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今の合衆国でインディアンに関係した州

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/b7e18659ef3e2aef180fdbfb70e300af

http://web.archive.org/web/20170502093044/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/129.html

 視点の転換の自由は、精神の自由の現れである。―――――――――

そのどちらが正しいかではなく、視点の転換の自由こそが、

現実の全体の把握を可能にし、精神の独立を保証するだろう。

「夕陽妄語」加藤周一。1996・10・23、
朝日夕刊

突然万物は消滅する その1
突然万物は消滅する その2
突然万物は消滅する その3
突然万物は消滅する その4
突然万物は消滅する その5
突然万物は消滅する その6
突然万物は消滅する 完

R.G.Collingwoodの「The Idea of History(1946)」によると『キリスト教の立場にもとづいて書かれた歴史は,どうしても普遍的,摂理観的,啓示的,終末論的にならざるを得ない.......歴史の中に客観的な計画のあることをどうして知るのか?と問われれば,中世の歴史家はおそらく,啓示によって知る,と答えるであろう..........中世の歴史学は,神によって予定され(注:予定説),啓示を通して人間に予知されたことがらとして,歴史の終末を予期していた。.....中世の考え方では,神の客観的目的と人間の主観的目的とは完全に対立するものであり,神の目的は人間の主観的目的のいかんにかかわらず,ある一定の客観的計画を歴史の上に押つけるという形で現れると考えられていたので,したがって必然的に,人間の目的は歴史の進行になんら影響を及ぼすものではなく,歴史の方向を決定する唯一の力は神性であるという思想に導かれる』,と。そしてこの歴史家は続ける。『未来を予測できると考える誤りに陥り,なんとかして歴史の全体的な計画を見つけ出そうと考え,しかも,その計画は神の計画であって人間の計画ではないと信じていた.......中世の歴史家が望んだのは,神の属性の精密な学問的研究......歴史の過程においてこれまで起こったに相違ないこと,また,これから起こるに相違ないことをア・プリオリに断定する力を与える神学であった』,と。

 そうではないですよ,と各人が疑問に思うことからはじまるコギト論証=考えるヒントがこのブログの目的です。決して生易しいことではないですよ,我思う,故に我在りとは。

聖書は全人類の大いなる遺産であり希望です。 決して教会の独占物ではありません。 その万人の宝を、現代的視点で 読み直すと、その時代の証言としての「聖書の声」が聞えてきます。 聖書は人生に似ている。 聖書とは、宿題を投げ与える本である。(江礼宮夫:元プロテスタントで現カトリック) ........

上は江礼宮夫氏のリンクフリーのHPからですがよくまとまっています。こういうのと併せて,コギト論証(疑うことができるということは、疑っている者、つまり「私」が存在することだ、として“我思う、故に我あり”)の意味でも佐倉哲氏の「聖書の間違い」もお勧めします。拙稿との関連で並行してお読みください。欧米人の家に例えばクリスマスイブに招待され作成中のクリスマスツリーの頭の星(民数記参照)を勝手につけたりしたら全ての商談はご破算になりますし嘲笑の対象となるわけです。食事の間に「モーゼの中間部分がない」のはどうしたもんでしょうか,とか私はモーゼの五書ではなくヨシュア記を入れた6書が正しいと思っています......などと発言すればたちまち尊敬のまなざしで見られることになりますよ。イスラム教の顧客には「イスラム教もキリスト教も元を辿ればアブラハムじゃあないですか,もっと仲良くするべきです。それとも誰かが意図的に仲たがいさせているのかも」などと言えば向こうはもう大喜びです。後は飯を食うのに専念すればいいのです。向こうが勝手に喋ってくれますからね。世界を相手にビジネスする場合,毎朝神棚に向かってシャンシャンだけじゃあ駄目なのですよ。誰に向かってシャンシャンしているのですか?結婚式は教会で,正月は神社に,葬式は仏式で.....なんてよくぞ発狂しないでやってられるね。
殺せ,と神が命じるときクリックすると元のサイズで表示します

 北米大陸へ移住してきたピューリタンたちは、先住民たるアメリカン・インディアンたちを虐殺して、合衆国を建設してゆく過程のなかで、しばしば自分たちをモーセやヨシュアに率いられてカナンに侵入していったイスラエル人になぞらえて、自分たちをあたらしい神の選民「新イスラエル人」と自称して、新国家建設(先住民文明壊滅)にいそしんだのでした。 (佐倉哲)

以前大英博物館で殺された血のにじむ衣類がこれみよがしに展示されていて辟易したことがあった。染みついた人の血はとれるものではない

今のアメリカ合衆国でインディアンに関連した州は以下の通りである。

ALABAMA 現地のアメリカインディアンの部族の名から
ARIZONA 現地のアメリカインディアン語で小さな泉の意
ARKANSAS 現地のアメリカインディアンの部族の名から
CONNECTICUT 現地のアメリカインディアン語で長い川の意
IDAHO 現地のアメリカインディアンの部族の名から
ILLINOIS 現地のアメリカインディアン語で人の意
IOWA 現地のアメリカインディアン部族の名から
INDIANA インディアンの土地の名
KANSAS 現地のアメリカインディアン部族の名から
KENTUCKY 現地のアメリカンインディアン語で平原の意
MASSACHUSETTS 現地のアメリカインディアン語で大きな丘の意
MICHIGAN 現地のアメリカインディアン語で大きな湖の意
MINNESOTA 現地のアメリカインディアン語で空色の川の意
MISSISSIPPI 現地のアメリカインディアン語で大きな川の意
MISSOURI 現地のアメリカインディアン語で大きなカヌーをもった人たちの意
NEBRASKA 現地のアメリカインディアン語で浅い川の意
OHIO 現地のアメリカインディアン語で素晴らしい川の意
OKLAHOMA 現地のアメリカインディアン語で赤い人々の意の部族の名から
OREGON 現地のアメリカインディアンの部族の名から
TENNESSEE 現地のアメリカインディアンの村の名から
TEXAS 現地のアメリカインディアン語でアパッチ族に対抗する名・同盟者
UTAH 現地のアメリカインディアン語で山の住民の意

 ざっとこれだけある。95%のインディアンが虐殺された。他の州は殆どがイギリスに関連している。NEW YORKなどは英国の都市YORKにちなむ。これらの都市にピルグリムファーザーが上陸し,その後散らばって現地インディアンから土地を奪い獲り,虐殺したとされる(彼らはヒッタイトを祖とする蛮族アングル人とサクソン人で今のアングロサクソンの原型でもある。また巨大なペニスを持つことで知られる)。

 1970年代にアマゾン大開発が始まるや,アマゾンの破壊は急激に進んだ。空中からインディオ,ピグミーを機銃掃射で撃ち殺し,大規模開発はT- FORDの自動車工場を建てることから始まった。

「今日は死ぬのにいい日だ」

阿部珠理

(立教大学社会学部教授)

 「今日は死ぬにはいい日だ」
 日本でも有名なインディアンの言葉である。狩猟民族のラコタ族が、戦闘に行くときにあげる雄叫びだ。勇敢な男たちは、死んでもかまわないという決意で三つ編みに編んだ長い髪をほどき風になびかせる。そして馬上で叫ぶ。
 「今日は死ぬにはいい日だ」

 インディアンには長い歴史に培われた「武士(もののふ)」の伝統があり、死ぬことを恐れないだけではなく、「潔く死ぬためには、潔く生きなければならない」という心情がある。死に方の潔さは、生き方の問題だという思想が脈々と受け継がれているのだ。インディアンはその歴史を文字で残してきた民族ではないが、その価値観や思想は生き方そのものの中に伝わっている。

 この死生観は、日本の「葉隠(はがくれ)」の精神に通じる。そこにあるのは「死に様」の美しさであり、それを重要だと考えていた日本人の思想である。死に様の美しさを求める気持ちは、突き詰めればどれだけ充実した生き方をしてきたかを表している。この人生の密度が死に方の潔さを決めるという意識が、日本人とインディアンに共通する。住んでいる場所も文化の成り立ちもまったく異なるアメリカインディアンと日本人は、究極的な価値観において通じ合うところがある。

 実際アジアから凍ったベーリング海を歩いて渡ってアメリカ大陸に到達したインディアンと日本人は、生物学的にはモンゴロイドの「はとこ」くらいの関係にある。弓の島(日本列島)に定住した日本人は、縄文から弥生時代をへて異文化と混淆し、近代には決定的な西欧化の波にのまれてゆく。一方、亀の島(アメリカ大陸)の住民のインディアンは、西洋文明の制服の歴史の中で、野蛮と未開のレッテルを貼られながら、祖先の価値観をずっと継承してきた。

 異文化を受け入れることで近代化を達成した日本人と、時代と状況が変化しようとも自分たちの価値観を頑なに守ってきたインディアン。こうした不器用としか思えないインディアンの生き方に、日本人はどこかで懐かしさと共感をおぼえてしまうような気がする。

 生き方の密度を重んじるインディアンは、日ごろの行動で人を評価する。学者や経営者といった肩書きだけで、インディアン社会で尊敬されることはない。彼らは多くを語らないが、「人の背中を見て生きてきている」のだ。

 集会、選挙など、機会あるごとにコミュニティで顕彰式が行われるが、その対象は病院の掃除夫であったり、何も職業を持たない人であったりする。私がよく話を聞くメディスンマンも、部族議会が行われる建物の清掃を仕事にしているが、顕彰された一人だ。メディスンマンは、各部族のシャーマン的存在であり、祈祷師、医師、聖職者、予言者すべてを兼ね備えた存在だ。最近では、伝統の継承者、コミュニティのカウンセラーの役割を負う。だがメディスンマンであることの絶対条件は、癒しの力をもっているということだ。病気や怪我を癒すことから、精神の癒しまで、その力のない者を、メディスンマンとは呼ばない。

 メディスンマンは癒してもお金を受け取らない伝統があるから、生活は決して豊かではない。それでも自分の生活より他者の癒しを優先する彼らが、一番に顕彰されて何の不思議もない。

 サウスダコタ州に住むラコタ族は昔から孤児がいない社会だと言われているが、それは実際両親が亡くなっても、誰かが子どもの面倒を見てきたからだ。現在でも犯罪やアルコールの問題で両親が収監された場合、親戚や近所の子どもを引き受ける例は多い。ラコタ族の保留地(インディアンが土地を奪われ最終的に囲いこまれた場所)は、アメリカの最貧地帯とされているが、それでも餓死した人の話を聞いたことがない。集合住宅で死後三週間もたって発見される「豊かな無縁社会」日本と異なり、貧しいながら人はしっかりと繋がり助け合う。人を助けたからといって自分の行いを吹聴したりもしない。平気で自慢するような恥じらいのない人間を、誰も尊敬しはしない。

 現代はどうしても物質的な豊かさであるとか、学歴といった目に見えるものに価値が見出されがちだが、かっての日本社会は、ニンゲンの内面をより重んじ、その価値を認める社会だった。日本人が失いつつある、「奥ゆかしさ」や「恥じらい」が、インディアンの生き方に触れることで、郷愁や賞賛とともに喚起されるのかもしれない。日本人はやはりインディアンが好きなのだと思う。

 多くの日本人がインディアンと馴染みになるのは、一九五〇年代の西部劇の中であったろう。だがそろいもそろって西部開拓を妨げる悪漢として描かれたインディアンに、そのとき日本人が親しみを持ったかどうかは分からない。

 日本人がインディアンを好意的に受容したのは、一九六〇年代から七十年代にかけて世界中に広がったヒッピームーブメントからだろう。インディアンをモデルにヒッピーは髪を伸ばし、はだしにサンダルで大地を歩いた。ヒッピー思想の中心に自然回帰があり、髪の毛を伸ばすのはその象徴であった。

 ひたすら利潤と効率を追求してきた近代の物質文明のひずみが世界を覆う中、自然回帰から環境保護、そしてエコロジーに対する意識の高まりが、私たちをインディアンに近づけてゆく。インディアンは太古からの「大地の守り人」として注目を浴び、エコロジーの教祖として受容されるようになる。ことに八〇年代以降、「癒し」を求める人びとがインディアンのスピリチュアリティに惹かれ、自然とともに生きていた彼らの魂の声に耳を傾けようとする。セドナやブルーレイクなどインディアンの聖地を訪ね、そのパワースポットでの神秘体験に癒しを求める人たちが出てきた。ラコタ族長老オーバル・ルッキングホースを招いて二〇〇四年に開催された「聖地富士山で世界平和を祈る」イベントには、日本中から三〇〇〇人もの人が集まった。

 私は不思議な縁からインディアンの世界に入り、毎年彼らのコミュニティを訪れる生活を続けている。彼らの現実生活は厳しく、決して褒められることばかりではない。だが、もう二度と来るものかという体験をしても、やはり来てしまう。私を呼び戻す磁場がそこにある。

 インディアンとの出会いから二〇年がたつ。ここにあるのは彼らが守ってきた万古の智慧とそこから発せられる何気ない一言、その言葉が私にもたらした気づきの数々である。決して特別なことが起きたわけではない。だが、ありきたりの日常の中に珠玉のような普遍の価値があることを、インディアンほど私に教えてくれた人々はいない。

『ともいきの思想』
自然と生きるアメリカ先住民の「聖なる言葉」(株式会社小学館) より
2010年 6月 寄稿


『万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかもしれない。

 自殺に対するモンテエエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することができないのである。

 死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやってみたまえ』

           芥川龍之介『侏儒の言葉』より
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 うちのご主人は毎朝,晴天の日は勿論のこと,雨の日も,嵐の日も,風の日もここでお祈りしています。テクムセさんの影響でしょうかね。(マー君,スー君談)

『朝起きたら、

太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、

感謝することだ。

どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、

それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ』

ショーニー族の首長、テクムセ(1768-1813)の言葉  

 イスラエルにシロアムの池がある一つかと思いましたがバビロニア王のネブカドネザルによるイスラエル攻撃前のヘゼキアが貯水池(あるいは地下水道イザヤ書22:9~11)として紀元前586年に造った池(シロアム)をイメージして我が家の池はあります。
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 『イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、
『先生、この人が生まれつきの盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。』

イエスは答えられた、
『本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神の御業が彼の上に現れるためである。----』
イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで泥をつくり、その泥を盲人の目に塗って言われた、
『シロアムの池に行って洗いなさい。』

そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネ9/1-7)』

複数あるそうで紀元前1世紀に造られた現在のシロアムの池(上のヨハネ第9章はここをクリック)は今も見ることが出来る。その池は聖書に記述されているように奇跡を生んだ池として知られています。幅が4メートル,長さ12メートル,深さ20センチですが我が家の池はそんなもんではありません。長さは直線で20メートル,周りが37メートル,深いところは140センチあります。

飯村隆彦は言った「庭は瞑想のための装置である。空白を感知せよ,静寂の美を聞け,空虚の浸透を想え」,と。

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 今朝10時に雨が止み久しぶりにデジカメで撮ったのですが湿気でレンズが曇っていたらしくぼやけています。右のマー君は11ヶ月になりました。武勇伝もたくさん出来ましたのでいつかこの連載が終わったら掻き(?)ましょうかね。
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 冬毛もすっかり抜けて夏モードのマー君。神の領域である『善も悪も無い至高の世界』にいるマー君とスー君から学ぶことは多い。
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 スー君は時々あまりにしつこいのでマー君から叱られているみたいで昨日も叱られて一緒に寝ないでどこかにいたみたいです。兄貴であるマー君を上目づかいで様子をうかがうスー君。
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 スー君あまり怒られたこと気にするなよ。マー君はお母さんそっくりになってきたね。
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 マー君のお母さん(当時二歳)。左にひっくり返っているのはマー君か??
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 ここは一番深いところ。白い鯉はピーちゃん,もう一匹は花子でとても仲良し。一年でこんなに大きくなりました。ほかに小さな鯉が約50匹,鮒が50匹,など沢山います。ドジョウもね。花子は臆病で大きな池と貫通したとき怖がっていましたがピーちゃんが体を花子に押しつけ「ねえ~,大丈夫だからおいでよ」という仕草をしていましたがお魚にも立派な感情があるのだと思いました。
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 ウッドデッキに向かって。
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   神の棲む池
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 左後方が突き当たりで元の池。
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 昨年「いつも一緒」で紹介しましたが蛙がいるよ.....という記事ですがその後本年3月か4月ごろでしょうか大きな雄のヒキガエルがちょうどこの睡蓮の左側の壁に張り付いて動こうとしないのでおそらく卵がふ化するための行動で時々息をしているのかな?と思っていました。ところが一ヶ月ほどして様子を見るために網でつつくと全体がぐにゃ~と腐っていたのでした。そのしたには無数のおたまじゃくしが。雄の腐ったものを食べていたのでしょうか。これには感動しました。死ぬのを承知で卵をふ化させていたのでした。千匹じゃあきかないくらいの数でメダカの餌を与えていました。

 時々母蛙とおぼしき『ケロケロ』という声が聞こえ迎えに来たんだなとすぐわかりました。毎日それが続いておたまじゃくしに小さな足がはえて壁を乗り越えたりしていましたがある雨の朝一匹のおたまじゃくしもいなくなりました。これには驚きました。人間にはわからない崇高な世界を見た思いです。また今年は沢山帰ってくるのではと今から楽しみにしています。
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 マー君はお魚を見るのが大好きなようで。
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 兄貴はあっちへ行ったようだな。今朝はすこし機嫌がよくないの~。
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 スー君はお魚に興味がなく飛んできた蝶を見ているみたいだな。
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 これは正門。インターフォンもつけましたがコードは70メートルだったそうです。
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 これは元々の池で左に貫通した。今は紫陽花の季節でとても綺麗です。
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 別な角度から。
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 スー君の考えていることはわかるよ。兄貴と仲直り?でしょ。
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 マー君は蛙君たちを捜しているみたいだね。今年の秋には沢山くるからね。
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 ねえ~マー君,まだ怒ってる? スー君,やっぱ喧嘩はだめだな。でもスー君,めったやたらと噛みつくなよな!!
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 奥のホテイアオイは固定してありお魚の寝床。
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 金魚も大きくなったね。
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 金魚がいるのは蓮の赤ちゃん。小さなつぼみがついてます。仏様に捧げるときには開花まえのつぼみを捧げます。

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 右が鯉のピーちゃん,左が花子。大の仲良しです。24日にまた仲間が沢山くる予定。
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 向こう側は山茶花の木。秋には満開になります。
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 イチジクの苗も少し大きくなりました。
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 マー君は何かを見つけたらしい。(後で見たら小さな蜂の巣で上から落っこちたみたいでした)
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 スー君,見てごらん。刺されると痛いよ。
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 晴れた日の朝はここで新聞を読む。つまらない記事ばかりで5分くらいで終わり。
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 右はアロエの樹。聖書にあるようにこれは神様の植物でもある。

 

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