんだよ」

サン=テグジュペリ著 星の王子さまより


世の中は不思議な事だらけで、目に見えることだけが真実とは限らないことが、目に見えることよりむしろ多いのかな、と私は感じます。


それは、目に見えない存在、いわゆる神様仏様であったり、気持ちや想いだったり、終いには自分の内面だったり。


全部見えないから、それはそれはわからないことだらけ。

けど、信じていれば、そこにある。


子供の頃には、誰もが、見たもの見えないもの、ここに在ると思ったものの何もかもが、自分の世界であることを信じて疑わず、可能性は無限大であり、すべては自分にとっての真実であったりするはずなのに、


そういうものを、見えているものだけに固執するようになった大人は、いつか自分すら否定し始めて、自分を信じることをやめ、自分の世界すら、よその世界の話だとして、すべてを否定から始めてしまうひとが大半だと思うのです。


私も、そうでした。



"でした"と、過去形にすることにまだ勇気のいる私は、今までそうやって生きてきて癖づいてしまったものを取り払い切れず、先述のような大人の欠片が、まだ心に刺さったままなことを自覚した上で、このようなことを書き連ねています。



ただ、ゆっくりとでも、一歩を踏み出していきたくて、飾らず、変に怖がらず、この辺境のブログで、静かに自分の気持ちを書き記して、向き合って、気持ちや好きなことを秘匿せずに表に出す練習をしていこうかなと


それがわずかでも誰かに届けば良いかなと、"生まれかわり"をめざして行こうと思います。

生きていても死んでいても、何度でも人は生まれ変われるような気がします。


ブログ越しにて、

ここへたどり着いた、大事な方々と、みなさんへの感謝を込めまして。


おはようございます。

いつもありがとうございます。

今後もよろしくお願いいたします。