人間に目覚める

「人間として生まれ、人間として生ききる」

カラダ中の隅々まで血液が流れまくっている男のダイアリー

インターネットと昭和

2020-10-18 15:10:21 | 日記
久しぶりの投稿だ。


今年は春に走り出して、足首を痛め、治るまで療養したのだがそのまま走ることがおろそかになってしまった。今日で4日目だがまた走り出し、腕立てや腹筋も含め堤防沿いの素晴らしい空気の環境を利用しカラダと精神の「引き締め」をはかる。



彼女の仕事先でも体がブヨブヨだった男性が1か月半ほどで、精悍な顔つきと肉体の引き締まりを実現させた様で、その折に「健全な精神」は引き締まった肉体を作ると同時に作られる・・・という至極当たり前のことだが、なかなかオトナになるとできないことをおっしゃっていたようだ。


僕も肉体作りに走ると精神の負担が減ることを身をもって理解している。逆にカラダを作らないと、頭だけで全てを考え処理しようとし、首から下の存在を忘れていることに気が付かないのだ。体を鍛えると仕事に行っても気軽に物事をサッササッサできる軽い自分がいることに気が付くはず。頭なんてほとんど使わずできるのだ。


カラダを鍛えれば心身病気から解放されて行き、フレッシュな自分に出会えます。病んでいると、芸能人がどうしたあーしたみたいなしょうもない失敗した話や、悪口みたいな世界に意識が行きます。もし、ヒトの悪口や負の要素の所に意識が生きやすい自分がいたら、ココロが荒んでいると思っていい。そういう時はカラダを鍛え、筋肉痛になれば、爽快な気持ちが得られ、負の世界の話に意識が行かなくなるのでココロのバリアーのような働きがあると思う。


悪いものを寄せ付けるのは自分がしている場合が多い。フレッシュな自分を作れば負の世界に勝手に意識が行かなくなるので、いろんな悩みを抱えている人はまずカラダを鍛えて欲しい。必ず闇から光の世界に移行していくことになるだろう。。



僕はパソコンを開けない日はまずないが、昭和の時代に100パーセント、インターネットが無い時代があった。何か別の世界の情報を見たければ、週刊誌など雑誌やTV、ラジオを通してだった。情報にアクセスするのにもう少し距離があったように思う。ましてやビデオ録画が無い時代に至っては、一回観て目に焼き付けないと・・忘れないようにしないと・・なんていう感じで大好きなものをとても大事にしていた気がする。雑誌の切り抜きを取っておく・・・なんていうのもその行為の一つであった。。





芸能人との距離感もあり、別の世界のヒトのように思っていた時代があった。



インターネット社会の現代では、全ての「神秘性」も種明かしされたような感があり、全てが身近になってしまいそこまでのドキドキ感も感じられなくなってしまった。全てが検索一発で画像含め情報が得られ、ありがたみが無くなってしまった。やはり、簡単に「見ることができない」「手に入らない」というのが精神衛生上、ヒトには良いのかもしれない。簡単に見ることができてしまうと、やはり「手に入れよう」「頑張ろう」という気持ちが無くなる。


この「簡単」というのがヒトをダメにしていき魂を汚していくことに繋がるのだと感じる。「ドキドキ」したり「ワクワク」するような人間らしい心を失いたくないのである。そういう意味ではインターネットは昔で言うTVゲームと一緒で、時間規制をして上手に付き合ってあげることが必要なのだと感じる。


健全なカラダを作り始めると精神も連動していくので、自然と必要なもの、必要でないものに振り分けられてくるのでそこまで難しく考えなくても自然と興味が無くなり、見なくなった世界が出てこればそれが「正解」だと感じる。僕は今、ネットを観なくなり距離を置きたいと思っている。あの昭和の頃のようなスタイルにすることで、変な情報を得ることなくもっと精神が自由に伸び伸び健全になっていくのでは?と思うのだ。

今では、情報が入って来なかったあの時代が懐かしく「自由」を感じるのだ。現代は「監視社会」のようで、どこにいても見られていてアップロードされてしまう感がするのである。そんなこと昔は無かった。最近でも再生回数欲しさに他人へ迷惑をかけ、その有様をアップロードするなど、良い歳した大人がそんな分別もつかないありさまで、物事の良し悪しすら何が何だか分からなくなっているのだろうと思う。そんなことばかりのネット住人はそんなスキャンダルなものばかりで刺激に満ちたものばかり観ていることで、脳の判断もマヒしおかしくなっているのだろうと思う。大人不在の社会。。



そんな感じで、必要以上にネットのニュース、情報を観ないことでどんな自分に変化できるか?ネット環境に慣れた現在の自分は何を得て何を失ったのか?を検証したいと思うのだ。僕は失ったものの方が多いと思っていて、ネット環境に支配されている自分を感じている。使っている側ではなく奴隷の一人だと感じていて、薬物中毒者と同じなんじゃないかな?って感じている。僕は自由になりたいし、昔の人がしていたような素朴な生活の中に今の時代にはない「自由」があると感じている。



人間らしく生きているか・・・?って考えたら、ただの奴隷化している気がしてならないのだ。人間なんて本当は生きていくうえで大切なことは意外とシンプルだったりして、そこに魂がイキイキできる要素が詰まっているハズ。コンビニのレジ隣の揚げ物やファーストフード、ジャンクフードのような感じで、この社会は人間をジャンクにして支配しているような気がしてならない。生活習慣病に満ち溢れているって・・・当然そうなるわな・・・。。


刺激物を口に入れ美味しいと思い、本当の手間暇かけて作られた料理のほうが不味いと感じる舌、脳は、完全にヤラレている。。食事以外含め、そんな社会になって毒されていると感じる。人間はどこに行こうとしているんだろうか・・・?



ということでネットを今までのように観たりしない環境での自分の変化を、ブログに書けたらなあと思う。(そういったことをまたネットにて書いていること自体皮肉ではあるが・・・笑)











仕事のミス

2020-09-01 02:48:21 | 日記
だけど自分の仕事で上手くいかないと落ち込む。。




こちらでの仕事の不手際から取引先とゴタゴタになってしまったわけだが、何が原因でこのような気まずい結末になったのか・・・?も十分考え抜いた。まあこちらの仕事の完成度に問題があったのは言うまでもないが、それからのこちらでのやり直しの件も含め話は綺麗にまとまることには至らなかった。




私たちは社会で生きていくうえで、仕事、それ以外でもトラブルはある。しかしその後に話し合いの結果、お互いに理解し合い次のステップに向かいたいと思っても頓挫し、スムーズに進まないことがある。胸の中がスッキリしないが相手があってのことなので、謝り、あらゆるプランを提示したところでダメな時はダメである。良い方向性に向けてやっていきたいと思ったがダメであった。




相互のことなのでこちらが歩み寄っても相手がもうそういう気持ちが起こらないとなったとき、それはそれでカタチになることは無い。



今回の問題は仕事を受ける、受けないといったところからのミスであったと言える。整形手術で言えばカウンセリングの段階での受ける受けないのミスだろう。。あとあとややこしくなるこの状態が訪れる傾向の初歩的ミスだったと言える。何とも情けない。いろんな落ち度は考えられるがなってしまったことはしょうがなく、取り返すこともできない。今言えることは同じミスを繰り返さないことだと言える。



今回はよきアドバイザーとして彼女に沢山相談乗っていただいた。彼女も過去に契約業務において大きな損失を出してしまった経緯があるらしい。。いろいろと穴があったら入ってしまいたいお話を伺った。かといって僕のミスが肯定されるわけではないが、ただ今回は契約相手の人選を誤ったのとクレームにならないクレームもいくつか言われたこと含め、最初の段階でトラブルになる予兆をなぜしっかり感じなかったのか・・?という反省点が多いのである。




自分は責任感が強いほうとはいえ、このように己のミスを数点絞り出すことは見ていて目も当てられない。情けないなあ・・って思うのだ。



時間をかけて仕事をして、最後失敗でドタバタするって・・・今回のようなことはもうウンザリだ。僕は昔、30代前半くらいでこのような今回と同じような仕事の失敗をした。それから同じようなことはもうしないと誓い16年ほど経過して、久々に同じ傾向の失敗をしたが、それは同時にこの種の仕事をもう受けてはいけない・・という最後の通告にもなった。傍で見ていた彼女は僕の今回の一連の問題を冷静に見ていて、己の性質に沿った仕事をしていない・・と指摘してくれた。



ヒトにはその人の性質があり、それに沿って生きる仕事をするべきだと心底感じた次第だ。接客業が好きな人もいれば、事務職が合う人もいるだろう。確かにあれもこれもできないわけではないが、やはり自分に向く方向性の仕事を強化していくことが大事で、エネルギーの分散はよくないということだ。今回の仕事は自分らしくないものを受けてしまったと言える。間違いないだろう。。



とにかくいろいろ考えさせられた一日になって情けないやら、恥ずかしいやら、ツライしなんかムカツクし、何やってんだ・・・俺という結末。彼女からいろんな指摘を受けたがとても当たっている内容ばかりでグウの音も出ない。ガクっときたが、次の日・・・「NEXT DAY」からの人生がある。



僕は「僕にあった仕事」をしなくてはならない。。凄く重要なことだと知った瞬間であった。そこに集中することが大切だ。





ちょっとばかし正直まだ元気がないが自信を取り戻しやっていきたい。。






自分の作品を制作せよ・・・・自由

2020-08-27 22:45:06 | 日記
モノを作りだす仕事をしてきた。。





20代中盤から始め、来年50を迎えるであろう・・脳裏にモノを作るという作業を忘れたことは無かった。




僕はもう20代半ばを越えたころから「自分のための作品」を制作しなくなっていった。商業・・・いわゆる生活を、お金を念頭に考えた作品制作になっていき、もともと楽しんで作っていた頃の「自分」は姿を消していった。。この楽しんで作っていた頃の自分は、そこにお金や生活を考えることなく、真剣に楽しんで納得いくものを作っていたと思う。そして完成し、部屋に飾り、学生の頃であれば家に帰ってきて二階の部屋に行き、戸棚のガラス戸を開きその制作した作品を見て安堵感を得たものであった。



僕はそういった気持ちを約25年間くらい失ってきており、いつも心の中で悶々としていた・・・。



今回もともと仕事として制作していた作品であったが、後半残り30パーセントくらいのところで、自分のための自分の作品を作ろうと意識が変わっていった。。そして完成した時その作品はかなり納得のいく自分のための作品として出来上がった。出来上がって数日経つが、何回もニンマリ見ている自分がいる。当然この作品は売ってはならないと感じ始めてきており、「新しい自分」はここから始まった・・・という記念碑的な作品となって今後君臨するだろう・・と思う。手放すことは出来ない。




本来作品を作ることは楽しかったはずだし、ドキドキワクワクしたものだ。しかし仕事でやるようになってからそんな楽しい気持ちにならなくなったのだ。むしろ嫌悪すらしていたように思う。




僕は思う・・・人間は誰とも比較されず、お金でも判断されず、全くの自由な時間、世界を必ず持つべきであると・・。それは絵を描くことでもいいし、登山でも、釣りでも、編み物でもいい・・自分だけの仕事にしていない世界、空間にどっぷりと浸かるのだ。音楽への没頭、家庭菜園でもいいだろう・・「創り出す世界」に真剣になる。自分だけの為に。。この創り出すというところがとても重要。もしこれが野菜を作るとしても出荷したり、お客さんを意識するわけでもないので、なんら「拘束」されることは無い。誰かに評価されることを念頭に作るわけではなく、自分の為に最高傑作の良いものを作り出すことにエネルギーを注ぐ。そこで取れた野菜を、自分で調理しお酒とともにいただいたりと一人ほくそ笑む。。誰からも評価されたり、比較されない世界を持つこと。。これが真の自由である。なんでもいいからクリエイティブなことをする、創り出すのだ。





このような前向きに創り出す世界を積極的に行い、一つ二つとコレクションが増えていくと、それはそれは心の豊かさ、厚みが出てきてお金のためにやる仕事などもなんなくこなせるようになる。早くきちっとこなして、また大事な自分の作品制作に没頭しようとするだろう。。商業活動は究極には好きなことを仕事にしても、いろんなカラミがでてきて必ず自分の思うようにできないようにできているのでお金に関係ないところでの好きな絵や物を作ることに没頭することが大事。買う方は楽しいだろうが、仕事としてやる方は責任もあり愉快にやれるわけではない。絵にしても音楽にしても稼ぐところではないもう一つの「自分だけ」の世界を必ず持つことでそのほかのことも順調に回るということだ。





僕は今回約25年ぶりくらいに自分のための作品を一個仕上げることができた。とてもご満悦で毎日目の前にして見ている。素晴らしい技術で確かなものを生み出せた。結果・・これは人様に売るということをしたくないと思ってるし、このように自分自身のための作品を久々に作ったことで作品制作の喜びを思い出した。仕事で辛くてお金の為に作ったわけではない。作ることが嫌いになった経験をした自分だが、それは誰かの為に物差しで測られた感じで作業していたからだろう。自分のやりたいようにできるわけではないのだ。



個人の為に、そう・・己自身の為に自分の手で好きな世界を創らなくてはならない。心が豊かになり、本当に自由になる。僕はこんな大事なことをしてこなかったのだ。そこに自由になれない元凶があった。誰かに見せたりネットで発表するためにということを楽しみで、共有することに興奮し制作する・・・というのも分かる。若い時は自分のことを知ってほしい!という承認欲求から来るものもあるが、僕の年齢になるとヒトから判断されたり、いいとか悪いとかなんて判断基準が逆に邪魔で、素直に自分だけで楽しみたいと思い、外に出した瞬間に汚れてしまう感じがする。本当に大事なものは簡単に人に見せたくはないし、見せられないのだ。見てもらわなくていいと思う。見せても限られた理解者、近親者だけでいいと思う。



自分だけの為に作る自分だけの世界があれば、心はとても厚みを増すだろう。この潤いは簡単にこの社会の、この世の「負の要素」に汚されることは無い。自分を心から豊かにすることは他人からしてもらうために徘徊するのではなく、自分から創らなくてはならないのだ。逆に心の豊かさ、コーティングが無ければすぐに何かのストレスで心は疲弊してしまうはずだ。




自分だけの為に自分の世界を創らなくてはならない。














人生の良いところばかり見え始めてきた。。

2020-08-13 10:49:28 | 日記
僕たちは日々生きていく中でどうしてもネガティビティな中に包まれた思考になりがちだ。実際マスが流す情報もスキャンダルや不穏な空気漂うものが多いのはそちらの方がヒトは反応しやすいからだ。日々ストレスを感じて生きている場合、そういった何かの事件や芸能スキャンダルに乗っかって己の日々のストレスを発散していることが多い。コメ欄なんか見てもそのような文面が多くみられる。



ただ人間って幸せになるとそういった「負の要素」ある場所には近寄らなくなってくる。もっと気持ちが幸せになっていくとどうなるかというと負の要素が視界に入って来なくなる。例えば不良少年はグレた連中のほうに意識が行く。そちらのほうが居心地が良いからだ。



自分が意識して見ているもの・・・・その先にあるものが今の己の性質、精神状態であると言える。



僕は10代くらいから特に裏から物事を見るような、皮肉屋さんな自分が出てきた人生だった。20代後半から40代まで毒舌も多くなっていた。もともと純粋な人間だった分、この社会で生きていくうえで負の要素に振り回され抗った結果と思う。そんな長い年月で出来上がった習慣化された自分を俯瞰から把握でき、「そんな人生だった・・・」と理解できる自分が出てきている。これはある種のそういった今までの自分を浄化?浄霊(笑)するがのごとく「卒業」を意味していると思う。


そう・・・卒業できるのだ。。




こんな僕でさえこのようなスタイルできた長い年月だったわけで、思考も習慣化されたものであったが子供の頃など純粋に心から興奮して楽しい経験をしたことがあった。その楽しかったころの気持ちが思い出され始めている。僕は多感だった分、10代後半よりネガティブな方向の世界に流れ始めてしまったのだと思う。苦しい世界や負の世界に目くじら立て挑んでいった結果・・・ミイラ取りがミイラになったと言える。負の要素にムキになって腹を立てたり攻撃的になったりすると、己も同じような要素の人間になってしまう例と言える。。



この負の要素が宿ると、この人間社会に冷めた感情で斜めから物事を見るようになる。コロナがこれば、世の中が終わったと思ったり、国際情勢や何らかのニュースを読んでもどんよりとした気持ちの自分しか出てこないのである。



このどんよりした心ではなく、楽しい気持ちの自分に包まれると世の中が楽しいものにフォーカスされ楽しくないものを見ても心が重く澱んだりしなくなってくるのである。この気分よく楽しいものに心がコーティングされていくことで厚みが出てくると負の要素が来ても傷つかないし、来たことも気付いていない場合がある。不幸が多い人生は心が暗いので不幸なものに自ら近寄っていきその中にまみれてしまっているのである。暗い人間は問題ごとの方に意識が取られるのである。



最近、暗いものが見えなくなってきているので今まで感じていた問題ごとが必要以上に意識に入って来なくなってきた。心というか意識が変わってきたのである。




このように変われたのは彼女の人柄が大きい。楽しいことが好きな彼女は自由で堂々としている。物事を難しく考え語っている人の方が高尚に思われがちだが、毎日を朗らかに心から楽しめるように生きられる人ってそれだけで凄いと思う。僕は今、そこに行こうとしている・・・・というかもうその渦中にいることに気が付かされたのだ。間違いなく変わってきている。。




いかに心から「楽しい」と言える人生にするか・・?であるが、現代の情報にまみれた社会ではなかなか難しいのではないか?と言える。振り回され、何がよくて何が悪いかがくちゃくちゃで自分を支えるのが困難であると思う。まだ、自然界の昆虫であったり野良猫で生まれてきた方が何を毎日やるべきかハッキリしているだろう・・・。僕達人間は沢山の情報の中でもみくちゃにされ真っすぐ歩くことが困難なのであると言える。



取捨選択をして自分の為に整理しなくてはならないのだが、一番手っ取り早いのはスポーツでも何でもいいが心から楽しいと思えるものを見つけるとそれを中心で動いていくので、余計なものを見なくなってくる。自分の中に入れなくなってくるということだ。


そんな自分ができた時、有名タレントの誰々が「スクープ!不倫!」なんて記事を見ても、「どうでもいいわ」という気持ちになり自分の大事な時間を優先するだろう。。しかし自分に自信がなかったり暗い心を持っていると、そのような記事を見たときに持っていかれる己があるのである。ストレス抱えた生き方していると誰かの転落劇が嬉しくなるという歪んだ心を形成するのである。心がクリアーだとそんな気持ちにはならないし関心も持てないのである。



暗い心はこの世は全て辛いことばかりだと感じてしまう。しかし楽しい自分になれば毎日楽しいことばかりフォーカスされやればやるほど楽しいことが増幅され凄い強固な皮膜になり、己を素晴らしい世界に導いてくれるのである。



今まで作ってきた人生は良くも悪くも己が「作ってきた」のである。僕も振り返ると、過去数十年の人生は僕が作ってきた「結果」だと心底いえる。しかしこれからは今までにない楽しいものに変わっていくと心底いえるのである。それは彼女から教えられたものだ。彼女が持っている楽しいものの見方が僕の中に入ってきて、今までの思考が塗り替えられピリオドを打ったのである。楽しむことは難しいものでもなく、実はすぐできることであることも分かる。お金が沢山いるわけでもなく、ちょっとしたことから幸せになれるのである。


最近、にんにくを刻んで、醤油と一緒に漬け、「にんにく醤油」を作ったわけだが、今度はもっと美味しいにんにく醤油を作る自信が出てきている。このように楽しいことはいくらでもあり自分の手で小さなことから作り上げていけばいいのである。この行為、心持が沢山のことに波及していくのである。坂を転がる雪玉が気が付くとかなりでかくなっているのである。それが絵でも音楽でもクルマでも何でもいい。人の評価関係なく、まず自分が楽しむことが大切である。それが一番大事。




僕は今、自分の中にある「暗いもの」が消えて行っている・・・。それよりも楽しいことが覆い被さってきているからだ。楽しければ自然と良い笑顔になる。作り笑いではない。綺麗な心になる修行だとか鍛錬とか言わなくていい。。楽しいことを自らできる人間になればいい。まずそこにフォーカスするべきだ。「楽しむこと」が大切なのである。



そんな自分は気が付くと新しい世界に導かれ面白いことばかりになっているはずだ。最近ではあれほど苦しかった記憶や気持ちが減ってきている・・・心が入れ替わったからだと思う。逆に苦しいことってなんだっけ?という気持ちになってきているのも分かる。今まで苦しいことの方が価値があり、苦しい自分に酔っていたのだと思う。マスターベーションだね。自慰は心地よくないな。



「楽しい」と思えるものには自慰は存在しない。常に前向きだ。工夫がある。爽やかに楽しんでいきたい。暗いものに囚われそこに酔っていてはならない。。暗いものからの居心地よさから脱却すると自由になる。「楽しいが一番」な人生にこれからはシフト変更する・・・何故なら僕は今までの僕は自分の過ちを見つけては罰を与えるような人生にしてきたからだ。そんなことはもうしなくていい。





「豊かな自分」にすることが人生だ



女性にとっての下着は命

2020-08-12 21:40:24 | 日記
定期的に彼女に勝手にランジェリーを選んでプレゼントし、撮影して送ってもらうのがお互いの趣味になっている。女性にとって内に秘めた大切な部分であり、心身共にとてもデリケートかつ何かしらのパワーを引き出してくれるアイテムと言える・・・ホント神秘だ。





純白っていいね!下着の基本。いつまでも似合うカラダでいて欲しい。。



腰サイドの紐の食い込み具合が見ていて心地良い。。絶妙な食い込みが大事。





品良く可愛らしい感じかな。。フルバックショーツが好きなのだが、透けレースはやっぱりいい。。




紐パンとこの逆三角地帯がいいね。このカラダが僕は好きだな。。Cカップってちょうど良い大きさ。20代前半、少しだけバドガールをやっていたことがあるらしい。勿論そういうキャラではないのだが・・・笑。ハイレグではなくて、スカートのバージョンだったらしいが。。今度白のハイレグで挑戦してもらう予定・・恐らくイケルだろう💦😆






なんだかビキニっぽくていいね。なんだか、何着てもらっても基本イケルのでホントありがたいなぁ。。






いつもありがとう・・・愛してるよ。。