正気のおわり
あるとき一人の学生が,登校の途中でいつも会う女子高校生と,その日に限ってチラと目が合うと,彼女がたしかに微笑をうかべたのを発見します。
ころは初夏,駅前どおりの貧弱な街路樹の緑もつややかになり,朝日の中で彼女の瞬間の微笑は,白い花のようにかがやきます。
学生は,僕が彼女を好きなように,向こうも好きなのじゃないかな,と想像し,その日一日幸福になり,大学で講義をきいていても,まるで上の空です。そして彼女の名前や住所を知る方法はないかと,いろいろ考えます。(ここまではたしかに正気です)
しかし学生には,どうしても彼女に話しかける勇気がありません。そうすれば,残る方法としては,彼女の帰りを待ち伏せて,あとをつけるよりほかはありません。本当は,にっこりして話しかけるほうが,よっぽど自然なやり方なのですが,勇気のない男は,いつも不自然な行動を選びがちです。
彼は駅のまわりで時間をつぶし,彼女が駅から出てくる姿を今か今かと待っています。三日目にやっと,彼女が友だちといっしょに電車を降り,駅前で手を振って別れる姿を見つけます。学生は胸をドキドキさせながら,十メートルばかりあとをこっそりつけてゆく。だんだん人通りが少なくなるので,つけているのが感ずかれるのではないかと気が気ではない。とうとう,白い木柵のある家の小さな門のなかへ,彼女が入ってゆくのをつきとめる。門標を見ると,「林」と書いてある。学生は心から満足して帰途につく。(ここまでは彼はたしかに正気です)
その晩から彼の綿密な調査が始まる。彼女の学校と名前を知るにはどうすればよいか,をいろいろ考える。学校を知るには,今度は登校のあとをつければいいわけである。彼はいつもより早く起きて,駅の周辺で彼女の登校を待ち,大學をそっちのけにして,彼女の高校をつきとめる。今度は,その学校の退ける時間に門のあたりに張っていればいいのですから,幾分楽です。彼女は何という名だろう。花子,るり子,小百合,みち子,佳子......いろんな名前が浮かぶが,どれも彼女にふさわしくない。
とうとうある日,彼は彼女をわざとやりすごしておいて,あとから出てきた同級生らしい女の子に,彼女の名前をききます。こうなると,彼は大胆です。
「あら,むこうへ行くあの人?林和子さんよ。ずいぶんご熱心なのねえ」と女の子たちはゲラゲラ笑い出し,彼はたちまち退散します。彼の噂が彼女の耳に入るのはもう確実でしょう。(ここまでは彼はたしかに正気です)
家へかえると学生は,林和子さんあてに百ぺージにのぼる恋文を書き,みんな破ってしまいます。おしまいには,ごく簡単な一ぺージを書き,それを彼女が出てくるとき,門のところで渡そうというもくろみのもと,封筒に入れて,封をします。
彼は甘い糊つきの封を舐めるとき,もう彼女に最初の接吻をしたような気持ちになります。あくる朝,いよいよ彼はこれを実行します。門のところで待っていると,彼女が出てきます。いきなり短刀をつきつけるように,ぶるぶる慄(ふる)える手で白い角封筒をつきつけると,彼女は受けとるには受けとるが,恐怖に目をみひらいて,また家の中へ駆け込んでしまいます。
彼は外でむなしく待っています。やがてお父さんといっしょに彼女が出てきて,お父さんが彼に一喝を食らわします。彼はほうほうの体で逃げ出します。(ここまでは彼はたしかに正気です)
その日はもう大學へ行く気はしません。家の中で一日中考え込んでいます。彼女のほうにも気があることはたしかなのに,どうしてあんなひどい仕打ちをしたのだろう。内気な学生は彼女の父親に一喝を食らったので,はげしいショックを受けたのです。あんなに僕を愛しているのに,あんな仕打ちをするなんて,きっと彼女は,僕に裏切られたと思ったにちがいない。僕がほかに女友達を作ったとでも思って,復讐のために,父親に侮辱させたのにちがいない。よし,こうなったら,身の潔白を証明した手紙を堂々と郵送してやろう。(ああ!すでに正気の蝋燭の火はゆらいでいます)
その返事が来ないので,彼は毎日せっせと手紙を書き続つづけ,「僕は決して君の愛情を裏切ってはいない。世界中で愛しているのは君だけだ。僕がバーのホステスを情婦にしているなどという話は,二人の中を裂くために,君のクラスメートが立てた根も葉もない噂にすぎない」(正気の蝋燭の火は消えかけています)
いつまで待っても返事は来ない。彼は突然,彼女のしつこさ(!)に怒り出し,こんなに彼の自由を束縛され,干渉されてはたまらないと思い,彼女の父親のところへ,堂々と別れ話をもちかけよう,と決心します。そのときは洗いざらい本当のことを言ってやろう。「お宅のお嬢さんは僕に惚れ抜いて,毎日電話をかけて来てうるさくてたまらないし,やたらプレゼントをくれるのはいいが,きのうなんか,チョコレートの箱かと思って開けてみたら,二十日鼠が百匹飛び出した。それで家中迷惑しているが,どうしてくれる」 (これがもう正気のおわりです)
正気がおわり狂気がはじまるとき,おそろしいことは,この世界の外観は,依然同じように見えている,ということです。駅の前にはタバコ屋があり,そのタバコ屋の赤電話には,街路樹の緑の影がさしている。すべてこの世には事もなし,何の変化もない世界で,ただ彼は「迷惑をかけられ」て困っているのです。正気の世界は,プールの飛び板の端のような危険な場所で,おわるのではありません。それは静かな道の半ば,静かな町の四つ角のところで,すっと,かげろうのように消えているのです。
三島由紀夫・行動学入門<正気のおわり>より
美は普通客体と考えられている。美しき性というのは女のことである。なぜなら女は客体として愛され,その美しさを男の性欲によって鑑賞されるからである。美は主体とからまることがほとんど絶対にない。ナルシシズムは自己を客体とした二重操作による美の把握であって,それも自己が客体となることには変わりがない。.....自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ,美がその本来の純粋な形をとるとも言える。ゲーテがファウストの中で「美しいものよ,しばしとどまれ」と言ったように,瞬間に現象するものにしか美がないということが言える。そしてその美を,その瞬間にして消え去る美を永久に残る客体として,それ自体一つのフィクシオンとして,この世にあり得ないものとして現実から隔離してつくり上げたものが造形美術なのである。三島由紀夫<行動の美>より
問題が情事なら,情事はいつかおわるものと一般に考えられているので,どうせおわるなら,きたなく別れるよりきれいに別れるほうがマシなわけで,「おわりよければすべてよし」という諺もあてはまる。
しかし結婚となると,結婚はおわらないものと一般に考えられているので,それをムリにおわらせた離婚なるものには,きれいも汚いもありはしない。どんな別れ方をしようと,世間体がわるいことには変わりがないのです。
それが証拠に,結婚式なるものはあっても,離婚式なるものはない。表口から堂々と入った二人が,離婚となると判で捺したように,裏口からコソコソということになる。どうせのことなら,結婚式の時と同じお客をもう一度,同じ会場へ招待して,同じ御馳走を出し,フィルムの逆回しみたいな式を行ない,ウエディング・ケーキをまんなかから二つに切る代わりに,両方から半分ずつもって来てピタリと合わせ,お仲人の代わりにお離れ人とでもいう人を頼んで挨拶をしてもらい,お互いにリングを取り返し,お色直しで平服に着替え,別々の出口から,盛大なる拍手に送られて,バイバイ,というふうに出て行ったらよさそうなものだが,そんな会をやったという話を聞いたことがない。これにはもちろん経済的な理由もあるのでしょうが....
それもこれも,結婚式のときに,あんまり共白髪までとか,偕老同穴とか言われすぎて,ニ,三年でパアになってはキマリが悪いから,という理由が大きいのだろうが,有名なる「契約結婚」という期限付き結婚を敢行したスターも,契約切れは,はなはだモタモタしていた。実際のところ,人間を縛る契約書は,ハリウッドの人気者の契約でも,十年あたりが最長のようであって,そのあともつづける気が双方にあれば,契約更新をすればよい。われわれの文士の契約は,大体最長三年です。
だから結婚は,共白髪までとはいうものの,契約としてはあんまり長すぎて,成り立たないものだと言っていい。大体契約後五年で早くもデブデブしてきた奥さんをつかまえて,契約違反で訴えたという話もきかない。金婚式まで悠々とつづいている結婚は,たいていその間に暗黙のうちに,お互いの間で何度となく婚約更新が行なわれている,と考えていいと思います。「どうだろう,もう一寸つづけるか」「そうね。子供ももう小学校だし」「まあ,このぺースで今後も行くか」「あんまり気も進まないけど,このまま行きましょうか」
こういう会話はもちろん口には出さないけれど,目と体で何となく確かめ合って,何となく同意し合って,契約が何年か更新される。ところがこんなことは口に出さないところに妙味があるので,夫婦の間には「口に出したらおしまい」という話題が、いくつかあるものです。婦人雑誌を読むと夫婦の唯一のキズナのように書いてある性のキズナだって,新婚何ヶ月かの嵐が通りすぎれば,そんなにのっぴきならないキズナとは考えられない。結局夫婦というものは,「一生,俺のそばにはこの女がいるらしい」「一生,私のそばにこの人がいるらしいわ」という,このはかない人生での,せめてもの,ほのぼのとした拠り所みたいなもののために一緒にいるのであって,子供のため,などというのも口実にすぎない。
夫婦であること自体が夫婦の目的なんであって,「一緒にいるために一緒にいる」というのが,本当のところでしょう。「芸術のための芸術」を鼓吹する一派を芸術至上主義といいますが,世間の夫婦の大部分は,こういう結婚至上主義者であるのである。従って,それが死によってではなく,トラブルが原因で生き別れということになれば,われわれは,そこで,人生の一つの確信を失わざるをえないことになる。
「映画は大体一時間半でおわる」
「食事は大体一時間でおわる」
「性行為も一時間以内でおわる」
「バーは夜十一時半でしまる」
「LPレコードの片面も大体三十分でおわる」
そして
「結婚もニ,三年でおわる」ということになれば,結婚もLPレコードもバーも映画も,時間の長さの差だけにすぎなくなる。
そうなると,この世で,「特別とっておき」というものがなくなってしまい,まじめに努力し我慢するに足るものがなくなってしまう。カソリックが,あらゆる離婚を禁止しているのは(達人注:カソリック神父は妻帯できない), ここらをよく見きわめたためでしょう。動物園へゆくと,よく番(つがい)の動物が一つ檻に入って退屈な顔をしているが,動物も,一つがいで住んで,食物が豊富に供給されれば,自由で飢えているよりは長生きするらしい。
自由で飢えている,というのは,君が二十二歳ならば,ロマンチックですばらしい。しかし,四十歳なら,ルンペンと同じ事だし,五十歳なら,もはやきちがいじみて見える。離婚するとき,男も女も,とにかく大きな開放感に燃え,再び,「自由で飢えている」存在になったことに,青春が帰ってきたという感動を味わうらしい。しかし,ハタから見れば,もう彼らはロマンチックでもなんでもない。青春は二度と帰らないのです。
結婚のおわりを美しくする一番いい方法は,今まで結婚していたことをだれにも内緒にしておくことで,十何年もそれをやっていた男を私は知っています。
離婚式をやる勇気がないなら,はじめから結婚式なんかやらないがいい。結婚式及び結婚披露宴というものは,法律に決められているわけじゃない。しかし人間という動物は,おわりを美しくするために,はじめから伏線を引いてゆくというほど用意周到ではありえないのであります。
三島由紀夫行動学入門<結婚のおわり>より
僕はそのうち生前葬儀,あるいは臨時収入があった場合,生前贈与をするつもりです。三島由紀夫も述べているように,美容院は外から丸見えで,品の良さそうな奥様が頭にカールを撒いてなにやら髪の毛をパーマさせている間延びした時間に,女性週刊誌を夢中で読んでいる姿はよく見かけます。なにやら,夫婦のキズナを保つには週に何回XXXXやればダトウなのか,であるが,年齢別のダトウな回数まで書いてあるわけです。しかし,子供を何人か作ったら夫婦はオス・メスの関係をやめるべきと思いますが。
「死と大義について」
三島由紀夫は東大法学部というか東大を主席で卒業し,天皇陛下より「恩賜の時計」を贈られたと思っていたら間違いで高校のときだったそうだ。。18歳で書いた処女小説「花ざかりの森」に続き大蔵省時代に「仮面の告白」を書いたのは24歳の時であった。正確には1949年4月27日に脱稿したので,24歳3ヶ月と13日がより正しい。その文体はアフィリズム(Aphorism)であり短い文章の中に簡潔で鋭利な表現をする,まるで芥川龍之介の「朱儒の言葉」に通じるものがある。個人的には最高傑作と思っています。
バルザックが恐ろしいことを言っています。すなわち,「希望は過去にしかない」と。人生で,一番空しく,みじめなことは何でしょうか?それは「かつては......だった」「かつては美しかった」「かつては強かった」「かつては有名だった」等々,生きながら,自分の長所に過去形を使うことです。
死んでしまえば,過去形を使うのは当たり前。現在進行形の小説や戯曲の中でならともかく,歴史は必ず,「クレオパトラは美しかった」と,書きます。死ぬまでずっと美しかったクレオパトラでさえ,歴史は決して,「クレオパトラは美しい」とは書きません。過去形は,死の文法です。
いっぽう,「かつては私も若かった」ということは,それほど空しい, みじめなことでしょうか?私はそうは思いません。若さとは自然現象であって万人共通のものであり,別にその人一人の長所ではない。年をとれば若くなくなるのは当然のことで,「かつては若かった」というのは,単なる事実の叙述にすぎない。「昨日はお天気だった」というのと全く同じことです。「かつては美しかった」というのと,「かつては若かった」というのは,そこに,はっきりした違いがあるはずです。若さは移りゆくのが当たり前だが美はもっと絶対的な値打ちのあるべきものだからです。
しかし人間は生物で,大理石ではありません。ですから人間のあらわす値打ちにも,栄枯盛衰のあることはいたし方がない。女の場合は若さと美が結び付けられ,男の場合は若さと力が結び付けられるのは仕方がない。
ただ,この男女差にはどうも不公平がつきまとう。男の力も年齢とともに衰えてゆくのは当然で,三十になれば,もう水泳競技の世界記録を更新するのは無理であり,数学上の大発明でさえ,たいてい二十代がとまりです。しかし,力というやつには,有形無形さまざまあって,男は,肉体的な力が衰えるとともに,それをだんだんに,巧みに別種の力にすりかえてゆくことができる。
社会体な力,経済力,政治的権力というものは,八十歳,九十歳のヨボヨボのおじいさんでも,ちゃんとまちがいなく身につけることのできる力です。男の世界は,こういう各種各様の力が競い合っている力の世界であって,成功者とは,年齢に応じて力のすりかえを巧くやり,要するに十八歳から八十歳まで,その時年齢に応じた最高の力を発揮した男のことです。しかし,美貌はどうか?
こればかりは種類が乏しく,第一,有形のものと決まっていて,無形の美貌なんて存在しない。見えない美女とは言葉の矛盾である。もちろん年齢にしたがって,いわゆる精神的な美しさは加わってゆくけれど,身も蓋もない話だが,五十歳の美女は二十歳の美女には絶対にかなわない。彼女が二十歳であって,絶世の美女であれば,天のめぐみを一身に集めたようなものである。美女と醜女(しこめ)とのひどい階級差は,美男と醜男(ぶおとこ)との階級差とは比べものにならない。
だが,美貌は,かけがいのきかない宝石,半減期の短い放射性物質のようなもので, 力とはちがって,ただ一種類なのです。年にしたがって次々とすりかえてゆくというふうに器用にはゆかない。そして若いときに,同姓にとってかくも不公平な恵みをほしいままにしたからには,あとの一生の間,それを十倍,二十倍につぐなわなければならないのです。あるとき,晴れた空に一点の雲が突然あらわれるように,美しい彼女の目の下に一条の小皺(こじわ)があらわれる。きっと昨夜の寝不足のせいだろう,と彼女は考えます。事実,小皺はあくる日は消えている。ニ,三日たつ。今度は別の目の下にはっきりと小皺が刻まれる。これもきっと気のせいだろう。しかしこのほうは十日たっても一ヶ月たっても消えません。
彼女はマッサージと化粧品で,この小皺と格闘します。そしてとうとう本物の小皺とさとると,彼女はじっくり腰をすえて,一生にわたるごまかし化粧の最初の一歩にとりかかります。政治的に具合の悪い時期に王様が亡くなったりすると,発喪をおくらせて,何日も,まだ王様が生きていることにするというトリックが行なわれる。それと同じで,彼女はこのとき,美貌の最初の死の兆しを隠し,ごまかし,できるかぎり長く,美貌の死の発喪を引き伸ばそうと決心する。おもてむき,あくまで王様はいきていることにしておくのです。
しかし、世間にはカンの鋭い人がいて,「王様は実はもうこの世におられないのではないか」と言い出す。この噂は人の口から口へ伝わり,最後にはやはり,事実を発表せねばならぬことになる。
美貌の女性は,もう一年は大丈夫,あと一ヶ月は大丈夫,あと一日は大丈夫,と一日一日おくらせてゆき,ついには自分自身が死ぬまで,発表の時期を失ってしまいます。「何年何月何日x山x子さんの美貌は死去せり」つまり美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と,一度目の死のほうが恐ろしい本当の死で,彼女だけがその日付けを知っているのです。「元美貌」という女性には,しかし,荒れ果てた名所旧跡のような風情がないではありません。
「元美貌」「美貌遺跡」「美貌の唇の址(あと)」などという立て札があちこちに立ち,草はぼうぼうと生い茂り,風は尽きぬ恨みを吹き鳴らす。
そしてその草の上では,今日を若さの絶頂のアベックが抱き合って,若者は女に,「君はきれいだね」と,いいます。すると風は恨み,不気味なコダマを返し,その声は,いくえにも修正されてひろがってゆきます。「君はきれいだったね」「君はきれいだったね」「君はきれいだったね」........若い女性はそのコダマをあざけるように,こう叫びます。「私は,いつまでも,きれいだわ」
三島由紀夫・行動学入門<美貌のおわり>より
西郷隆盛は城山における切腹によって永遠に人々に記憶され,また特攻隊はそのごく短い時間の特攻攻撃の行動によって人々に記憶された。彼らの人生の時間や,また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に花火のように炸裂しながら,長い人生を要約する不思議な力をもっている。.....至純の行動,最も純粋な行動はえんえんたる地味な努力よりも,人間の生きる価値,また人間性の永遠の問題に直接触れることが出来る。私はいつも行動と思索,肉体と精神の問題について思いをめぐらしてきた。三島由紀夫<行動とはなにか>より
私は世界のおわりの前に自殺する,という人の気持ちがどうしてもわからない。本当に世界がおわりになるものなら,もう,政治も経済も社会も道徳も無意味になってしまうのだから,一生のあいだやりたくて我慢していたことを, やりたいだけやればいいじゃないか。憎いやつがいれば殺すがいいし,捕まっても裁判がはじまる前に世界のおわりがくるのだから,何ということはない。いっしょに寝たい女がいれば,人の奥さんだろうと何だろうとかまわない。隣の家のドイツ製のステレオにかねがねあこがれていたのなら,断りなしにさっさと我が家へ持ってくればいい。借金ももう払わないですむし,会社の上役に頭を下げることもない。
しかし死ぬときはみな公平に世界といっしょに亡びるのであって,キリスト教の最後の審判なんかコケおどかしのインチキだとわかっている。そういうとき,立派に,ヒロイックに,平静に死を迎えたいという人もあるだろうが,そう思う人はそうしたらいい。ヒロイズムなんて歴史あってこその問題で,歴史が消滅するとなれば,単なる趣味の問題にすぎなくなる。立派に死にたい人は, 「立派に死ぬ」趣味を持っているだけのことになります。
----しかしもっとも恐ろしい悲劇は,世界のおわりの予告が当たらず,実際には,いくら待っても世界がおわらなかった場合の話です。世界のおわりがくるはずでこなかったとなれば,ステレオを頭をかきかき隣家へ返しに行かねばならない。姦通した奥さんの亭主に,訴えられるかもしれない。唾をひっかけた上役からはクビにされるかもしれない。人を殺していれば,長いこと牢屋につながれたうえ,死刑に処せられるかもしれない。そのときにまた,われわれが亡びない世界において,何にビクビクして暮らしてきたかが,はっきりわかってくるにちがいない。世界がおわらないならば,われわれは他人を恐れて暮らさねばならぬということが。
そして,世界がおわらずに,自分だけが死ぬとなれば,われわれは他人を怨んで死なねばならぬということが。生きているすべての他人,物を食うすべての他人,笑い,歩き,動いている他人のすべてを。....しかもそのあらゆる他人が,自分と同じ「人間」である,ということが,どうにもこうにもやりきれぬことになる。猿の王国にたった一人の人間として生きていたら,死ぬときも,多少荘厳に死ぬことができるでしょう。...まず,みなさん,ただ今の時点において,世界はまだおわる気配はありません。生きているわれわれは,死んでゆく人たちに対して「他人」でいることができます。週刊誌は「他人」の目を代表する「他人」の雑誌です。「女性自身」も本当は「女性他人」と改名すべきです。私たちは「他人」の一人として,笑い,歌い,泣き,怒っていられるのです。自分があらゆる他人に見捨てられて死んでゆくときまでは......
三島由紀夫・行動学入門<世界のおわり>より
よく「エホバの証人」とか「ものみの塔」の人が玄関をノックするでしょう。初代会長のチャールス・T・ラッセル以来三人の指導者は「この世の終わり」の予告に失敗しています。僕は,そういう事情を説明したうえで,今度の「世界の終わり」をピタリと当てたら信者になります,といつも言っております。ニューワールドオーダーとか騒いでいるが,100年たっても駅前にはタバコを売っているおばあさんがいて,赤電話はもうないかもしれないが,学校帰りの子供たちが夕日をあびて,ワイワイ騒いで家路についている光景が目に浮かぶ。そして僕のような酔っ払いが顔を赤くして,当てもなく,また赤の他人から冷ややかな嘲笑を浴びながら,フラフラと千鳥足で歩いていることだろう。
ストリントベリーの戯曲「死の舞踏」の,憎み合い,愛し合い,退屈しきっている大尉夫妻の対話は,こんな風にはじまります。
大尉 何かおれに弾いてくれんか。
アリセ (気乗りはせぬがイヤそうでなく)何を弾くんですの。
大尉 何でもいい。
アリセ あたしの弾くものはあなたはお好きじゃございますまい。
大尉 そしておれのやるものはおまえはまた嫌いなさ。
アリセ (話を避けて)ドアはあけ放しにしておくんですか。
大尉 あまえ,そうしておきたいんなら。
アリセ じゃ,そうしときましょう。
ーーーそしてこの長い夫婦生活の梅雨は,大尉の死をもってのみ,おわりを告げるのです。三島由紀夫・行動学入門<梅雨のおわり>より
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ハンス・ホルバインの「死の舞踏」の彫刻
学校のおわりとは,言わずと知れた卒業だが,女の学校では,さすがに,卒業式直後に先生を袋叩きにした,などという暴力事件は起こらない。しかし,これは必ずしも,女性が暴力的ではない,ということを意味しないのであって,多分,「もうすぐ結婚して,もうすぐ子供が生まれて,それが女の子だったら,この母校にまたお世話にならなければならず,このオールドミスの先生たちはみんな長生きしそうだから,いま喧嘩しちゃ損だわ」
というだけの,先の見えた考えから来ているものと思われます。男は,なかなかこういう先の見えた考え方ができないのです。学校の思い出とは一体なんでしょう。何よりも,試験の恐怖のおわりでしょう。学生時代にまた戻りたいという欲望は強いけれど,何とか今度は試験のない学生時代に戻りたい。
はっきりいってしまうと,学校とは,だれしも少し気のヘンになる思春期の精神病院なのです。これは実に巧みに運営されていて,入院患者(学生)たちには,決して「私は頭がヘンだ」などと気づかせない仕組みになっている。先生たちも何割かが,学生時代のまま頭がヘンな人たちがそろっていて,こういう先生は学生たちとよくウマが合う。いまさら東大生の何割かが精神病だなどと発表されて,おどろくことはなにもありません。(達人注:これは昭和37年以前の話で,試験問題が急に易しくなった今はそういう話は聞かれません)試験とは,この頭のヘンな連中に,「私は正気だ」と確信させるための手続きであって,そのために彼らの脳裏の奇妙なケンランたる考えとは,全く関係のない問題ばかりが出て,それでこそ勉強はますます苦痛になるが,ともかく答案を書けば,何ほどか,自分は正気だという安心をいだける仕組みになっている。
私はあるとき,トンカツ屋で,ゼミナール流れの先生と学生たちが,トンカツを食べながら交わしている対話を,ふと耳に入れたことがあるが,一人のピチピチしたかなりの美人の女子学生が,大きな声でこんなことを言っていた。
「先生,私,やはり,ゲーテはファウスト第二部を書いたとき,思想的に一歩後退して,神秘主義のなかに低迷しているという説なんですけど」
トンカツを食べながらの話題としては,ファウストはいかにもトンチンカンである。私もトンカツを食べていたのだから大きなことは言えないが,チラと見ると,その女子学生の若草いろのセーターの張り切った胸の感じといい,いかにも美しくはつらつとしているので,よけい悲しくなってしまい,どうして彼女はトンカツを食べながらこんなことを言うのだろうと思ったら,世をはかなむような気持ちになりました。
学校ではこのような,完全な羞恥心の欠如がゆるされる。それが学校の精神病院である所以である。私は今でも恥ずかしく思うが,学生時代,専門外の仏文研究室へ飛び込んで,「先生,僕はゴーチェみたいのが好きなんです」などと,ゴーティエというべき発音を,ゴーチェ,ゴーチェと,ごっちゃごちゃに発音しながら,得意げに宣言しましたが,そのじつ私はゴーティエなんか,一度も読んだことがなかったのでした。.......頭のヘンな若い連中の相手をしているのが好きな人たちだけが,先生という職業を選ぶのではないでしょうか?
さて,問題は,この「学校のおわり」です。学校のおわりは卒業式ということになっている。しかし,それで本当に卒業した人が何人いるでしょうか?
本当の卒業とは,「学校時代の私は頭がヘンだったんだ」と気がつくことです。
学校をでて十何年たって,その間,テレビと週刊誌しか見たことがないのに,「大學をでたから私はインテリだ」と,いまだに思っている人は,いまだに頭がヘンなのであり,したがって彼または彼女にとって,学校は一向に終わっていないのだ,というほかはありません。 三島由紀夫・行動学入門<学校のおわり>より
ワイセツとは,性欲が観念的刺激を受けて,不自然にふくれ上がったり,こりかたまったりした状態である。森鴎外はそういうものを本当の性欲とはみとめず,自然主義小説が代表しているような観念的性欲のウソッパチを見抜いていたにちがいない。つまり,今でもそこらの桃色記事によく出ている,「狂った本能にかられて」とか,「男の赤裸な獣欲のすがた」とか,「人間獣のすさまじい愛欲」とか,いうやつが,ただのフィクシオンだということ,いやむしろ,人間の衰弱だということを見抜いていたにちがいない。(下は角川書店)
このごろは映画も雑誌も色きちがい時代と言われています。真夏に向かうにつれて,ますます露出過度になり,映画や雑誌だけを見ていると,一億国民が性的妄想で変調をきたしたのではないかと思われるくらいです。それほど性的な妄想でいっぱいになっていない人は,自分のほうがヘンなのじゃないかと頭をひねらざるをえない。
そういうとき,いつも私の思い出す一例があるが,ふだんは体力も旺盛なら性欲も人並み以上の男が,軍隊に行っている一年間,一トかけらの性欲も起きなかったと告白したことです。初年兵で一日コキ使われ,床に入ると,眠るのだけが最上のたのしみで,一年間まるきり性欲を忘れて暮らしたそうだ。もっともこの男は,血液型ならO型のほうで,あんまり頭を使わないノンビリ型であったことはたしかです。
これと対蹠的な一例が,アメリカからかえった或る社会学者の話で,或る座談会のあとの雑談の折に,この人は,「アメリカの都会生活がいかに人間の抹消的な感覚ばっかり刺激して衰弱させてしまうか」という説を述べだし,「そういう風になった人間は,おしまいにはネオン・サインにも性欲を感じるようになる」,と主張するのでした。
きいているわれわれは,何だかキツネにつままれたような気がしてきたが,一人がガラリと窓をあけ,むこうのビルの屋上にどぎつい色で明滅しているネオン・サインを指さすと,「君はどうなんだい?君は今あれを見て性欲を感じるかい?」とアケスケにたずねました。気の弱そうな社会学者は,強い近眼鏡の中から,そのネオンのほうをチラと眺めましたが,そのまま口のなかで何かムニャムニャ言って,黙ってしまいました。
-この二つの例は,現代人の性欲の両極端を示しています。よく美人と二人きりで無人島に漂着した男の話が,漫画に扱われていますが,この島で,誰憚るところなく,二人が性欲一本に邁進するかというと,どうも疑問です。現代人の性欲には,ただの肉体的刺激ばかりでなく,観念的刺激が必要ですが,このこの無人島にはそれがないからです。しかしこの無人島に毎週はるばる東京から週刊誌が届いていたら,事情は大いに異なるでありましょう。「観念がもっともワイセツである」という見地からすると,無人島は新しい観念を生み出してはくれません。たとえ絶世の美女と一緒に暮らしていようとも......!前述の二つの例は,全然観念的刺激をうけるヒマのない生活や環境と,観念的刺激だけにたよるほかはなくなった生活や環境との,好対照を示しています。
森鴎外先生の有名な「キタ・セクスアリス」を読むと,その性欲生活の淡々たることにおどろかされます。その中には,いろんな人物が出没するが,女にもてるあまりに身を持ち崩すのは大てい美男であって,「キタ・セクスアリス」の主人公金井君は美男ではなく,かつ性欲も淡白なほうだから,何ということもなく,淡々たる性欲史を展開します。神経が疲労しているとき病的に性欲が昂進するのは,われわれが,経験上よく知っていることである。これを「強烈な原始的性欲」とか,「本能の嵐」とかに見まちがえる人がいたら,よっぽどどうかしているのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。
現代人は観念的刺激をパッシブにうけるばかりでなく,自分から積極的にそれを作り出さずにはいられない。観念的刺激の泉が涸れると性欲も涸渇してしまうから,あるいは涸渇してしまう恐怖にかられるから,ムリヤリその泉を涸らすまいとする。その悪循環が現代の色キチガイ的風潮を作っているので,ここまで来れば一種のノイローゼです。それでは健康な本能,健康な性欲とはどういうものか?
これはそうも私には,ヌード写真や性的バクロ記事や「貞操をうばわれた処女の告白」やエロ剣豪小説や映画の二十分間のベッド・シーンや,......そういうものに挑発されて出て来るものとはちがうような気がする。
......ヒロポン患者のヤクザが,女のヒモになり,そのうえ上野駅でつかまえた家出娘をつぎつぎと味をためしてから,売り飛ばす,.....というような,よくある話は,私には「衰弱した哀れな性欲の物語」としか思えませんが,まだ衰弱していない健康な性欲の持ち主の青少年が,そんなものを,「逞しい赤裸な獣欲」と考えることから誤解が起こる。私だって,「逞しい赤裸な獣欲」なら,わるくない。自分も持ってみたい,と思います。
しかしもう私はニセモノには引っかからない。現代の性ノイローぜの根本は,「衰弱」を,「衰弱と反対のもの」ととりちがえる,かずかずの誤解,みせかけ,虚栄心にあるのです。 三島由紀夫・不道徳教育講座<性的ノイローゼ>より
ワイセツと自由との反対の関係は,サルトルが力説している点であって,サルトルは,もっともワイセツな肉体の代表を,サディストが縄で縛って眺めている相手の肉体,つまり自由を奪われた肉体に見ています。「品のないもの」は,品のよさの要素の一つがその実現をさまたげられるときに,あらわれる。舞台に顛倒したバレリーナのむきだしになったお尻に,突然ワイセツがあらわれる。三島由紀夫<ワイセツの定義>より
フィギュアスケートで4回転ジャンプに失敗し,お尻をむき出しにする場合,それもワイセツの定義からすればそうであろう。「われわれの目の前に自己の事実性をさらけ出す」つまり行為を捨て去った一つの事実として肉体が突然露呈される。お尻をふって歩いている場合,このお尻は,歩行に従事している身体から,「余計なもの」として孤立し,ワイセツになる。しからば,パンツをはかないでヘマをやらず無事4回転ジャンプが出来たばあい,サルトルの「存在と無」によればワイセツではないことになる。
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ワイセツについて,私が今まで読んだものの中で,もっとも明快正確な定義を下しているのは,ジャン・ポール・サルトル先生である。私はこれ以上みごとなワイセツの定義を知りません。サルトルはその大著「存在と無」の中で,ワイセツについて語っている部分は,彼の全哲学体系とかかわりがあるので,砕いて説明するのがむずかしいが,サルトルはまず,「品のよさ」と「品のないもの」の二つを分け,ワイセツを後者に分類する。なぜなら,「品のよさ」においては,人間の身体は,一つ一つの行動が,目的にむかって適合しつつ,しかも他人から見た場合,予測の不可能な心を内に秘めて,未来へ向かって進むと共に,未来の光によってすでに照らされている。
「品のよさを構成しているものは,自由と,必然性との,このような動く影像である」「品のよさにおいては,身体は自由をあらわす用具である」例えば,女子運動選手の足や腕のあらわな姿,バレリーナの裸の背,そういうものはワイセツではありません。そこでは身体が自由をあらわしており,男はそれに犯しがたいものを感じます。
ワイセツと自由の反対の関係は,サルトルが力説している点であって,サルトルは,もっともワイセツな肉体の代表を,サディストが縄で縛って眺めている相手の肉体,つまり自由を奪われた肉体に見ています。
サルトルの説明で特に興味があるのは,ワイセツとは,たとえば,歩いている人がお尻を無意識で左右にふるという一コのお尻が,性的欲望をおこしていない何びとかに対して,その欲望をそそることなしに,あらわになるとき,それが特にワイセツであると言っていることです。この点が世間の道徳家のワイセツの考えとちがうところであって,サルトルは,ワイセツなものを,一つの本当の熱烈な性的衝動を起こさせない,或る衰弱したもの,無気力なもの,と見ているのです。
と同時に,ワイセツの本当の意味は,目の前で人がころんでお尻が丸出しになったのを見るときのような,意外な,瞬間的な,ありうべからざるものをありうべからざるところに見たような場合にひそんでいるのであって,そういう意外な効果をねらって作られたものを,ワイセツ物とかワイセツ文書とかいうのである。この意味からすると,チャタレイ夫人のように,何の意外さもなく,あるべき個所にあるべき描写を堂々と開陳する小説は,どう考えてもワイセツではありません。それはバレリーナのお尻ではなくて,正に踊っているバレリーナの描写なのでありますから。
常識的に言えば,相手の人格をみとめた上での性欲はワイセツではなく,人格から分離した事物としての肉体だけに対する性欲がワイセツだということである。ですからワイセツは観念的であり,非ワイセツは行動的である。しかし困ったことに,人間が,全くワイセツを離れて純粋性欲だけによって動かされるという理想的なケースは,現代文明の下では,まず求められません。現代文明のみならず,古代でも,文明の栄えるところ,必ずワイセツが伴って来ました。
そこで何とかこの混乱を収拾するために,キリスト教が,「愛」のおしえで,ワイセツと本当の愛とをきびしく区別しようとしましたが,悲しいかな,そうしてワイセツから切り離された愛からは,性欲も消えてしまいます。ワイセツとは,かして,「愛しえぬ性欲」「欲望しない性欲」という,文明病の別名になったのであります。
三島由紀夫・不道徳教育講座<桃色の定義>より
『ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と,天に沖(ちゅう)している火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び,金閣の空は金砂子を撒いたようである。私は膝を組んで永いことそれを眺めた。気がつくと,体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも,さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた。ポケットをさぐると,小刀と手巾(ハンカチ)に包んだカルモチンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草をのんだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように,生きようと私は思った』
三島由紀夫<金閣寺>最終章より,1956年8月14日