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ヨブへの答え その5・教会の原理と精霊の原理
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ここで大事なことを申し上げましょう。以下はGIDEONの英文と新共同訳(カトリックとプロテスタントが仲良く都合のいいように訳した?聖書ですが牧師さまの多くはこれを使っていない)とユングが用いたスウェーデン語の聖書との違いです。
"I said,'You are "Gods".You are all sons of the Most High.'(GIDEON PSALM82-6)
「あなたたちは神なのか(?) 皆,いと高き方の子らなのか(?)」(新共同訳・詩篇82-6)
「我は言いたい,汝らは神なり,汝らは皆いと高き者の子なり」(スウェーデン語の聖書からおなじ詩篇82-6)
これでは大違いです。新共同訳は「あなたたちは神なのか?そんなことはありえない。皆,いと高き方の子らなのか?イエスのみが神の子である」ということを言っているわけです。皆を苦しめ,悩ませている元凶が教会の原理と精霊の原理との違いなのです。新共同の訳はカトリック側に押し切られた感が否めない。このヨブへの答えその5ではそのことを考えてゆきましょう。
ユング本体に入る前に引き続き林道義氏の訳者解説を続けよう。
精霊の受肉はこのように「神の人間化」の意味をもっていたが,しかしそれは同時に「人間の神化」をも意味していた。「なぜなら人間はそれによってある意味では神の息子の地位にまで,神人の身分にまで高められるからである」(104ページ)。この見方もまた正統派キリスト教と真っ向から対立するものである。正統派では神と人との距離は最大となる。
神は善にして全知全能かつ永遠であるが,人は罪深く無知にして死すべき身である。神が人間になることはありえても,人間が神になるなどということは絶対にありえないことと考えられている。ところがユングはパラクレート(助け主)の派遣という観念には明らかに『人間が神にまでなりうる』という思想が含まれているというのである。
パラクレートが正統派教会によって黙認されてきたのは,それが教会の立場にとってきわめて危険な要素をもっていたからである。教会を否定するクエーカーの集会では職業的な牧師は存在せず精霊が下った人がその言葉を語るが,これを見ても明らかなように,精霊の働きと教会の原理とは相容れないところがあるのです。教会の原理は「人間化と救済の業の一回性」と基礎にして,それを教会が独占することによって成り立っている。それに対し精霊の原理は一種の「個人主義の方向」であって,教会の統制に服そうとしないからである。
それゆえ「精霊によって動揺させられ偏った考えをもったと思われた者は,必ず異端とされ,この者を打ち倒し根絶するためにはサタン顔負けのやり口が取られた」(106ページ~107ページ)
しかしユングは聖書の中にも,人間は神に近い,あるいは神になりうる,という思想が見られるとして,次のような箇所を引用している。イエスは『詩篇』第82章6節「我は言いたい,汝らは神なり,汝らは皆いと高き者の子なり」を指して,「精霊の言葉はすたることがありえない」と言っている。(104~105ページ).......それでは「人間が神になる」あるいは「人間の中に神的なものが宿る」というイメージは心理的には何を意味しているんだろうか。それは救いが外から与えられるものではなく,救いの働きは人間の内に存在しているのだという思想を表しているのである。
「パラクレートの宿り」というイメージはグノーシスの種子が人間の中に密かに埋め込まれているというグノーシス主義の観念と同種のものである。それは人間が外的な業やその制度化によって救われるのではなく,人間の中には神的なものが内在しており,人間はその内なるものの働きによって救われるのだということを語っているのである。
それならば,キリストの死が人間を救うためではないとすると,それは何を意味しているというのであろうか。それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか。
追加....管理人注:その後の調査でエリ・エリ・レマ・サバクタニの解釈はマタイとルカで大きな違いがあることが分かった。
この意味は、
「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、
「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、
と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?
管理人注:アーノルド・トインビーも歴史の研究の中で精霊に触れている。『キリスト教の神観では,神の超越的な面(あるいは”ペルソナ”(三位一体の神のおのおのの位格)は”父なる神”のうちに現れ,内面的な面は,”聖霊としての神”のうちに現れる。しかし,キリスト教の信仰の独特の,かつもっとも重要な特徴は,神が二元的存在でなくて三位一体であること,そして”子なる神” としての面において他の二つの面が統一され,この神秘によって,人間の頭では理解できないが,人間の胸ではっきりと感じることのできる一つのペルソナを形成していることである。”まことの神”であると同時に,”まことの人間”であるイエス・キリストのペルソナのうちに,神の社会と現世社会は,この世ではプロレタリアートの間に生まれ,罪人として死ぬが(注:バラバかイエスかという意味で),別の世界では”神の国”の王,神そのものであるところの王となる, 共通の成員をもつ。一方は神的で他方は人間的な二つの性質がどうして単一の人格のうちに同居しうるのだろうか。この問いに対するいくつかの答えが,信条の形で,キリスト教父の手により,ヘレニック社会の哲学者の専門語を用いて作り上げられている』,と。
それはここで「神が死すべき人間を体験し,彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する」(73ページ)からである。つまりイエスの十字架上の苦しみは,これまで神によって人間に与えられてきた不当な苦しみを自らも味わうという意味をもっており,いわば神の側の不正に対する償いであるということができる。イエスは人間の罪を背負う必要はない。なぜなら人間を罪深く造ったのも,それによって人間を苦しめたのも,神の責任であって人間の責任ではないからである。それゆえ神と人間との和解は,神が人間と同じ苦しみと死とを経験することによって成立するのである。人間は罪から開放されるのではなく,神の怒りへの恐怖から開放されるのである。(84ページ)