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カスタマーレビュー

カマール:サリビー 聖書アラビア起源説

2017年9月5日に日本でレビュー済み
 
 著者はレバノンの歴史家カマール・サリービーという人物で、ベイルート・アメリカン大学の歴史考古学部の名誉教授で、中東史の世界的な権威でもある。著者は古代(旧約)ヘブルを理解し、たまたま手にしたアラビア語由来の地名辞典の地名が旧約聖書の地名と同じである事に気付いた事に始まり、旧約聖書に記された物語の舞台が、パレスチナではなくアラビア半島南西部、メッカのすぐ南の紅海に面したアシール地方であるとするものです。本来、旧約聖書は古代に話し言葉として使われたヘブライ語で、子音のみによって表現されていた。それが数世紀後、すでに古代ヘブライ語は使用されておらず、アラム語、アラビア語など他のセム語にとってかわられていた時代に、ユダヤ教学者達によって聖書の子音原文に母音が付加された。ところが、解読にあたったユダヤ教学者達が、かって聖書のヘブライ語がどう発音されていたかを知らず、且つ、すでに聖地はパレスチナであるという先入観を持っていたために、誤った母音付加がなされた。以来、旧約聖書は間違った読まれ方と理解をされたまま、今日に至っているというのである。
 本書は各分野の数多くの著名な学者の協賛を得ており、本書のオリジナル原稿は英語だが、ドイツ語、アラビア語、オランダ語、フランス語、フィンランド語、スペイン語、インドネシア語、日本語版(1988年12月出版)も発行されている。本書は欧米での刊行後、「ニューズ・ウイーク」「クリスチャン・サイエンス・モニター」「サンデー・タイムズ」などを含む世界の主だった紙誌に取り上げられ、一大センセーションを巻き起こした。
 小生は古代天皇家と古代イスラエルの関係に関心があり本家本元の本書を購読したが、正直、聖書を読まず、古代ヘブライ語とアラビア語を理解せず、アラビア地理も知らない小生には、例えば、本書が示す『旧約聖書に現われる地名』と『現在も残るアラビアの地名』の相互検証が正しいのかどうか判定できないが、全般的に本書および関連ブログ等で理解した事項をまとめて述べるので、今後の購読者の参考になれば幸いです。

(1)旧約聖書の舞台がアラビア半島南西部アシール地方の根拠
 もし仮にアラビア半島南西部アシール地方が本当の聖書の故郷だとすると、パレスチナから古代イスラエルの痕跡が見つからない理由も説明がつきます。また、ユダ王国や北イスラエル王国が、他国の文献に登場しているにもかかわらず、パレスチナで遺跡を発見できない理由も説明できます。全てはアラビア半島南西部アシール地方に存在していたのであり、現代の聖書考古学者は見当違いの場所を発掘しているのです。
(a)旧約聖書の舞台がパレスチナだったという現在の説には、下記の問題がある。
●パレスチナには旧約聖書に対応する地名がほとんど残っていない。 ●火山もない。 ●いくつも遺跡が発見されているけど、旧約聖書との繋がりは一つも発見できていない。
(b)これに対し、アラビア半島南西部のアシール地方が舞台だったとすると、
●サウジアラビアのアシール地方からは、旧約聖書に登場する地名のほとんどを見つけることができる。 ●火山がある。 ●アシール地方には未調査の遺跡がたくさんある。 ●アシール地方のすぐ南のイエメンにはつい最近まで何故かユダヤ教徒が存在していた。(1949年6月から1950年9月にイスラエルによって秘密裏に実施された魔法の絨毯作戦/鷲のつばさ作戦と名付けられた空輸救出作戦で、事実上、ほとんどのイエメンのユダヤ人(ユダヤ教徒)は国を離れ、現在はイスラエルに住んでいる。)

(2)旧約聖書の真実
 例えば、古代イスラエルの首都エルサレム(yrwšlym)。サリービー氏は、これは本当はアシール地方にある「アール・シャリーム」のことだと言います。同じように、父祖アブラハムの故郷はメソポタミアのウル(’wr)ではなく、アシール地方にある「ワルヤー」という村。ゲラル(grr)は、アシール地方にある「グラール」という村。モーセが脱出したのはエジプトのラメセス(r’mss)ではなく、アシール地方にある「ラ・マサース」という村。エチオピアのクシュ王国(kwš)とされていたのは、本当はアシール地方にある「クーサ」という村。そして、エジプト(msrym)は、クーサの近くにある「ミスラーマ」という村。更に、全イスラエル王国を起こしたダビデの生地とされる「ベツレヘム」とは、「ウンム・ラフム」という名で知られる村。という具合である。
要は、せいぜい300km四方の、アラビア半島南西部のアシール地方で起こった一連の出来事というわけである。
 つまり、ワルヤー村出身のアブラハムは、西のグラール村に引っ越しました。その子孫はミスラーマ村に移住したけど、奴隷扱いされたので脱出しました。そして、周辺の村を侵略して、最終的にアール・シャリームに本拠地を置き、小さな王国を築いたよ。当然ながら今から3000年以上前の、なんともスケールの小さい話であります。

(3)「七十人訳聖書」編纂プロジェクトが偽造解釈の根源
 旧約聖書はもともと「古ヘブライ語」という言語で書かれた書物ですが、この古ヘブライ語は紀元前6世紀頃に話し言葉としては消滅してしまっています。一応、ユダヤ教の儀式の中ではかろうじて残っていましたが、結局のところ古ヘブライ語を扱えるのはもうユダヤ教の司祭や一部の知識階級に限られてしまっており、このままでは誰も旧約聖書を読めなくなってしまう運命だった。ユダヤ教が幸運だったのは、紀元前4世紀の終わり頃からエジプトを支配していたプトレマイオス朝エジプトが、学問や文化芸術を非常に大切にする王朝だったことであります。紀元前3世紀頃のプトレマイオス2世は旧約聖書をギリシア語に翻訳するよう命じ、ユダヤ教の司祭たちが学術都市アレキサンドリアに集められたのです。これが「七十人訳聖書」の編纂であります。
 古ヘブライ語は子音だけで表記するタイプの言語で、ggrksとかkwskみたいな感じ。ものすごく不便そうに感じますが、実際には単語に一定のルールがあるので、言語そのものを知ってさえいれば、問題なく理解できるものです。ただ逆に、元々の言語を知らない人がこれを正確に読み取ることは困難です。七十人訳聖書の翻訳時点で、古ヘブライ語はすでに話し言葉としては消滅していました。そして、その翻訳に携わった司祭たちですら、古ヘブライ語の消滅から何世代も後の人間でした。彼らの文法や語彙の知識は、かなりの部分が伝承を元にしたあやふやなものだったはずであります。
そんな状態で、彼らは旧約聖書に登場する数々の地名を正確に照らし合わすことができたでしょうか。
 例えば、旧約聖書において「エジプト」を指す単語は、「msrym(ミツライム)」です。しかし、これも実は変な話なのです。「エジプト」という地名は、「コプト」→「ギプト」→「アル=ギプト」→「エジプト」という感じで変化していったもの。紀元前にエジプトが「ミツライム」と呼ばれたケースは、旧約聖書以外には一つも確認されていません。従って、旧約聖書における「出ミツライム」が「出エジプト」である理由は何一つありません。というか、「ミツライム」の本来の意味など分かっていないのです。この時、ユダヤ人は本当の「古ヘブライ語」を読める人が誰もいなくなっているのを良い事に、アシール地方の地名のことごとくをパレスチナの地名だと偽造解釈しました。 
 「出『ミスラーマ村』記」も「出エジプト記」となりました。「ミツライム」を「エジプト」だと無理やり言い張ったのです。ここで大事なのは、翻訳を命じたプトレマイオス2世がエジプト人ではなくマケドニア人だったという点。出エジプト記におけるエジプトというのは、イスラエル人をいわれなく奴隷にして、赤子を皆殺しにしようとして、ヤハウェ(YHWH)神を舐めて、逆にコテンパンにやられるという役割。生粋のエジプト人なら激怒するところですが、プトレマイオス2世はマケドニア人なので、それまでのエジプトの歴史と連続性を持っていません。こうして、「ユダヤ人はアシール地方の地味な歴史を、見事に壮大なものに見せかけることに成功します」。その結果、人種民族にかかわらず多彩な信者が集まってきました。やがて、ユダヤ教という宗教のみで繋がる「ユダヤ人」という集団が構築されたのであります。

(4)アラビア半島南西部アシール地方が忘れられた歴史的経緯
 元来アラビア半島南西部は火山地帯で天然資源と気候に恵まれ、しかも古代交易路の最重要合流点のひとつを擁している地域として、古くから諸帝国の征服目標となっていた。紀元前11世紀にアシールの海沿いの傾斜地にサウル王のもとに統一イスラエル王国がおこり、ダビデ王により領土の拡大をみて、ソロモン王の時代にその栄華の絶頂期を迎えたが、紀元前10世紀にエジプトがアラビア半島南西部に介入し、その結果、統一イスラエル王国は互いに対立する王国「ユダ」と「北イスラエル」に分裂した。
 紀元前721年、「北イスラエル王国」はアッシリアの支配者サルゴン二世によって征服され、その主だった市民は捕囚としてペルシャに連れ去られた。その後紀元前586年、バビロニアの支配者ネブカドネザルが「ユダ」王国を滅ぼし、何千人というユダヤ教徒が捕虜としてバビロンに強制移送された。アッシリアとバビロニアによる征服の後、アラビア半島南西部におけるイスラエル人の国家再建の期待は、アケメネス朝ペルシャの世界帝国の出現によってその期待は間接的に消え去った。つまり、アケメネス朝ペルシャによって、シリア経由でペルシャ、メソポタミアとエジプトを結ぶ巡視公路が作られ、これによって主な隊商路がアラビア半島から外され、半島とラクダの通行路が経済的な不況に追い込まれた。さらに、ペルシャ人によって紅海とナイル川を結ぶ運河が建設されて海洋貿易が盛んになり、これによりアラビア半島の隊商貿易が一層沈滞化し、これらすべての余波を受けてアラビア半島南西部はまさしく荒廃した。ペルシャ、メソポタミアの捕囚であったイスラエル人の子孫たち約4万人は、ペルシャに放免されアラビア半島南西部に帰っていったが、自分たちの故郷の現状を目のあたりにして茫然となった。もはや復興の見込みもないほどの貧困と破壊しか見出せなかったが、ヘブライ語聖書の歴史記述はそこで途絶えている。
 このイスラエル人の大方は、結局のところメソポタミアかペルシャに戻ったか、あるいは離散したにちがいない。各地へ散ったイスラエル人を「ディアスポラ」、別名「離散の民」と呼びますが、ヨーロッパに幻滅を感じた人々がアメリカに希望の新天地を求めたように、ユダヤ教徒は新しい入植地パレスチナに同じような期待を抱いたようである。
 紀元前330年アレキサンダー大王によりペルシャが滅び、東はパキスタン、西はギリシア、エジプトにまたがるマケドニア世界帝国が成立し、それらを結ぶ陸上交易要路として、また地中海貿易の拠点として、更に紅海と地中海を結ぶ交通要路としてパレスチナ地方が勃興した。紀元前143年に、パレスチナのユダヤ教徒はセレウコス朝シリアから独立し、ハスモーン家のヘロデ王がパレスチナのエルサレム神殿を修復したが、偽造された「七十人訳聖書」を信奉するユダヤ教徒にとって、この頃すでにパレスチナはヘブライ語聖書正典と古代イスラエルの発祥の地であるとみなされていた。宗教としてのユダヤ教は、今世紀にいたるまでアラビア半島南西部のみならず南部にも残存するが、イスラエル人の社会はついにその起源の地アラビア半島南西部アシール地方では再建されなかった。これ以降のユダヤ教徒の歴史の中心はパレスチナ周辺となるが、イスラエル人とユダヤ教が本来アラビア半島南西部アシール地方に発祥したことは忘れられたのである。

(5)コンピュータによる現代版「七十人訳聖書」編纂の必要性
 旧約聖書はコンピュータによる翻訳を行う時期に来ているとする著者の意見は正しいと思われる。まだ完全なコンピュータ翻訳は完成していないが、子音記述のみの文書をコンピュータの力を借りて、可能性のあるあらゆる翻訳・解釈を、宗教観にとらわれ過ぎる事なく客観的に選択していき、旧約聖書の現時点での正しい現代語訳、所謂 コンピュータによる現代版「七十人訳聖書」の編纂がなされるべきだと思われる。

(6)イスラエル建国時の独立宣言(1948)正当性の矛盾             
 もしも、旧約聖書の起源がアラビア半島南西部アシール地方だとすると、今のイスラエルがパレスチナに建国した正当性は木っ端微塵に吹き飛んでしまいます。そして旧約聖書が人類最大の偽造説が証明されると、旧約聖書を母体とするユダヤ教、キリスト教及びイスラム教の世界観、価値観、終末論の崩壊と社会の大混乱をもたらすのではないだろうか。更に、長年に渡たる中近東地域の民族紛争、政治混乱、経済疲弊等の諸悪の根源であるイスラエル・パレスチナ問題も解消されるかもしれないが、これまで世界の政治・経済・軍事・科学・文化等のあらゆる分野を支配してきたユダヤ・イルミナティが自分の首を絞める事態となるその検証の遺跡発掘調査を認めるとは思えない。更に、キリスト教・ユダヤ教に敵愾心を持つイスラム教のサウジアラビア王国がアシール地方での遺跡発掘調査を認めるとは思えない。
 従って、この聖書アラビア起源説はこれまでトンデモ本扱いで30年間以上無視され、これからも無視されるにちがいないが、コンピュータによる現代版「七十人訳聖書」の編纂によりいつの日か見直されるかもしれない。

(7)イスラエル王国分裂、ヨルダンとユダ、エデンの園
 正直、聖書を読まず、古代ヘブライ語とアラビア語を理解せず、アラビア地理も知らない小生には、この聖書アラビア起源説が正しいとは判定できないが、これまで古代イスラエル関係で疑問に思っていたことを本書で確認できたので述べる。
(a)統一イスラエル王国分裂の原因
 紀元前10世紀にエジプトがアラビア半島南西部に介入し、その結果、統一イスラエル王国は互いに対立する王国「ユダ」と「北イスラエル」に分裂した。
(b)ヨルダンとユダの意味
 旧約聖書のヨルダンとは、アラビア半島南西部にある山脈の断崖のことである。また、アラビア半島南西部アシール地方の海岸側はあまたの山峡や渓谷(アラビア語でwahdまたはwahdah=子音表記ではwhdまたはwhdhとなり、聖書中の語yhwdhユダ)が深く入り組んでおり、そのあいだに多数の孤立し切り立った峰が連なっている。さらに低くなだらかな沿岸丘陵地が見られる。この地形を旧約聖書時代に「ユダ」と呼ばれ、ここを本拠地としたイスラエル人の国を「ユダ」と呼んだ。
(c)エデンの園の場所
 エデンの園はメソポタミアのどこかにあったのではなく、アラビア半島南西部アシール沿岸のユダの地とノドと呼ばれる内陸地方の間に位置する、いくつかの潤沢なオアシスがある地域、ワーディ・ピーシャにある「ジュナイナのオアシス」にほかならない。

(8)「腹筋崩壊ニュース」ブログに「聖書アラビア起源説」の理解を深めるためのユニークな解説が展開されており、この一部を概略紹介するので興味のある方は他も参考にして下さい。 以下はスレッド主の記事シリーズです。
第1回「出エジプト記(エジプトとは言っていない)」 第2回「旧約聖書とエジプトの無関係具合」 第3回「天地創造とかいうガバガバストーリー」 第4回「ノアの箱舟 コピペ説」 第5回「旧約聖書を書いたのは誰??」 第6回「パレスチナでは何も見つかっていない」 第7回「ヘブライ語とかいう架空の言語wwwww」 第8回「旧約聖書アラビア起源説」

◎概略紹介例 第5回「旧約聖書を書いたのは誰?」 
<文書仮説> その骨子は、「旧約聖書は幾つかの元ネタを切り貼りして構築されている」というもの。この仮説に至った最初の手がかりは、旧約聖書において神が2種類の呼ばれ方をしている点でした。旧約聖書のある箇所では「ヤハウェ」、また別の箇所では「エロヒム」という風に、神の呼称にはブレがあるのです。                 
● B.C.922;イスラエル王国が南北に分裂。南のユダ王国でJ資料が成立。ヤハウェ系の物語を書いた人々を「ヤハウィスト」、その文書を「J資料」。 ● B.C.850;北イスラエル王国でE資料が成立。このエロヒム系の物語の作者を「エロヒスト」、その文書を「E資料」。 ● B.C.722;北イスラエル王国滅亡。 ● B.C.700頃;北イスラエル王国から逃げてきた人々により、JとEが統合されて「JE資料」になる。 ● B.C.622;ヨシヤ王の改革が行われる。この時にマニュアルが作成され、これが「D資料」。 ● B.C.586以降;ユダ王国滅亡によるバビロン捕囚で心が折れたイスラエル人を、祭司たちが宗教でまとめる。祭司の頭文字をとって「P資料」も作る。JEとPが統合される「JEP資料」。 ● B.C.400頃:JEPにDも合体して全体をもう一度編集。「JEPD資料」の旧約聖書が完成!

◎概略紹介例 第6回「パレスチナでは何も見つかっていない」
●B.C.2100年;メソポタミアの遊牧民アブラハムが、神の指示でパレスチナに移住。→存在した証拠なし ●B.C.1700年;アブラハムの孫たちがパレスチナからエジプトに移住するが、やがて奴隷に。→エジプトにイスラエル人がいた証拠なし ●B.C.1280年;モーセに率いられてエジプト脱出。→大量のイスラエル人が脱走した証拠なし、モーセが実在した証拠もなし 
●B.C.1220年;モーセの後継者ヨシュアが、パレスチナに攻め込み、次々に敵を倒す。→この頃、パレスチナにはほとんど人が住んでいなかった ●B.C.1021年;統一イスラエル王国を建国。→遺跡は皆無  ダビデ王、ソロモン王が優秀で、栄華を極める。→実在しない  ●B.C.922年;ソロモンが死に、内紛発生。北イスラエル王国とユダ王国に分裂。→どちらも遺跡確認できず 但し、他国の文献には登場している ●B.C.722年;アッシリアに攻められて北イスラエル王国滅亡。→遺跡確認できず、アッシリアの文献に記述あり  ●B.C.587年;バビロニアに攻められてユダ王国滅亡。→遺跡確認できずバビロンに強制移住(バビロン捕囚)→バビロンの文献に記述あり  ●B.C.539年;バビロニアがペルシャに滅ぼされ、自由の身になる。一部のイスラエル人はエルサレムに帰る。→史実  ●B.C.333年;その後は、マケドニア→プトレマイオス朝エジプト→セレウコス朝シリアに、順番に支配される。でも頑張ってエルサレムでの自治を勝ち取る。→証拠なし ●B.C.143年;一瞬独立する。→史実  ●B.C.63年;ローマに支配される。→史実               
 結局のところ、考古学的に史実であると断言できるのは、バビロン捕囚より後のことしかないわけです。こうした調査結果を踏まえ、聖書考古学者の主流な意見は、「アブラハムからカナン侵攻までの記述はほぼフィクションだし、統一イスラエル王国は単なる集落程度の規模。ユダ王国とイスラエル王国は、確定的な証拠はないけどアッシリアとバビロンの文献があり、多分存在したと思う。」という感じである。



よく分からないでしょ だからやられるのです。






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