顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園NOW…今年は梅が大不作

2024年06月01日 | 水戸の観光

5月末の偕楽園は、むせかえるような緑に囲まれていました。


周りの緑地帯を含めての偕楽園公園は300へクタールの広さで、都市公園では世界第二位とされます。その中心にある千波湖は、偕楽園の借景としての池、そして水戸城の大きな水堀の役目を果たしました。


春に梅の花を愛でた梅林はこの時期、青梅が鈴なり……ところがびっくり!!梅林を歩いてみると梅の実がほとんど見当たりません。鈴なりどころか探してみても、やっと数個が目に付く有様です。


たまたま作業中の方にお聞きしたところ、今までにないほどの絶不作と言っておられました。これは全国的な状況のようで、和歌山の南高梅も平年の3割以下の収穫で価格が高騰、埼玉県の越生では梅直売のイベントを中止などがニュースでも報じられていました。


この不作の原因は、暖冬で梅の開花が早かったため、花がまだ不完全の状態で雌しべなどが機能しなかったり、また受粉を媒介する昆虫類がまだ活動してなかったからといわれています。それと去年が豊作だったために、いわゆる「隔年結実」の影響もあるかもしれません。


何とか数個の実を付けている梅の樹は、ほとんどが「実生野梅」という原種の梅で、しかも老木が多いような気がしました。


意気軒高な老木に敬意を表して、梅の実と生っている老体の写真を並べてみました。頑張れ御同輩!です。

毎年、収穫した偕楽園の梅は6月上旬に市民の方に販売されます。今年も6月8日(土)に販売され、1キロ袋入りが200円、お一人1袋限り先着1000名様という告知が出ましたが、その数が揃うのかなと心配してしまいます。

そもそも偕楽園には約3000本、弘道館は約800本という梅の樹がありますが、そのうち約4割は花ウメという観賞用の梅で、ほとんど実が生りません。それでも両園合わせて20トン収穫の年もありましたが、近年はだんだん減少し豊作の昨年も約10トンでした。※梅の実落としの写真は以前撮影のものです。

また水戸市では梅の花ばかりでなく実の生産地としても名を高めようと、いまジョイント仕立てという梅の栽培法を奨励しており、この成果が「ふくゆい」というブランド名で市場に登場しています。

これは主枝を隣の木と接いで何本もの木を直線状の集合木として栽培する方法で、5年で成木並みの収穫と施肥、管理、作業の効率化が図れるとされます。※ジョイント支柱の写真は以前撮影のものです。


さて園内を歩いてみると、梅林や散策道には季節の花が顔を見せていました。

足元にはムラサキカタバミ(紫片喰)、南米原産の帰化植物が野性化し環境省の要注意外来生物に指定されていますが、攘夷を主張した偕楽園創設者の斉昭公もこの可愛さでは許してくれるでしょうか。


南崖の斜面には咲き始めたホタルブクロの釣鐘状の薄い赤紫色が鮮やかです。


向学立志の像は、辞書を手にした旧制水戸高校生の高下駄とマント姿です。20年くらい前までは高齢の卒業生がマント姿で梅まつり期間中に参集していましたが、さすがに見かけなくなりました。


足元の花はシモツケ(下野)です。隣県のシモツケ(栃木県)で発見されたのが命名由来の落葉低木です。


緑が濃くなるこれからの時期、しばらくの間は静かな園内になりますが、182年前に斉昭公が開園した当時を偲んだり、梅の老木を鑑賞したり…、また違った偕楽園の顔を見つけることができることでしょう。

天徳寺(水戸市)…佐竹氏に従い幾度も移転

2024年05月27日 | 歴史散歩

岱宗(たいしゅう)山天徳寺は、常陸国北部を約400年間領した佐竹氏とともに、常陸太田から水戸、移封先の秋田へと、その都度遷座を繰り返してきた曹洞宗の禅寺です。
秋田移封の際に衣鉢を継ぎ水戸に残ったのが水戸の天徳寺です。
※「衣」は袈裟、「鉢」は托鉢のことで、禅宗では衣鉢を与えた弟子を正当な後継者にしました。



寛正3年(1462)関東管領上杉憲定の次男で養子に入った佐竹氏12代義人が夫人(11代義盛の娘)を弔うため太田に創建した天徳寺(異説あり)は、天正18年(1590)佐竹氏の水戸進出に伴い、水戸霊松山(現在の水戸東照宮の地)に移転、慶長7年(1602)佐竹氏秋田移封に際し出羽国秋田に移りました。
衣鉢を継いだ水戸の天徳寺は、市内八幡町の地に移り慶長7年(1602)には家康より50石の朱印地を附されています。一時寺運が衰退しますが、2代藩主光圀公は天和3年(1683)に明の高僧東皐心越を招きました。元禄8年(1695)に没するまで天徳寺の住持を務めた東皐心越は、曹洞宗の教えの他に篆刻、詩文、書画、古琴といった芸術文化を伝えたことでも知られています。元禄5年(1692)には、光圀公を開基、東皐心越を開山として、天徳寺の開堂式が執行され全国諸宗の高僧1700人が参集したと伝わっています。
正徳2年(1712)、この岱宗山天徳寺の寺籍は河和田村に移され、水戸藩3代藩主綱條公によって山号寺号が寿昌山祇園寺に改められ、心越禅師を開山とする曹洞宗寿昌派の本山となり、知行100石が与えられました。

さて現在の天徳寺は、移転した中世の河和田城址の地で300年以上法灯が継承されています。

東西500m、南北600mと規模の大きい河和田城は中世水戸城を約160年治めた江戸氏の支城で、天正18年(1590)に佐竹氏により滅ぼされました。

岩間街道沿いの北側の駐車場から入ると、屋根付きの冠木門があり、その両側には河和田城時代の土塁と堀の一部が残っています。


重厚な仁王門前には、禅宗寺院に多い「不許葷酒入山門」の石柱、葷酒大好きな仙人には敷居が高く感じられました。


丸桁沿いの蛇腹支輪、禅宗様といわれる渦巻模様の木鼻、細い材を一定の間隔で並べた連子格子や蟇股 など細かい細工が施されています。


金網越しのせいか仁王像がより迫力ある顔に撮れました。


仁王門の本堂側には一転して穏やかな表情の仏像が3体ずつ並んでいました。6体あるので六地蔵さんでしょうか。


仁王門の大きな扉には佐竹紋がドーンと…奥に本堂が見えます。


蓮の花の鉢が並ぶ本堂への道、左手に鐘楼があり広くはなくても厳かな空気が漂う境内です。


銅板葺き唐破風向拝のどっしりした本堂は、いかにも禅寺の雰囲気がしっかり出ていました。


それにしても金色の佐竹紋がいたるところで輝いていて圧倒されました。
水戸徳川家の時世に前の領主の紋をこんなに堂々と掲げられたのでしょうか。


南北を基本軸とした伽藍配置の禅宗寺院、地形の都合上現在は使われていませんが、南側に天徳寺正門入り口の石柱が建っています。手前の蓮池や田んぼは、河和田城時代の堀の跡です。


本来の正門入り口から入るとここからが参道になるようです。ここにある「不許葷酒入山門」の石柱は風化していますが、わずかに「文化(1804~1818)」の年号が読み取れました。


さて、現在秋田市にある天徳寺は、秋田佐竹氏歴代の墓所になっています。

伽藍の主要建物が現存しており常陸地方の中世社寺建築の特徴が受け継がれているそうです。重要文化財指定のこの山門も蟇股、木鼻など細部に常陸地方の特徴が見受けられます。※写真は文化遺産オンラインよりお借りしました。
国替えでは武士だけでなく、寺社や豪商、武家に必要な大工、鋳物師、刀鍛冶なども秋田に移住したといわれます。さらには「佐竹氏が秋田に美人を連れて行ってしまったため茨城には美人がいない」という失礼な話や、「茨城で取れていたハタハタも佐竹氏を慕って秋田に行ってしまった」という話も残っています。


こちらは現在の水戸祇園寺です。

薬医門形式の重厚な山門の扉には、水戸徳川家の葵紋が大きく彫られていました。

水戸天徳寺が衣鉢を継いだ経緯の詳細は分かりませんが、「河和田にあった伝舜院を天徳寺とし如空軸雲を中興九世として祇園寺との関係を絶った」という記述(今井雅晴著「茨城の禅宗」)もありました。同書によると、江戸時代末期に二度の火災からの復興は二十九世仏海一音の功績で名僧として伝わり、親しくしていた初代茨城県令の山岡鉄舟筆の山号「岱宗山」の墨書が残っているそうです。

大洗港の第4埠頭…浚渫(しゅんせつ)船

2024年05月22日 | 日記

たまたま出かけた軽い散歩コースの大洗第4埠頭に浚渫船が停泊していました。ちょうど日曜日で港内の作業は休み、岸壁では家族連れが竿を出し、小さな子がサバの幼魚に歓声をあげていました。
何にでも興味を示すのが認知予防の妙薬と心得る仙人は、早速浚渫船を調べてみました。


浚渫船とは、港湾や河川の水底の土や砂を掘り取って水深を深くする船で、ポンプで泥を吸上げるポンプ式,グラブを底に落して泥をつかむグラブ式,長い柄付きひしゃくのようなもので泥をすくうディッパー式,底開きの泥倉をもつホッパーつき浚渫船などがありそれぞれ専用の機械を備えています。


この船は横浜に本社のある松浦企業㈱所有の第7金剛丸、今日は格納されていますが、土砂をつかみ取る大きなグラブがあるのでグラブ式浚渫船です。
●浚渫船 第七金剛丸 総トン数:2,200トン 全長:59.0m/全幅:24.0m/深さ:4.4m 喫水:2.5m


松浦企業のHPに第7金剛丸が土砂を土運船に積み込んでいる写真が出ていましたのでお借りしました。


大きな柱のようなものが3本聳えています。これはスパッドといい、クレーン作業中に海上の船体を固定するためにこの巨大な杭を海底に打ちこみます。


松浦企業のHPによれば一回につかみ取る土砂の量は30㎥でダンプカー6台分と出ていました。

なお浚渫船とすくい上げた土砂を運ぶ土運船は自航できないので、押したり曳いたりする船と船団を組んでの作業になります。


浚渫船の四角い台船の後部に取り付いている二隻の船は、自航出来ない浚渫船と土運船を押したり曳いたりするタグボートの役目をするようです。
停泊していたのは、●押船兼揚錨船 1こんごう丸 1,200ps/19トン 全長:11.96m/全幅:5.99m/深さ:1.99m喫水:1.5m  ●押船兼曳船 第十八南海丸(データは見つかりません。)


土運船も台船の横に繋がれていました。●土運船1702松山丸 1,700㎥積 総トン数:782トン 全長:63.85m/全幅:15.0m/深さ:5.0m 喫水:(空)1.16m(/ 満)4.5m

5日後に来てみるとさらに2隻の船が加わっていました。

●土運船 1701松山丸1,700㎥積 総トン数:897トン 全長:63.80m/全幅:15.0m/深さ:5.0m 喫水:(空)1.16m(/ 満)4.5m ●押し船兼引船の第38安藝丸が加わりましたので、浚渫船×1、土運船×2、曳船×3…合計6隻の船団になりました。

これらの船の船籍港は横浜ということなので、ということは海の難所といわれる犬吠埼沖を曳かれてやってきたのでしょうか。大きな重い船をロープで曳いて来るのは大変な作業で、経験と技術が不可欠だそうです。



さて、第4埠頭には大きな広場がありその一画には地元の民謡「磯節」が流れる踊り子の石像があります。南側には大洗マリーナがありクルーザーやヨットが停泊しています。


第4埠頭から見た大洗マリンタワーです。地上60mのタワー3階の展望室からは、遠くは日光、那須の連山も眺められます。


今は静かな大洗港周辺ですが、間もなく環境省の「快水浴場百選」選定の大洗サンビーチをひかえたこの一帯は、海水浴シーズンで賑やかな夏を迎えます。

花の寺六番、徳蔵寺(城里町)…800年前の僧兵の戦い

2024年05月16日 | 歴史散歩
茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花を巡る「花の寺」の第6番寺は、城里町徳蔵(とくら)にある引布山金剛光院徳蔵寺(とくぞうじ)、徳蔵(とくら)大師とよばれる真言宗智山派の寺院です。


大きな本堂の手前には、弘法太子の像が建っています。


訪れたのは4月1日、ちょうど寺域を覆う枝垂れ桜が咲き始めていました。光圀公お手植えと伝わる、小松寺(城里町上入野)の桜の子孫になるそうです。同じ真言宗智山派の小松寺は、平清盛の嫡男で平安時代末期の武将平重盛の墓があることで知られています。


寺伝では弘仁年間(810-824)弘法大師空海が当地に密法を広めようと八岐大蛇伝説の八瓶山中で雨乞いの祈りをしたという創建の話が伝えられ、また平安時代末期に弁海上人が現在地の山奥にある八瓶山麓に開山し七堂伽藍が建立されたと伝えられています。


鎌倉時代になるとこの徳蔵寺は同じ真言宗の笠間正福寺との争いが絶えませんでした。
正福寺は百坊、徳蔵寺は三百坊といわれる勢力で抗争を繰り返していましたが、劣勢だった正福寺は下野の守護宇都宮頼綱に援軍を求め、元久2年(1205)頼綱は甥の塩谷時朝を派兵しました。佐白山西麓に拠点を築いた時朝は徳蔵寺の僧兵を打ち破り、やがてはその勢いを恐れて敵対した正福寺勢を佐白山に攻め堂宇僧坊をことごとく破壊し滅ぼしてしまいました。
時朝はその後佐白山に笠間城を築き約400年この地を治めた笠間氏18代の祖となりました。


兵火に合い灰塵に帰した徳蔵寺は、難を逃れた諸仏を僅かに堂を構えて之を護り、大永2年(1522)空法上人来たりて再び徳蔵寺を現在の地に興すと伝わっています。
一方堂宇僧坊をことごとく破壊された正福寺も本尊は祀り続けられ、やがて宥明上人が再興し勝福寺と改め、貞享3年(1686)になって正福寺となり現在も法灯を護持しています。


さすがに花の寺、境内にはいろんな花が植えられて季節を彩る仕組みが考えられています。

ちょうどかたくりも咲いていました。


まだ花の少ない時(4月1日)でも、濃い色のシダレサクラ、ミツバツツジ、ツバキや寺の花「シャクヤク」などが顔を出していましたので、春本番にはさらに華やかな花の寺になると感じました。


大きな杉の並木が続く参道入り口です。


参道の向こうには大師堂が見えます。


大師堂は天正6年(1578年)の建立、木造等身大の大師座像は鎌倉時代初期の作で、徳蔵寺を約800年前に開山した弁海上人が勧請したと伝わり、茨城県の重要文化財です。


ずらりと並んだ石仏には四国88か所のお寺と本尊の名前が書かれています。左側にある大師堂の御砂踏場には四国八十八ヶ所の砂が埋められているので、足の形をした踏み石を踏めばすべての霊場を参拝したことになるそうです。


踏み石のある御砂踏み場です。


境内の奥にひっそりと薬師堂が建っています。病気平癒の仏とされる薬師如来が祀られています。


死後に赴く六道からそれぞれの地蔵菩薩が救済するという六地蔵は、真言宗の寺院に多いのですが、ここでは2か所に置かれていました。


塩で撫でると厄除けになる北向塩地蔵尊もありました。


隣接して神仏混淆の名残り、徳蔵鹿島神社がありました。社伝では貞観4年(862)八瓶山中に創建され、永禄3年(1560)、現在地に再建したと徳蔵寺と同じ歴史が伝えられています。



ところで、那珂川支流の藤井川の台地にあるこの一画には、戸倉館という城館があったという資料「七会村埋蔵文化財発掘調査報告書第1集」がweb上に出ていました。
それによると西小学校跡地や徳蔵寺、鹿島神社などのある比高10mほどの高台には、笠間氏3代盛朝の次男、戸倉三郎時朝が隣国佐竹領の境目城として居館を築城したと書かれています。近くには笠間氏、佐竹氏の支城跡も残っているので、当時は両勢力の諍いが続いていたと思われます。


遺構はほとんど消失していますが堀や土塁の跡が少し残っているようです。Google航空写真に報告書の縄張りを落とし込んでみました。
天正18年(1590)笠間氏18代綱家の時、秀吉の小田原攻めの際、本家宇都宮氏に叛いて北条氏に与したため本家に攻め滅ぼされた笠間氏ですので、徳蔵寺の現在地への再興と伝わる大永2年(1522)との時期の差は不明です。



山の中の小さなお寺ですが中世の鎌倉、室町時代に近辺での争いに翻弄された歴史が残っていました。

ヤマブキ(山吹)の実…なきぞ悲しき?

2024年05月10日 | 季節の花

春先に里山などでいわゆる山吹色の花を咲かせるヤマブキ(山吹)には、武蔵国の武将で江戸城を築城した太田道灌(1432-1486)との有名な逸話が残っています。

ある日、鷹狩り中に急な雨に遭った道灌が蓑を借りようと、一軒の農家に立ち寄りました。
その時、中から出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。道灌はこれに腹を立て立ち去りましたが、後に家来から、少女が「七重八重花は咲さけども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という古歌を引用し、「実(み)の」と「蓑(みの)」をかけて、“蓑”が無いことをお詫びする気持ちを込めて山吹の花を差し出したことを教えられました。以降、道灌は和歌の勉強に一層励んだといわれています。(太田道灌所縁の地、荒川区立図書館のページより)


この話からヤマブキには実が生らないと思っている方が(仙人も)多いと思いますが、実が生らないのは八重のヤマブキだけということが確認できました。


庭のヤマブキ(一重)を花の終わった後に見ることはありませんが、今回確認したら確かに5粒の実がちゃんと生っていました。


一方、公園で撮った八重のヤマブキです。突然変異で雌しべがない三倍体の植物になり、残った雄しべも花弁に変化してしまったため、もちろん実はならない状態になっています。


まさしく蕊が見当たらない八重のヤマブキ、この希少種を我が先人たちは、平安の時代からすでに観賞の対象にしていたということです。現在でも山野にあるのは一重のヤマブキですが、公園や庭では八重が圧倒的に多く見かけられます。
実が無くても増殖には問題がないようです。ヤマブキは地下茎の伸びがすさまじく、あらゆるところから顔を出すので、我が家でも気を付けないと庭中に溢れてしまいます。

さて、冒頭の和歌は、寛治元年(1087)編纂の後拾遺和歌集にある兼明親王(醍醐天皇皇子)の歌で次のような注釈が付いています。
「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける。(小倉の山荘に住んでいた頃の雨が降った日、蓑を借りる人が来ましたので、山吹の枝を折って渡しました。その人はわからないまま帰った翌日に、山吹を折って渡された意味がわからなかったと言って寄こしましたので、返事として詠んで送った歌です)

七重八重 花は咲けども山吹の実のひとつだに なきぞあやしき

(七重八重に花は咲くけれども、山吹には実の一つさえもないのが不思議です、わが家には、お貸しできる蓑一つさえないのです。)
原文の「なきぞあやしき」が1000年の間に「なきぞかなしき」という感情表現に代わってしまったようです。

奈良時代の万葉集や平安時代の源氏物語にも八重のヤマブキが出て来ます。

八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらるる。
源氏物語第二十八帖  野分
(八重山吹の花が咲き乱れた盛りに 露のかかった夕映えのようだと ふと思い浮かべずにはいられない。)

花咲きて 実は成らねども 長き日に 思ほゆるかも 山吹の花   詠み人知らず 
万葉集巻十-1860
(花は咲いても実は生らないのに 長い間待ち遠しく思われるなぁ 山吹の花は)




ところで、ヤマブキに似ている白い花のシロヤマブキ(白山吹)は、ヤマブキにそっくりな姿ですがこれはシロヤマブキ属の別種で、しっかと黒い4個の実が付きます。

花弁はヤマブキの5枚に対して4枚、似た葉ですが出方がヤマブキは互生(枝の両側から互い違いに葉が出る)なのに、シロヤマブキは対生(枝の両側の同じ位置から葉が出る)です。


1000年以上前の先祖たちが、この時期に咲くヤマブキを待ちかねて歌を詠んでいたことになんとも親しみを感じてしまいました。

個人的には一重の方が好きですが、花の種類も少なかったその時代には、新しく生まれた希少種の八重を庭に植えてその華やかさを好んだのかもしれません。

なお太田道灌の伝承が残る東京都荒川区日暮里の駅前には、鷹狩り装束で弓を手にする道灌の騎馬像と、山吹の花を差し出している少女の像が設置されているそうです。