オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

集団的自衛権について、

2014年05月09日 | Weblog

基本的にはどこの国にも自衛権は認められているのだろう。

 このことに間違いはなさそうである。個人の場合においても自分を守る権利は何人にも認められている。どちらかと言うと自然権に近いものである。生まれながらにして認められているし、何人もこれを侵すことはできない。それなのに日本の国ではこの自衛権について行使できるのかできないのかで国を挙げて論議されている。私としては何か変な気がする。行使できない権利なんてあり得ないし、存在する権利を行使するかしないかは本人の勝手である。はじめから行使できないと決め付けてしまうのはあまりにも自虐的である。

自衛権の行使は憲法違反だという。

 確かに第2次世界大戦で敗戦国となった日本には、当時自衛権は剥奪されていたのだろう。自衛権という名目で連合国に抵抗する権利は有無を言わさず剥奪され、一方的な無抵抗を強制させられた。当時の状況としては当然のことであろうし、そのような状況をすべて受け入れたのが敗戦国となり連合国に占領された日本国の実態であっただろう。そのような中で「日本国憲法」が成立した。その憲法に自衛権が全面的に認められていたはずがない。当時の日本国憲法成立に尽力した日本人の中に将来を見通して自衛権について一部の修正がなされたとはいえ全体としては敗戦国の自衛権としていびつな形になっているのは当然のことに思える。

自衛権が認められていないなら自衛権が認められるように憲法を改正すればいい。

 何故、憲法解釈で自衛権を認めようとするのだろう。敗戦国としては確かに当時は自衛権さえも放棄したはずである。その放棄したはずの自衛権を憲法解釈で取り戻そうとするのは姑息な手段に思えてしょうがない。堂々と本来保有すべき自衛権を取り戻すべく憲法改正でも何でもして正常な姿に即刻戻すべきである。何故これまでそれができなかったかと言うと、やはり、敗戦国の憲法によって容易に憲法改正ができないような仕組みにされていたのである。自分の国のことであり、どこの国にも非難されない自衛権について、もうそろそろ堂々と保有できるように変えてゆくべきだと思う。

自衛権に個別的自衛権と集団的自衛権があるという。

 どちらも自衛権には違いない。個別的自衛権は行使できて集団的自衛権は行使できないとはおかしなことである。敗戦国のいびつな憲法の解釈などという姑息な手段で運用するからこのようなおかしなことになる。本来であれば個別であれ集団であれ自衛権を行使することに何も問題ないし、集団的自衛権は行使できないと自分で自分の首を絞めるような考え方は諸外国からすれば受け入れられるものではない。本来存在する自然権としての自衛権にそのような制限をされると困ってしまう。日本国だけ特別であるという考え方も通りそうにない。

集団的自衛権を認めると戦争に巻き込まれると主張する人達がいる。

 それは個別的自衛権も同じである。自衛権とは自衛のために戦う権利を認めたものである。いずれにしても戦争に発展する可能性はゼロではない。これをゼロにするためには最初から自衛権を行使できない。自衛権を行使するからといって大規模な戦争に発展する選択を敢えてする国はどこにもない。自衛権を行使するのもしないのも自国の勝手であり、その結果どのような行動に出るのかも自国の勝手である。その自由を認めるのが自衛権でもある。大規模な戦争に巻き込まれるのがいやだったらさっさと手を引けばいい。その判断も自国に任せられており、他国から強制されることもない。

集団的自衛権を行使すると地球の裏側まで戦争に行かねばならないと言う人達もいる。

 何を考えているのかわからない。あくまでも自国を守るための自国のための自衛権である。地球の裏側まで行きたくなければ行かなくてもどこの国も異議を唱えることはいないし、自衛のために地球の裏側まで行く必要性はあまりない。反対に自衛権を逆手にとって侵略的だと非難されるかも知れない。日本の国も国際貢献活動を国情に合わせて可能な限り実施している。そして、世界各地に国際貢献の要員を派遣している。しかし、これは国際平和への貢献であって、自衛権の行使ではない。これらの実績と誤解しているのではないかと思われる。

集団的自衛権に制限を設けようという人達がいる。

 敢えて存在している自然権に最初から制限を設けることに疑問を感じる。制限を設けないと集団的自衛権にかこつけて歯止めが利かなくなるという主張である。たとえば、個人の生存権や個人的人権に最初から制限を設ける人がいるのだろうか。制限を設けないと生存権や個人的人権を盾にして勝手な主張と行動をするという議論を聞いたこともない。政治を与党と野党とすると、与党が政治を主導するのだろう。そして、これにブレーキをかけるのが野党であろう。歯止めが利かなくなると言うのは、野党がブレーキをかけられないと言う事にほかならない。正常な判断ができない与党も問題だが、これに歯止めをかけられない野党も問題である。そのためにあらかじめ制限を設けておきましょうと言うのはなんか変である。その都度適正な判断をすることが望まれることである。


すでに日本は日米相互安全保障条約の下に平和が守られている。

 米国に日本が守られているのは現実の事実である。守ってくれている国が危険にさらされた時、集団的自衛権を行使できないと何もできない。これでは相互安全保障とは言えない。第2次世界大戦後の敗戦国としての理由から米国の擁護の下にあった日本の事情はあるが、本来は相互に安全を保障するのが当然のことで、敗戦後の日本にその能力がなかったのが実態である。早い時期に本来の姿に戻してお互いに対等の立場で国際社会の平和に貢献してゆくべきなのである。集団的自衛権は米国とのみ存在するものでもない。どの国と集団的自衛権を行使するのかもその国の自由なのである。もう一度すべてをニュートラルに戻して考え直してみる必要がありそうである。


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