YUNUBI

YUNUBI=ユヌビは、私が嫁いだこの地の方言名だ。30年余の会社経営、子育てに良くも悪くも終止符をうった。

なんて面白いブログ、ナチュラル素敵ブログ

2024-05-12 | Weblog
なんて面白いブログ^_^お笑いのボケ、ツッコミが見える様な爽快さ〜日常の些細な出来事を、こんな風にクールに笑かす〜。もう少しブログを書こうと思った新年明け、偶然いいブログに出会った[みゆきな日々]新規投稿をめくって笑う。笑って思う事あり〜の余韻にひたりながら、もう一つ、[タックの庭仕事]のブログに目を通す。北海道の自然とタックさんの淡々とした律儀さが好ましくフォローしてた。二つをよんでお腹いっぱい自分は書けてない。連休明けの独り言〜。

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倉庫で大喧嘩勃発2022年8月の記録

2024-01-10 | 家族
 2021年11月私は、1年余の交渉で80坪の土地を手に入れ、念願の畑を始めた。土地は、駐車場 ハーブ畑 野菜畑と自然に3分割された。野菜類は夫が直ぐに、たくさんの苗を買ってきて植えた。農家育ちの夫だが、自分でやるのは初めて、土慣れした私は、喧嘩をしないように口出し手出しせずと決めた。夫は、ゴーヤーの新芽脇芽を何故か切り落とし、後で畑先輩から慌てて切らなくてもいい苗を切ったと教えられ落胆😖💢ミニトマト好きの孫の為に沢山の苗をビッシリ植えるのも横目で見てた。夫は作業する時、いつも何か探している、農機具(鍬やショベル、鎌、鋏等)を、その場に放置するから使おうとして探す。後で作業する私も探す羽目になり面白くない😒それでも、収穫した野菜類を定例のご飯会で調理し食卓に並べると、息子家族からの「お父さん美味しい〜」はみんな笑顔の幸せ時間、畑始めて良かった。小さな収獲の楽しみは続いた。
 畑始めから7か月梅雨入り直前。畑入り口には、夫の建築道具や材料等が入っているとりあえず作りの倉庫がある。が、1年経ち道具が保管ならず錆びたりで汚い、私は、作り直してここに農作業用品倉庫にしようと夫に意見した。が、相変わらずの夫の放置材片付けが我慢できず、私は勝手に倉庫の解体を始めた。梅雨明け日の炎天下、湯気が出そうにゴミ化した錆びたネジ箱や、溶剤、雨漏りで水が溜まった容器を倉庫から出す。夫が作った倉庫は思ったより手強い、しっかり、ボルトや針金で固定して建て込んである。ここ最近、手の力が落ちた私には、大きい材や硬い留めを外したりは辛い。作業しながら、ズーとこんな事してたな〜過去がよみがえる。夫は、何故か離れた所から、怒りの表情で見てるが無視。
 夫は型枠職人から人望を得て社長になったが、片付けない人間の周りには同じタイプが集まった。多くの仕事を請け負い日々忙しいから、片付けの作業員を入れるが間に合わず倉庫内は、弁当の殻まである有様〜。見かねた私が、休日の土、日に倉庫内を一人で片付けるを繰り返してた。そんな昔の事、そしてつい2、3年前の夫が単身赴任して不在の汚い倉庫片付けをも思い出す。梅雨明けの炎天下の作業は、身体が辛く作業の手もゆっくりになるが、残骸化した資材には、もったいないとフツフツ腹が立ち、よみがえる記憶に又こんな事!何度もしてる!!
 倉庫解体から2日後 この作業を怒りの表情で見てた夫が、作業再開の私に言った。『倉庫がお前に何かしたか!』私は『何が倉庫!汚くて意味がない』壊す前に言って欲しかったのだと瞬間にわかった。私の腹立ちは、物を管理できない夫の有様だが通じない。言い合いは、『分かった!倉庫は新しく自分で作るからほっといて!』私の〆の言葉で終わった。大喧嘩勃発である。もう、こんな、めんどくさい相手と話すまい。

 2024年1月 71才の新年にブログを開いた。2022年8月の下書きが残ってた。続きを書こう〜。未だ、面白くない夫とのやりとり。71才になっても穏やかならずだから〜
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オススメの映画を教えて

2021-06-25 | 資格、勉強
 ノマドランド 生き方を考える映画とある。
ノマド(遊牧民)現在はキャンピングカーで仕事や生きがいを求めて移動し車上生活者の事を表す。悲しみを抱えて、亡き夫の愛車で旅に出るファー、出会う人々に導かれるようにノマドランドを訪れる。
 私は、ファーの考え方や行き方に共感する。
年老いていく事以外は、どんな事もこなし乗り越えていくタフな身体と心、旅先で出逢う人との関わり方は繊細でこの上ない優しさのファー。が、彼女の心に沈んだ悲しみはそこにうずくまったままーーー。ファーが森の水場に一人全裸を浮かせているシーンは、彼女の孤独や深いやるせなさが伝わる。私は、この女優さんだからこその逞しい美しさがあるシーンだと思う。
 他にも、好きなシーンはいくつかある。崖から孵化した卵の無数の殻が落ちて渓谷の川に白い花びらのように流れるシーン。夕陽のキャンピングカーロード、年老いた彼女や彼らの意志を持った顔のアップは、たるんだ頬や顎や刻まれた深い皺も何のその、生きてきた尊厳を感じさせる。
 後半に、ファーがノマドランドに集う人々に寄り添い友人となった人達から届く心に癒されていく。死を受け入れた友人の夢叶った幸せな最後がノマドランドへSNSの便り、家族といる幸せを選びノマドランドを去る友人、多くの悲しみや深いやるせなさ、ささいな幸せが交錯する中でファーの悲しみは溶けていく。私の心も洗われるーーー。
 ラストシーン、夫と暮らした家に戻り、埃に沈んだ部屋から夫が大好きだった砂漠を眺めるファー。その瞳は明るい。私も頑張る〜自分にも人にも優しく、いろんな思いを新たにさせてくれた映画。
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手となり足となり 3年前のウッドデッキ

2021-06-10 | インテリア
 何度かリフォームを経験している。リフォーム時の、既製品のプラスチックケースや金属のパイプ製品は、種類が豊富、丈夫で、サイズ決めしてからの、部屋への配置は楽で仕上がりも早いが、何故か飽きる。
 私は、せっかく手に入れたプラスチック箱やパイプを、木材と組み合わせることで、使いやすくオシャレ感も生まれると段々に木材を多用するようになった。
 3年前、娘宅のウッドデッキを造ろうと、娘が買ってくれたのは、【マキタの充電式電動丸のこ】。驚くほど軽く、切れ味がよく、故障ひとつせず、今に至る。小さな工具で、厚手の板など1度にカットできないが、のこぎりと組み合わせることでキレイにきれる。慣れると、結構正確にカットでき様々な物を作った。3年前のウッドデッキは我ながらよく出来たと思ったが、杉板の美しさと扱いやすさは私の好みでもある。
 もうひとつ、【マキタの充電式インパクトレンチ】これも軽さに驚き自分で購入したが、バッテリーが両方使えるのはいい。この二つが揃って以来、私の手となり足となり、DIYに磨きがかかった。

table border=0 colspacing=0 cellpadding=0>マキタ 充電式インパクトドライバ 10.8V TD090DWXW バッテリー2個付きクリエーター情報なしマキタ

2mx4mの広さ 杉板3.6㎝の板厚で土台はブロック、石、プラ箱。H13年春造る。


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GOTOkキャンペーンで行った神戸ポート駅での事

2021-02-09 | 資格、勉強


 ❤️記憶のメモ書き

 コロナの自粛発令に慣れ、GOTOキャンペーンも遠い日の出来事の様な日々。
ふと頭をよぎるあるおばあちゃんの姿、「わしゃ 前橋の農民じゃ〜」丸いキラキラした目で語っていた。
 11月初旬、娘家族を案じてGOTOキャンペーンで京都に滞在した。4人の子供達と仕事と生活を頑張る親達がそれぞれに
コロナ生活にストレスを含み疲れているのを、SNSで感じ取り呼ばれてないが訪ねた。私が、初日に感じた家族の疲弊は、
子供達も親も相当な物だった。近くに親戚もない単体家族は、コロナで立ち往生しては戻りを繰り返していた。
 私は、とりあえず家事をこなし、家族に夕飯のゆったりとした時間を確保しよう〜と決めた。せっかくの京都だが外出は控えた。娘と相談し年末の早目の掃除も兼ね忙しくしている中で、孫達が明るい声で飛び込むように学校から帰ってくる。日々、みんなが元気を取り戻した。特に婿は、目に見える程元気になった。彼は、元々明るい能天気な性格だが学者肌の大学の先生だ。時間的融通を効かし子供達を日々見回り、塾や習い事の送りや夕飯作りもこなしている内に疲れは溜ったと推測した。彼にも、私は正に救いの神?。京都の初日に、彼が疲れた様子で「子供達が全然言う事を聞いてくれない---」そりゃそうだ大学生じゃないんだから、のびのび育ち過ぎ?位の子供達、頭ごなしは駄目に決まってる。家事や子供達との時間が、少しゆったりするだけで、家族は丸くなり笑顔が増えた。
 10日間は、あっと言う間に過ぎGOTO1泊の宿泊を大好きな神戸港町にあるホテルにした。自由な時間を散々歩き周り、ルームサービスの豪華なディナーで夜景を堪能した。翌朝6時にフロントアウトしながら、視界の隅に写る年配の親子らしい粗末な服装と大きな響く声が気になったが、歩いて2分のポートピア駅に向かった。
 神戸の街をほっつき歩き、このモノレールで海を眺めながら空港へ向かうのは、私の好きな家路となっている。沖縄で、移動に車を使うから電車や駅は魅力的だ。特に、ここ神戸の近代的な建物や遠くに見える六甲山や、港の海とのバランスも素晴らしく本当に素敵な路線なのだ。
 駅に着くと、券売機の前で困った様子の親子らしき二人。ホテルでアウトしてた二人だ、90歳近くなる小柄なおばちゃんと、立膝座りで鞄をまさぐる顔半分白マスクで覆った40歳代の男のそばには白い杖。やはり親子かなと思いながら、声をかけた。行き先を聞き券売機を見ると30円不足だ。おばあちゃんに促されて男は財布を探してる、私は30円を足して出たチケットを二人に渡し、息子らしき人から渡された500円玉を押し返した。私は沖縄生まれで、電車のチケット買うのもやっと慣れてきたから気にしないで〜と。
 おばあちゃんが大声で言った。私は耳が聞こえんが連れは目が見えん〜全盲の男性だとわかった。マスクがほぼ目までかかっている。私は、二人と反対方向の神戸空港なので、お礼の言葉に気をつけてと返し、改札口に向かった。ふと表示を見ると三宮も空港も改札入口は同じ、振り返ると二人は駅の出口方向に歩いている。
 私は、飛行機の時間が気になったが、急いで後を追っかけ改札入口を教えた。やはり、間違えてた。改札に入って5分位で神戸空港行きがきた。乗り込もうとする二人に、15分後に三宮行きが来るからと止める。おばぁちゃんが、「ありがとう〜わしゃ 前橋の農民じゃ〜」と返して来た。乗り込んだモノレールの窓の外、ホームでは、丸いキラキラした目で私をじっと見るおばぁちゃんと目迄マスクの男が頭を下げた。
 おばぁちゃんは身長140cm位、40歳代の男は、白い杖の様に細い身体に白シャツ生成りのズボン、目迄白マスクと顔が見えない風体。ホームで、おばちゃんは、大声で「ここは、素晴らしい街じゃ、こんなキレイな街はない!ホントにいい街じゃ」感嘆し、白いマスクの男は音もなくうなずいた。電車が動き出し、遠のく二人を私は、不思議な旅人だと感じた。
 コロナは、収るどころか広がり自粛は続く〜。旅に出る事もはばかれるこの頃、私はおばちゃんがキラキラした目で、わしゃ前橋の農民じゃ〜と言ったのを思い出し前橋を調べた。埼玉県!二人には遠い旅だったろうにと、あの時私によぎった感動が増してきた。まるで、絵本の中の二人だった。おばぁちゃんの顔は、はっきりと思い出すが、服装はあねさん被りとモンペ風だった様な気がしてはっきりしない、息子らしき人の姿格好ははっきり覚えているのに何故かあの表情しか思い出せない。本当に、生き生きとした表情で語っていたおばぁちゃん、耳が遠いから大声で遠くを見るように懸命に話してた。
 私の母は91歳になるしっかり者だが、あのおばぁちゃんの姿とは全然違うと感じている。目が見えない、耳が聞こえない旅する二人が支え合い、前を見る姿が異質にさえ感じたからかも知れない。
 私の心に焼きついた二人、おばぁちゃんのキラキラした目の語り。
人の暮らしは、いろいろあれど生き様は培うものだろう〜子供達も大丈夫、私も大丈夫、そんな気になる。


 


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寒い 寒い って言ってられない。孫が頑張ってる。

2021-01-17 | 家族
 私は、沖縄育ちのせいか寒いのは苦手〜10度を下回ると体が動くことに拒否反応を示す。旅好きだから、あちこちの寒い所で感動の景色に出会う事もある。が、住めないと思ってしまう。
 けど、私に似た寒がりの娘2人は、京都やニューヨークで暮らす、気は心なりか、日々の出来事と向き合う子育て奮闘し頑張っている。そして、この寒い中、京都二番目の孫が中学受験中〜応援するしかないが、頑張った心は、合格にも増すと信じる。落ち着かない私は久しぶりにブログに向かう。
 この二番目の孫は、飛び抜けて明るい性格で幼い頃からオーラを放つ。コロナや受験生になったという事で、沖縄での正月がない初の新年でガッカリの彼女の事を、夫と話した。思い出す彼女の初めての一人旅。空港で出迎えた夫と私の目に、到着口の大勢の人の中から、6歳になったばかりの孫の愛らしくも光り輝くような笑顔が飛び込んだ。その姿は、今も鮮烈に脳裏に残ると夫に話すと俺もそうだと言う。二人して孫バカだと言われそうだ。彼女の盆と正月の一人旅は続いたが驚く事もあった。一昨年は、那覇空港着陸寸前で滑走路に穴が見つかり、鹿児島空港に旋回着陸待機後、沖縄到着予定16時から、彼女が我家に着いた時は23時を回ってた。家族は皆心配して待ったが、彼女の疲れは見えても明るい顔でいきさつを話す「大変だったのは赤ちゃん連れの人、4時間の機内待機で泣いたりで可哀想だったー」私は逞しいと改めて思った。私は、どんな事でも短気で彼女を叱るのはやめようと心に誓った。 
 とは言え、伸び伸び育ち過ぎくらいの彼女が、中学受験をすると塾に通うようになったから相当のストレスだったようで、LINEで繋がる私に遠回しにSOS〜❣️彼女はまだ12歳、コロナ渦中家にいる妹弟の事も気にかけてても、自由にならない時間に奮闘し辛くなってたのだ。私は、Gotoキャンペーンを使い10日を京都滞在し娘家族を見守った。コロナ自粛ムードの中、親も子も家の中で何とは無しにストレスを膨らませていた。私が来て、日に日に孫達に笑顔が戻り、忙しすぎる肝心な親達も落ち着いてきた。二番孫は食卓テーブルで23時位まで、ばぁちゃん居るだけで勉強はかどると淡々と頑張ってた。その後、受験勉強中のたった2日の塾休みに沖縄に来たが、少し大人びて堂々とした感じがした。だから、どんな結果でも飲み込めると信じているし、合格したらこんな嬉しい事はない。
 沖縄に、毎年訪れたい彼女の会いたい一番は、同い年の従姉妹、彼女より1ヶ月先に生まれた私の一番孫だ。二人は、長女だと言う事と漫画が好きと言う事以外は、外見も性格も対照的なのだがとにかく気が合う。生まれた時から一緒の感じで喧嘩した事がない位仲良し。沖縄にいるとお姉ちゃんでない自由になれるのだろう。
 沖縄の内孫三人は、皆背が高くゆっくりでおとなしめな感じだ。京都孫4人は、伸び伸びとして皆小柄でよく動き、言葉も達者だ。対照的なこの子達はお互いが大好きで刺激を受け合っている。その影響受けたか、一番孫も中学受験を言い出したが塾通いは遅く8月から〜受験の1ヶ月前から毎晩のように、ばぁば塾でも遅れている算数を頑張ってた。一番孫は、先日に合格の喜びLINEになったが、通知が来るまでは、頑張ったんだから〜何でも大丈夫〜と励ましていた。
 二ユーヨークにいる三番目の男子孫も12歳。地域の空手チャンピオンだが、弟二人の面倒見たり女の子の様に優しい彼も真面目。こっちも、コロナ渦中、商売している親が大変な中、9月に第1志望校に入れたと嬉しい知らせだった。
 急にLINEがざわついた。たった今、何と合格したのだと〜嬉しい〜ありがとう〜皆の喜びの絵文字が飛んだ❣️
 
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2021 集音器実証スタート

2021-01-03 | 資格、勉強
10年はなろうか?テニスの練習中にボールが耳直撃 鼓膜破 2度目 再生はわからない?と言われた。聞こえが悪くなったが、日常を意識して過ごしてきた。が、事務能力を買われて公のアルバイトを引き受けた。事前研修で大きなホールでの話しが聞き取り辛い。同世代から同じ事がつぶやかれた。対処したい〜。以前 母に集音器をプレゼンする前に試した事がありイメージはあった。ネットで注文 届いたのは新年2日 両耳なのに驚き 早速実証 充電して装着 いろんな音が入る。換気扇の音 ヒーターの音 ウォシュレットトイレの音 食器を洗う音 洗濯機の音 聞こえが悪くなってから気にしなくなった音が全部入る。極めつけはメモリ40で聞いてたTVの音が13で雑音と一緒に聞こえる。訓練しようと思った。意識的に人の声だけを拾う❗️〜練習する〜聞き取りが楽になると信じてやって見よう〜仕事迄 1ヶ月余 頑張る❗️❣️
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USA NY RAMEN ISHIDA

2020-07-30 | 家族
NY RAMEN ISHIDA 
アメリカNYの石田ラーメンは娘婿が営む。
昨年8月、石田家の私の孫3人と、ランチで店を訪れる日々があった。初めて食べた時の美味しい感動を忘れない。醤油ベースの出汁の美味しさを「命のスープ」だと娘に伝えた。作り方は知らなくても、丁寧なしみいる様な味は、日本に帰ってからの私の食事作りを押し上げた。丁寧に手間かけて体が欲する味へと努めている。コロナ渦中、心配は尽きないが、RAMEN ISHIDA がNYタイムスに取り上げられ、今日も現地の経済誌に石田洋平がコメントしている。時の人だが、美味しいラーメンを追求し続ける姿勢は変わらない。

*NY経済誌掲載の石田ラーメン記事



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大潮の大喜び

2020-07-08 | 家族
 母の定例ケアーマネジャー会議が10時から、ゴミ出し日でバタバタして母の家に向かうが気温は30度を越し日差しが熱い。クーラーを効かせて待っていた母に涼しいねと言うと今日は暑いからと、動きゆっくり気怠そうに掃除道具を片付ける。当たり前だが客が来る前は掃除をする。90歳を過ぎた母が、棚やテーブル拭きから、這いつくばって絨毯のゴミも小さなホウキで集めて満足と疲れた顔をするのはいつも通りだが、難儀そうなのは体力の衰えで茶菓子の準備まで出来てないと言う。少し遅れてきたケアマネ(私の次女と同年41才)さんは、美人で聞き上手、お喋りな母はたちまち元気になる。ケアマネの彼女は週2回のデイサービス施設の方針や、介護料金の改正等説明する。ケアマネに饒舌に語りながら、衰え見せぬ、見せたくない?母の頭は、理解しようと話に食いつく。コロナで介護保険料が微妙に調整され値上げなのだ。この料金を理解したくない母に説明してる内に、政治が悪いとの母の話に引っ張られる。私は、毎月の事後請求だからその都度説明するからと納得させる?。が、大した年金でもないのに、天引きの介護保険料や介護料金は国の金づるだろう〜と心底は私も面白くない。そこへ、LINEで次女の婿がNYタイムスに乗ったと来た。見るとコロナでテイクアウトラーメンを配達する婿のいい顔。私は、会議中だが思わず母やケアマネさんにNYタイムスの記事を見せる。数日前から、婿がYahooニュースで取り上げられたり、YouTubeでアメリカ人が婿のテイクアウトラーメンを披露してるのを見てたが、これはもう嬉しくて仕方がない。母の顔もパッと明るんだ。会議終了後、私も母も好きなスシローランチにルンルン気分で出掛けた。色々話ははずみ、私に母の髪をカットして欲しいと言う。が、行きつけの美容室に予約を入れる。ランチ後、ルンルン気分は強引に母を美容室に誘う。いつもの母は、高い料金はもったいないとシャンプーして近所の美容室で千円位でカットしてもらい、気に入らないと文句の多い美容室ライフだ。母は、私のいきつけの男性店長(美容師)に驚き、生まれて初めてのシャンプー台に頭から突っ込む動作をし、笑いを誘った。マッサージをしてもらい、スッキリした頭と顔でいい気持ちだった〜と母は、料金3300円を聞き、あなたは今日はお金の使いすぎだと5000円を差し出す。私は元気だからこんな所も連れてこれると3000円を返す。今日は嬉しい日、贅沢な娘だと思ってもいいよ。生きてるうちに幸せな事させてと言うと母は笑った。母を送って自宅に戻ったのは15時過ぎ、まだ間に合うと英会話聞き流しのイヤホンを持っていつもの海へ出掛けた。NYタイムスのニュースは嬉しくてSNSで友人や親戚に発信したが、コロナと戦う娘家族を思い巡らし干潮の海岸を歩く。大潮で普段より広い岩場の水の中を歩く。暑さも引き気持ちがいい。iPhoneでサンゴの写真を撮りNYの孫達へ発信する。心穏やかな1人時間だが、今日の大潮は一味違う。サンゴが美しく育っている!おまけに宝貝の巣?大きなのが3個もいる!もちろん収穫〜












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沖縄慰霊祭

2020-06-24 | 故郷
慰霊祭前日、コロナ自粛中と通常40人は参加の草刈り作業は、区民有志10人程と少年野球の小学生4人が監督について来て居る。梅雨の晴れ間で蒸す暑さの中、集中力ない子供達を励まし刈られた草を軽トラに乗せる。塔の境内は300坪位ある広い敷地で、みんなが黙々と作業をこなす中、子供達の黄色い声や笑い声に自然と笑顔になる。オヤツタイムも美味しそうに嬉しそうに天ぷらを食べる子供達の笑顔。子供達の頑張りもあり、思ったより早く作業は終了したが、いつもの様にお喋りもなくみんな早々に帰途についた。
 慰霊塔の境内
6月23日、この日も区民有志だけでの慰霊祭と聞いていたが、拝者、区長、書記、老人会長、審議委員の私とたった5人での祈りとなった。祈る人(拝者)を沖縄では神の人(カミンチュ)と言うが、代役で夫の姉が勤め簡素にサラッとした祈りになった。慰霊祭は、区行事の大きなもので毎年、線香を上げに100人以上の参加がある。梅雨時の大雨でも、亡き身内に祈りを捧げにやってくる。来られずには居られないと語る参加者達が居た。今年の慰霊祭は5人で30分で終わった。帰り際に、慰霊塔の経緯を記した石碑の汚れが酷いとの話がでた。心落ち着かない慰霊祭、何か出来る事があればと、私が石碑を洗っていいか許可を得た。翌日、ネットで調べた方法で洗ったが、薬剤が石に染み込むのを防ぐ梅雨時の大雨は都合いい。乾いた石碑を写真に収めた。いつか文字が見えなくなった時の為の原稿作りとする。この日、私は孫達に向けて、夫の両親がサイパン島で手榴弾を持って米軍から逃げ回り、運よく捕虜になって沖縄に帰ったから夫が生まれた〜あなた達がいると家族LINEで発信した。
 洗浄前の石碑 汚れが酷く文字が見えない所もある。
 洗浄後、石碑の文字が読める。
第2次世界大戦における沖縄戦をはじめ中国大陸、南方諸島及びその地域にて悲惨な最期を遂げられた当区出身の軍人、軍属、一般住民を合祀しみ霊を慰めるため1947年12月29日に建立したが、終戦33年期にあたり慰霊碑を改修し、127柱のみ霊を弔い永遠の平和を祈願し、戦争の惨事を子々孫々への遺訓とします。1979年12月改修 栄野比区々民 栄野比出身者一同













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