https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/b126d6e9956b5f4281a4858026944a1d
もし幸運にも,若者の頃,パリで暮らすことができたなら,その後の人生をどこですごそうとも,パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
ある友へ
アーネスト・へミングウエイ
1950年
「私は雨の中を歩いていった。通りを下ってアンリ四世校と古いサン・テティエンヌ・デュ・モン教会の前をすぎ,風の吹き渡るパンテオン広場を通り抜けてから風雨を避けて右手に折れる。そこからようやくサン・ミシェル大通りの風のあたらない側に出たら,そこをなおも下ってクリュニー博物館の前を通り,サン・ジェルマン大通りを渡っていくと,サン・ミシェル広場の,通い慣れた,気持ちのいいカフェにたどり着く。そこは暖かくて,清潔で,心なごむ,快適なカフェだった。
私は着古したレインコートをコート掛けにかけて乾かし,くたびれて色褪せたフェルト帽を長椅子の上の帽子掛けにかけてからカフェ・オ・レを頼んだ。ウエイターがそれを運んでくると,上着のポケットからノートをとりだし,鉛筆も用意して,書き始めた」
アーネスト・へミングウエイ
移動祝祭日より(高見浩訳)
日はまた昇る かつての芥川賞「太陽の季節」の文体,内容はこの本より感化され,性的な部分の表現は武田泰淳の「異型の者」からと思われる。しかし「異型の者」はタイミングよく絶版。冒頭のはじめに書きましたが日本では実証的な学問は進歩しないで,へーゲルはこういった,それをある人がこういったというふうに,特定の個人に対し権威ずけが行われ,それが自己形成の<完了>を阻害してきました。現在も全く同じです。つまり相手が何処の馬の骨か分かるまで,また,たとえ分かったとしても親しくなるには大変な労力を必要とします。例えば私事で恐縮ですが1990年のある日の午後,丸の内の立ち飲みやでチューハイを一杯やっていると隣にいた英国人とすぐ打ち解けて話をしましたが彼は英国の一流新聞の東京支局長で名刺はくれるし自宅の電話番号まで入っているのです。このような友人関係は「Alcoholic Aquaintance」といって「飲み友達」の意味ですが英国のパブなどでは一般的のようです。会った瞬間からすぐ飲み友だちになれるのは日本人では無理のようです。12歳の国民と言われてから久しくその上杓子定規で一歩も進化していないようだ。国は国で大本営発表をやっていますね。一番各個人にとって大切なのは変化に対応できる能力を身につけることです。他人なんてどうでもいいんですよ。あなたが不幸になれば喜ぶ連中ですからね。ところで天才とは必ず不幸な生い立ちをするものです。
日はまた昇る(日本語説明)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%9F%E6%98%87%E3%82%8B
「Kennington Road 2nd Fl.oor room287」
チャーリー・チャップリンはここで父と母ルーシーと義兄のシドニーと一緒に生まれ育った。父はボードビリアン 母はもと舞台歌手 歌手といっても後ろのほうで歌う歌手であった。客はチップをはずむかわり父は毎日浴びるように飲むのが芸人としてのしきたりであった。父はアル中となり働くことが困難になった。母は最期の財産である中古のミシンでかろうじて裁縫によって生計を立てていた。
しかし家賃の支払いにも事欠きついに,ミシンが無常にも大家によって没収された日,チャップリンが学校から帰ると門の前で,女の子がさけんでいる。Your mother's gone insane.あんたんちのお母さん気が狂った.......気が狂った。
それが嘘ではないことはすぐに確認できた。 その後チャップリンは米国で成功し母も引き取り看護人付きの邸宅をあたえたが,元の母に戻ることは二度となかった。一度チャップリンは生まれ育った故郷のKennington Roadにある3Pownall Terraceの古びたアパートを訪れ外から感慨深げにニ階の287号室を眺めながら,回想する。母が病院で自分に言ったことをーーーもしあの時午後の暖かいティーとクッキイがあったら,今でも元気だったのに。チャップリンの目に涙があふれた。
あの頃起こったことは夢で,今の生活が現実なんだ。チャップリンは街の灯など無声映画を最後にトーキーへの転換を模索していた。そして最高傑作の「Limelight」が完成した。
アパートの設定は昔懐かしい故郷の家だ。ガス自殺を図った一階の女性を救い出し自分の部屋で介抱する。自分はもう売れない過去のコメディアン「カバレロ」。彼女は一流劇場のバレリーナ しかしショックで歩くことが出来なかった。偶然自殺未遂を救ったテレーズにチャップリンはいいます。
「人生に必要なものは勇気と想像力と少々のお金だ。生き,苦しみ,楽しむんだ。生きてゆくことは美しく素晴らしい。 死と同じく生も避けられない。宇宙にある力が,地球を動かし木を育てる。君の中にあるのと同じ力だ。その力を使う勇気と意思を持つんだ。 おやすみ テレーズ .................その後テレーズは回復し劇場でバレーのプリマをつとめる。テレーズはネビルというピアニストから愛を告白される。「彼(カルベロ)の心,優しさ,悲しさーHis soul,sweetness,sadness-私をそれから離させないわ。とテレーズは答える。
アパートのドアーの裏で酔いどれていたカバレロは二人の会話を耳にはさみ ある日突然姿を消してしまう。テレーズとネビルの二人はやっとカバレロをみつけ 舞台で競演する。カバレロは最後に心臓麻痺に襲われる。テレーズの踊りがはじまる。テレーズはなにも知らず踊り続ける。 テレーズは何処? 彼女の踊るところを見たい。ライムライトの音楽が流れる中,カバレロはテレーズの踊りをみながら死んでゆきます。
『ベルエポックのパリ。一人の天才少女は, 神の命じるままパリのベルヴィルの歩道に生み落とされた。
少女の名はエディット・ピアフ。親戚の売春宿にあずけられたピアフはある日盲目になる。娼婦たちはノルマンディの修道院 聖女テレーズのところでピアフとともに,祈りを捧げた。奇跡は起こった。1921年8月25日 聖ルイの祝日,ピアフの視力は回復した。
しばらくするとピアフは父とともに毎日街でシャンソンを歌った。(ピアフ独特のOシルコンプレックスはこの街で生まれた) ピアフは詩人のジャンコクトウに巡り会い教養を身につける。
そして華々しくデビューする。すべては順調であった。イブモンタンやシャルルアズナブールも育てた。「バラ色の人生」から「愛の賛歌」への移行寸前,ニューヨークで恋人をまちわびるピアフに訃報が届いた。恋人のボクシングミドル級チャンピオン マルセル・セダンがニューヨークへむかう途中 機は墜落した。
ピアフは公演中観客を前にして倒れた。 パリへ帰ったピアフを待っていたのは,オランピア劇場での長期公演であった。オランピアで歌うピアフの「愛の賛歌」は神がその日を待ち望んでいたかのように残酷な試練を与え,かつてピアフが身ごもった子さえ殺してしまうという悲痛を与え そのかわり「情熱」というプレゼントをし愛の賛歌は完成した。観客は泣き慟哭し幕がおりてもしばらく立ち上がれなかったという。
自動車事故,自殺未遂,発狂,酒におぼれた日々,麻薬中毒,入院。 ピアフは死にもの狂いで「愛」を貫き歌った。マルセルの死後マルセルの長男を引き取り,我が子同然に可愛がった。
現在ピアフ博物館の館長をしている。ピアフは1963年10月 47歳で亡くなる一年前テオ・サラボと結婚し何曲か自宅で録音したが,死を目前にしたピアフの声はもう,あの時の声ではなかった。
パリの新聞が「ピアフの死」を伝えるとジャンコクトウは後を追うように逝った』
僕がタイから帰ってきてから久しぶりにパリへいった。1999年パリのオルセー美術館でマラルメ没後百周年を記念してマラルメ展が開かれていた。ひょんなことからE・T氏と知り合いになりパリ郊外の静かな自宅に招かれた。ポール・ニザン(1905-1940)の孫で僕が二ザンの書いた「アデン・アラビア」を読んでいたからなのでしょう。
朝の太陽が西から美しく昇るころ,マラルメ・ランボー・べルレーヌに話が及んだ。
巷に雨の降るごとくわが心にも雨のふる
Il pleure dans mon coeur Comme il pleut sur la ville
この短い珠玉の詩は「言葉なき恋歌」とする冒頭に描かれている。全体は<忘れさりし短編詩><ベルギーの風景><水彩画>でなっている3部作で,ランボーとの旅の思い出をつずったものです。
酩酊したベルレーヌはランボーにピストルの引き金を引き,2年間のモンスの獄中の間にこの詩を詠った。一方ランボーは「俺はすべてのことが厭になった」と嘆き手元の原稿を全て焼き払った。
サンマルタン運河。6号油絵(管理人所蔵)
ポール・ヴェルレーヌ「秋の歌」より
chanson d’automne par Paul Verlaine
秋風の
ヴィォロンの
節ながき啜り泣き
もの憂きかなしみに
わがこころ
傷つくる
時の鐘
鳴りも出ずれば
せつなくも胸せまり
思いぞ出ずる
来し方に
涙は湧く
落ち葉ならぬ
身をばやる
われも,
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ
(堀口大學訳)
秋の日の
ヴィォロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かえて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもいでや
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らう
落ち葉かな
(上田敏訳:題名・落ち葉)
秋のヴィォロンの
その啜り泣き
単調な物憂さよ
私のこころを
傷つける
蒼く息苦しくも
また,
刻を告げる
その調べよ
私は思い出す
なつかしき日々を
楽しき日々を
私はいま去って逝く
あの意地悪な風に
誘われ
泣き濡れて
どうか
告げておくれ
まるで
枯れ葉が
舞うように
刻の終わりを
鐘が告げる
(管理人訳)
解説・ランボーとの同性愛の末の拳銃発砲事件で獄中ヴェルレーヌがカトリックに転向して書いた宗教詩にSAGESSE(叡智)などもある。
なおこの作品はボードレイルの秋の歌(Chant d’automne)を強く意識した作品でもある。
ギヨーム・アポリネール
Guillaume Apollinaire
1880~1918
ミラボー橋
ミラボー橋の下セーヌは流れる
僕らの愛と変らずに
想い出せば
悲痛の後の喜びよ
黄昏が来たりて 鐘は刻を告げる
日々は過ぎ行き 僕は一人ぽっち
手を取り合い 瞳みつめ
腕を組みあい 橋の下
セーヌは流れる
永久の微笑みも 流れるまま
消えてゆく
黄昏が来たりて 鐘は刻を告げる
日々は過ぎ去り 僕は一人ぽっち
愛は流れゆき 水のごとく
過ぎし日の
愛はまぼろし
黄昏が来たりて 鐘が刻を告げる
時は過ぎ行き 僕は一人ぽっち
黄昏は来たりて 鐘が刻を告げる
時は過ぎ行き 週が去っても
あの頃はもう 戻らない
ミラボー橋の下 セーヌは流れる
時は去り 僕は一人ぽっち
「管理人訳」
Le pont Mirabeau
Sous le pont Mirabeau coule la seine
Et nos amours
faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait toujours apres la peine
Vienne la nuit sonne l’heure
les jours s’en vont je demeure
Les mains dans les mains
restons face a face
Tandis que sous le pont
de nos bras passe
Des eternels regards l’onde si lasse
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
L’amour s’en va comme cette eau courant
L’amour s’en va comme le vie est lent
Et comme l’Esperance est violente
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
Passent les jours et passent les semaine
Ni temps passe
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure.
アポリネールはポーランド系移民。20歳の時巴里へ来る。
ピカソのアトリエで27歳の時22歳の画家のマリー・ローランサンと出会う。
しかしひょんなことから二人の愛は破局する。ローランサンと離別してから5年後病に倒れ終焉の時を迎えた。枕元にはローランサンが描いた「アポリネールと友達」の
絵が捧げられていた。蝋燭の焔が静かに消え入るようにアポリネールはローランサンの真の愛を知らぬまま静かに息を引き取った。アポリネールの詩はまた句読点がないことでも知られる。