http://web.archive.org/web/20071228223046/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/214.html
2006/9/9
丁度その二年後市谷で楯の会会員・森田必勝の介錯で割腹自刃した。当時の様子は
ここで知ることが出来る。
この写真は大蔵省を辞め作家として仮面の告白を書いた当時の若き三島由紀夫である。この多くの作品のうちで聖書の「予定説」に触れたのはこの作品だけである。まだ耽美的・唯美的・叙情的な作風ではなかった。
私が人生に対して抱いていた観念は,アウグスティヌス風な予定説の線を外れることがたえてなかった。いくたびとなく無益な迷いが私を苦しめ,今もなお苦しめつずけているものの,この迷いをも一種の堕罪の誘惑と考えれば,私の決定論にゆるぎはなかった。
私の生涯の不安の総計のいわば献立表(メニュー)を,私はまだそれがよめないうちから与えられていた。私はただナプキンをかけて食卓に向かっていればよかった。今こうした奇矯な書物を書いていることすらが,献立表にはちゃんと載せられており,最初から私はそれを見ていた筈であった。
やがて私がそこへ行かねばならぬいわゆる「社会」が,お伽噺の「世間」以上に陸離たるものとは思えなかった。一つの限定が無為意識裡にはじまっていた。そしてあらゆる空想は,はじめから,この限定へ立ち向かう抵抗の下に,ふしぎに完全な・それ自体一つの熱烈な願いにも似た絶望を,滲ませていた。 「仮面の告白」より抜粋
学生とのティーチ・インより
学生:暗殺は絶対に肯定されるべきじゃあないとおもいますが?
三島:暗殺の問題から,人を殺すか殺さないかという問題がいつもあなた方の頭の中で一緒くたになっている。そして暗殺というと熱狂的に否定して,すぐそれが人を殺しちゃいけないというふうになる。その考えの根底は,戦後のいわゆる人間主義の教育から来ていると私には思われる。つまり殺人と言う問題を客観的に扱うことができない。すぐそれが,とにかく人を殺すことはいけないのだというふうにいっちゃう。
刑法は皆さんやっておられるから一番わかるでしょうが,刑法には人間性というものに対する二つの根本的な考えが昔から争っています。これは客観主義の刑法と主観主義の刑法との二大対立であります。ご存知のように主観主義のほうが教育刑主義で,客観主義のほうが応報刑主義であります。.....ですから殺すことはいけないのだということは,一つの判断であり,一つの立場なんで,あなたは人間性というものを直視していないのです。それと同時に民主主義というものを直視していない。....
一億人の人間が全部同じ考えだということは人間としてあり得ない。それをしようとすれば,強制収容所の思想が必要になってくるのです。.....あなたはどこかの文芸評論を聞いてきて,美という字をくっつければ,三島がギャフンと参るだろうと思っているかもしれないが,そんなもんじゃない。
現実というものは行動と主張で成り立っているかもしれないが,その行動と主張にはそれぞれクオリティがなきゃならない。質がなきゃならない。最も現実的な行為と,最も高尚な行為との間に階段がなきゃならない。それが我々の生きている意味なんです。
三島氏の見たものはこのヤコブの梯子(旧約聖書の創世記28章12節「ヤコブの夢」参照)であったのであろうか
三島:私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど,おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反発するし,だからこそ逆の方に行くのでしょうね。おそらくそうかもしれません。
学生:初期のころ三島先生は,夭折の美学ということをよく説いておられましたが。
三島:美しく死ぬということはつまり私の年齢ではもう遅いかもしれないけど,西郷隆盛は私は美しく死んだと思っています。あれは49歳なんです。.....それじゃあ醜く死ぬというのは何だろうと思うと,だんだんに世間的な名誉の....そして床の中で垂れ流しになって死ぬ事です。私はそれが嫌で嫌でおそろしくてたまらない。あなたは本当に死ぬ気はなかったのだろうというけれども,戦争が済んでからなかなかチャンスがないわけだ。
とにかく太宰さんみたいに女と一緒に川へ飛び込むのもいいだろうが,なかなかチャンスがない。私と一緒に死んでくれる女性ーーこの中にそんな女性の方でもおられればいいのですが(笑),そういう志望者がなかなか現れないのです(爆笑)ですから要するにチャンスを逸したということですな。
政治行為の象徴性について・核兵器と国家の正義
一体なにが正義なのかという問題になりますと,核兵器から遠いものほど正義になっているんですな。力が弱ければ正義量が増すんですから,男よりも女の方が正義なんだ,女は男より弱いですからね。子供は女より弱いですから,子供は女より正義量が高いんですね。そうすると世論を支配するものは,いつも正義量の高いものだから,女子供の理論で支配される。女子供の理論は,「これはいやだ」,「もっとほしい」,「ドレスがもっとほしい」,おもちゃ一つやったら「もっとほしい」。現状はみんな不満なんです。女であることはいやだ,こどもであることはいやだ,現状を全部変えたいとなる。
三 島 由 紀 夫 割 腹 余 話 |
|
|||||
昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫(四五)が東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。その際、三島と行動をともにした楯の会会員四人のうち、森田必勝(二五)も、最後には古賀浩靖の手を借りたとはいえ、三島を介錯したのち割腹し、その森田の首をさらに古賀が刎ねた。いわゆる≪三島事件≫である。当時のある新聞が、三島の首と胴体が転がっている生々しい写真を掲載して非難を受けたことを記憶している。 【事件のあらまし】 -省略可- 彼はまた、彼の私兵である「楯の会」会員から、計画に参加する数名を慎重に選んで準備した。この特別班は、滞りなく事が運ぶようにリハーサルさえ行った。そして、二十四日の夜、三島は最終的な手配に取りかかった。友人のジャーナリスト二人に連絡し、米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いた。 翌朝、彼は軍刀と、二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど、必要な品々を揃えた。長篇の結びを書き終え、出版社宛ての封筒に入れて、自宅の広間に置いた。二人のジャーナリストに再び電話をかけて或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んだ。そして、楯の会の会員四人とともに自宅を出た。 楯の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、なんの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。 そして、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した。 正午直前に、三島は総監室の外のバルコニーに姿を現わした。彼は定刻になるのを待って歩き回り、一方、森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。十二時きっかりに、三島は足下に集まった隊員たちと、ふくれ上がってきた報道陣に顔を向けた。隊員たちに向ってマイク無しの肉声で、興奮した身ぶりをまじえつつ、真の「国軍」として目覚め、われわれの決起に参加せよ、と訴えた。
しかし演説の大半は、頭上を旋回する警察のヘリコプターの音にかき消されてしまい、ようやく聞きとれた言葉に対しては、隊員たちは野次をとばして反発し、からかった。戦力放棄を謳った憲法を否定し、自衛隊に対して「共に起ち、義のために死のう」と呼びかけた「檄」がバルコニーから撒かれたが、隊員の誰一人として、三島のもとに駆け寄ろうとはしなかった【檄文】。彼らは、作家の熱烈な訴えに嘲笑で応えただけだった。三十分間予定されていた演説は、七分間の茶番劇で終わった。三島と森田は、型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し、総監室に姿を消した。 三島は長靴を脱いで上着のボタンを外し、ズボンを押し下げて、床に坐った。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。名誉ある介錯人に選ばれた森田は、主人の背後に立ち、刀を振り上げて、三島の首を打ち落とす瞬間を待った。内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方か後方のどちらかに傾いた。森田は二太刀打ち下ろしたがうまく切れず、目的は果たせなかった。彼より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離れた。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れない。 ついで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らなかった。これも切腹の一つの儀式であった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。後に残った三人の会員は、このとき涙を流していたが、総監の縄を解き、胴体と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられた。血生臭い事件は終わった。
十一月二十六日付「朝日新聞」の報道によると、牛込署捜査本部は二十五日同夜二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。 三島の短刀による傷はへソの下四?aぐらいで、左から右へ十三?aも真一文字に切っていた。深さは約五?a。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。 森田は腹に十?aの浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は「楯の会」の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい??六尺″ふんどしをつけていた。 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。 森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七?aに深さ四?aのキズ、そこから右へ五・四?aの浅い切創、ヘソの右五?aに切創。右肩に〇・五?aの小さなキズ。身長百六十七?a。若いきれいな体をしていた。 しかし三島はこの挙に出る前に、森田あるいは古賀が介錯することを打合せているのである。そうとすれば、他人による介錯、すなわち<斬首>ということを予定した腹の切り方をすべきではなかったか。 三島の場合、どちらの倒れ方をしたかわからないが、いずれにしても腹から刀(この場合は鎧通し)を抜く暇もなく失神状態に陥り、首は堅く肩にめりこみ、ひょっとしたら両眼はカッと見開かれ、歯は舌を堅く噛み、腹部の圧力で腸も一部はみ出すといった凄惨な場面が展開されたかもしれない。それはとても正規の介錯のできる状態ではなかったと思われるのである。
|