こちらはマー君とスー君の名において
http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20100522.htmlの管理人さまありがとうございます。
管理人注:機会主義者(シオニスト)を検索すると沢山出てきます......シオニストは反ユダヤ主義ですから下の記事の中にイスラエルに住むユダヤ人(ヘブライ民族の子孫)を陵辱する写真も出てきます。ではシオニストとは何教?ということなのですが........ルシファーを神と崇める悪魔集団=イルミナティであり何ら論理的根拠を持たない狂気の集団なのです。魚座の象徴はイエス・キリストですから次の2150年の水瓶座では誰がメシアになるのでしょうか。136年先のことなのですが今生きている人たちは一人もいない世界を予測することはできませんが一つだけ言えることはイエス・キリストというタマはもう使えないということです。
http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8B%40%89%EF%8E%E5%8B%60%8E%D2&x=0&y=0&inside=1
ハマスに混じり込んだイスラエル兵の写真はここ
それもそのはず....ハマスやアルカイダはルシファーを頂点とする悪魔集団の一員でイランはハマスに資金援助をしています。ですからイスラエルとイランは机の下で握手をしているのですよ。下の組織図は概ね正しいのですが一箇所だけ大嘘が入っています。頂点にいるBlack POPEは選挙で選ばれたイエズス会の総長ではなく選挙で選ばれないもうひとりのBlack POPEのことでこれは絶対に口外できない人物ですが拙稿では何回も......。
http://megalodon.jp/2009-0524-1059-27/www.vaticanassassins.org/kolvenbach.htm
イランラジオニュースでは米国の覇権の時代は終わった,と......
『ブレジンスキー氏、「アメリカの世界覇権の時代は終った」
アメリカのカーター政権時代に国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたブレジンスキー氏が、「アメリカが世界を支配する時代は終わった」と語りました。
ファールス通信が伝えたところによりますと、ブレジンスキー氏は、世界覇権という概念は色あせていると強調し、「覇権は、もはや手に入れることができないものだ」と述べました。
ジョンズ・ホプキンス大学で演説を行ったブレジンスキー氏は、「冷戦終了後の13年にわたるアメリカの世界覇権は終結した」としました。
また、「アメリカはかつての影響力の大部分を失っており、アメリカ政府が少なくとも、今この演説を聴いている人々が生きている間に、世界の覇権大国として、権力を取り戻すことがないだろう」としました。
さらに、「アメリカは、いつにもまして、複雑化している現代世界に歩み寄り、アメリカが例外的な存在であるという考え方を改める必要がある」と強調しました』
管理人注:その意味はこれからイルミナティが世界統一政府の覇権を勝ち取る...という意味でしょうね。
PAWNS IN THE GAME
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/588.html
『イギリス王室、すなわち、イングランド銀行のフリーメーソンのユダヤ人の株主は、ワンワールド世界政府(実際は単に『英国』帝国主義の変身したもの)の背後にいます。 米国は、このアジェンダの現在の道具です』.....と。
関連記事:Chatam House
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/770.html
関連記事:シオニズムとは何か
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2665
『聖なる土地でパレスチナの人々を抑圧している邪悪なシオニストたちの多くは、実際には古代ヘブライ種族に属するものではない。彼らは、1000年以上も前に自分の利害関係のためにユダヤ教に改宗したロシアや東ヨーロッパから移住してきた機会主義者どもである(管理人注:13世紀スペインでの異端尋問のように逆に偽キリスト教徒に改宗した人を隠れマラーノとよぶ)。ユダヤ教は多くのあり方でシオニズムに乗っ取られてきているのだ。
イスラエルのシオニストたちはパレスチナ人を陵辱しているばかりではない。彼らは同時に純粋なユダヤ人たちを陵辱しているのだ。シオニストたちは信心深くなくユダヤ人自体を憎んでいる。こんなことはあなた方が米国の主要ニュース・ネットワークでは読むことも聞くことも無いだろう。この世界で真の反ユダヤ主義者(アンチ・セミット)は、実際にはシオニストたちなのだ。セム族の人々にはパレスチナ人とその他の中東諸民族が含まれているのだ』(訳バルセロナより愛を込めて)
管理人注:独断と偏見で推察すればシオニストはオスマン帝国(ヒッタイト)の末裔ではないか.....と確信を強めている。以下の『蛮族戦争団体と文明 その2』にヒントがあるかもしれない。そのヒッタイトの祖先が実はサンカであったと考えるとそう飛躍はしていないと思います。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/156.html
アブラハムとハガルに出来た血統をイシュマエル(アラブ人の祖)という。英国王室などのシオニストはこの末裔を極端に嫌う。一例を挙げればダイアナ妃の恋人だったドッティはイシュマエルの血統。その掟を破ったダイアナ妃はイルミナティによって抹殺されたのが本当なのでしょう。アブラハムとサラの末裔の血統図を見るとエフライムがイスラエルの正統派になっている。
日本の京都御所にもありますよ(あった)....一角獣と獅子が
それによると...........
『「彼(ヨセフ)の雄牛の初子はヨセフの誉れ、その角は野牛の角、両の角をもって彼は諸々の民を突き倒し、地の果てにまで及ぶ。」(申命記33章七節)
「ユダは若獅子。獲物を捕えて、わが子よ、お前は上った。雄獅子のように、身をかがめ、雄獅子のように、待ち伏せた。誰が彼を掻き立たせるのか。王笏はユダから、王杖はその足もとから離れない。」(創世記四八章九~一〇節)
なお、エフライム族はヨセフから別れた部族で、同じ紋章・シンボルが使用されます。また、申命記には「野牛」と書かれていて「ユニコーン」とはありませんが、そのことについて久保有政氏はその著書「[超図説]日本固有文明の謎はユダヤで解ける」(徳間書店)の中で次のように解説されています。
この「野牛」が、のちにヘブル語聖書の古代ギリシャ語訳=『七〇人訳聖書』において、「一角獣」すなわちユニコーンと訳された。
『七〇人訳聖書』は前三世紀~前一世紀頃成立し、古代ユダヤ人が使っていたものである。だが、それ以前からもユダヤ人の間では、「ヨセフのシンボルはユニコーン」と理解されていたらしい。のちにローマ・カトリック協会のラテン語訳聖書(ウルガタ。西暦四〇五年頃成立)でも、この「ユニコーン」が継承され、ヨーロッパに広まった。ユニコーンはヨーロッパなどでは白い馬のように描かれたこともある。また様々な想像が加えられて、特殊な容貌を持つものともされている』
一角獣はヨシュアのシンボル 獅子はユダのシンボル
関連記事
http://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/200611080000/
まとめて見ると.....
マー君とスー君はいう......
神道のコラムは興味深いなあ~,と。
http://www.geocities.jp/shimaguni_konjyo/backnumber.html
マー君とスー君は続けていう.....
漢波羅とはカバラのことだと。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/664.html
笑いに変えるのさ,苦悩と涙を
4分9秒....................
These Puppet are told what to do.Very rare do they talk about selling their souls to Satan,and talking about the Illuminati would get them killed. If asked about either,they deny it or avoid talking about it.
これら人形たちは何をするのかを言われている。非常に稀にだが魂を悪魔に売ることやイルミナティを語る時,彼らの命は奪われる。いずれにしてもその二つのうちの一つを尋ねられたら無視するか否定することだ。
日々の雑感 167:
『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(後編)
日々の雑感 164:『トーラーの名において』から(前編)
日々の雑感 166:『トーラーの名において』から(中編)
2010年5月22日(土)
『トーラーの名において』
──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)
シオニズムと反ユダヤ主義との関係についても、私がイスラエル人たちへのインタビューの中で直接聞き、またメディア報道の中で断片的に語られ、私の中で漠然と感じとってきたことを、ラブキン氏は明確に文字化してみせている。
「ディアスポラの地に住む多くのユダヤ人は、みずからのユダヤ人としての主たる役目はイスラエル国を擁護することであると考え(「その立ち振る舞いの正邪にかかわらず、イスラエルこそ、われらが祖国」)、この点についてはいかなる反論も受けつけようとはしない。その情緒の高ぶりを示す一例として、たとえばカナダの有名なラビが、ある時、イスラエルの政策によってディアスポラのユダヤ人を危険にさらしていないかと問いかける一文を書いたユダヤ教徒を『ユダヤの民の最大の敵』と評したことがある。(中略)あるハレーディのラビが透徹した皮肉とともに指摘したように、今日、人はみずからの宗教に対する批判は甘受できるが、みずからの偶像崇拝への批判はどうしても我慢ならなくなっている。つまり多くのユダヤ人たちの価値体系においてイスラエル国が神に取って代わっており、その点では一部のラビたちも例外ではないということだ。事実、多くの宗教=民族派(ダーティ・レウミ)のユダヤ教徒のもとで、『特定の社会=政治構造を絶対の領域に移行させ、そこに超越的な価値を付与し、その社会=政治的構造を神聖化することをもって宗教信仰の役割とみなす』傾向が顕著になっているからだ」
「シオニズムとは、ユダヤ史における断絶であり、ユダヤ人の集団意識における不連続点であり、ユダヤ教に対する公然たる挑戦である」
「イスラエル支持の姿勢が新しいユダヤ・アイデンティティーの核になる時、イスラエルに対するほんのわずかな疑義の提示さえ不可能となるのだ」
「ショアーに関する西洋の罪悪感が、いつの日か、ツァハル(イスラエル国防軍)の軍事行動に対する批判意識と釣り合ってしまうであろう瞬間、今度はイスラエルに起因する暴力によって呼び覚まされた諸国民の怒りが全ユダヤ人(教徒)の頭上で猛り狂うことになるのではないか」
「(シオニストたちも、手遅れにならないうちに国家を解体すべきであると主張するユダヤ教・反シオニストたちは、)1つの共通見解を分かち合っている。つまり、両者とも、この中東の一廓がシオニスト国家の存在をその懐に受け入れることは断じてあるまいと感じている。そればかりか、両者とも、今、〈イスラエルの地〉において、ユダヤ人が集団的殺戮の脅威に直面していることを認める点ではまったく見解を一にしているのだ。違いはただ、シオニストたちがこの殺戮を阻止するのは国家であると考えているのに対し、その敵対者たちの方では、ほかならぬ、その国家こそが、殺戮の脅威の紛うことなき責任主体であると見ている点だ」
「皮肉なことに、ユダヤ人を反ユダヤ主義とゲットーのような生活から解放し、彼らに安らぎの地を提供するために創られたはずのイスラエルが、まさに軍の駐屯地のような国家となり、敵意に満ちた隣人たちに包囲される地上の巨大なゲットーにも似た国になってしまった〔…〕数々の不吉な予感は〔…〕今なおシオニストたちの脳裏にまとわりついて離れない」
以上、ラブキン氏の『トーラーの名において』の中から、私が感銘を受けた文章を拾ってみた。
前述したように、“ショアー(ホロコースト)を“免罪符”にして、パレスチナ人に対する抑圧と迫害を正当化するイスラエルのシオニストたちへの筆舌しがたい疑問と怒りを抱いている者たちに、明確な1つの答えを活字化して提示してくれる本書は、溜飲が下がるような爽快感を与えてくれる。しかも、著者が敬虔なユダヤ教徒であるがゆえに、「反ユダヤ主義者」の根拠のない誹謗中傷とは違い、実に説得力がある。
ただ、同じユダヤ人の見解だとしても、そして「世界でベストセラー」になったほどの著書とは言え、果たして、当事者のイスラエル国民(大半はシオニストといえる)にどれほどの説得力を持ち得るだろうか。そして当のイスラエル人に、パレスチナ人に対する対応を一考させるだけの力が果たしてあるのだろうか。ショアーさえ「ユダヤ教徒を改悛に導くために用いられる残酷な手段」とし、ヒトラーのような加害者も「神の懲罰の代行者」とする見解には、イスラエル人に限らず、世界中のほとんど非宗教的ユダヤ人の間に、激しい反発と怒り、憎悪を掻き立てるに違いない。そして「イスラエルの“敵”への利敵行為」「ユダヤ人同胞への“裏切り者”」といった罵言を浴びせられるか、完全に無視されるのではないかと懸念する。
ラブキン氏の「ショアー対するシオニストたちの反応」に関する記述を読みながら、私は「ヒロシマと日本人」のことを思い起こしていた。
今年1月、私は『中国新聞』の連載「緑地帯」で、次のような一文を書いた。
あのガザ攻撃を約90%のユダヤ系イスラエル市民が支持した。彼らは「イスラエル南部は長年、ガザからのロケット弾攻撃にさらされながら耐えてきた。もう我慢の限界だ。ガザ住民は今、その報復を受けているんだ」と攻撃を正当化する。だが、彼らに全く見えていないことがある。「パレスチナ側のテロとイスラエル側の報復」「暴力の応酬と悪循環」という“現象”ではなく、パレスチナ側を攻撃に駆り立ててしまう“占領”というパレスチナ・イスラエル問題の“構造”だ。自分たちが“占領”によってパレスチナ人を踏みつけ続けている現実に、大多数のイスラエル市民は目を背け続けているのである
なぜイスラエル人には加害の認識がないのだろうか。「国民は事実を知ってはいるが、“痛み”を感じないのだ」と言うのはホロコースト生存者を父に持つ、エルサレム市議会議員メイル・マーガリット氏だ。“痛み”を感じさせない“心の鎧(よろい)”が「ホロコースト・メンタリティー」だと氏は指摘する。「自分たちユダヤ人は史上最悪の残虐を受けてきた最大の犠牲者なのだという意識が、自分たちが他者に与える苦しみへの『良心の呵責(かしゃく)』を麻痺(まひ)させている」というのだ。私自身、現場で「2度とホロコーストを体験しないために、少々の犠牲は仕方ない」と、パレスチナ人への加害を正当化するイスラエル人の声を何度も聞いた。
真の被害者たちを置き去りして、「自国民が受けた被害は特別で、他の被害とは比較にならない」と主張し、自国の被害を加害の現実と歴史の“隠れみの”にする例は、何もイスラエルに限ったことではない。“ヒロシマ”もまた、日本の加害歴史を否定する勢力によって“隠れみの”として利用されてきた一面があると指摘する声は、日本の侵略で何千万人ともいわれる犠牲を強いられたアジアの人たちの中に少なからずある。また、日本の平和主義が「被害者としての自覚に支えられた」(政治学者・藤原帰一氏)という指摘もある。つまり加害の視点が加わると、その「平和主義」の基盤が揺らぐのだ。“ヒロシマ”の弱点も、まさにそこにあるような気がする。
(『中国新聞』コラム「緑地帯」より)
もちろん「ホロコースト」と「ヒロシマ」は同じではない。歴史的な時代背景も、問題の起源も、さらに問題が続く長さもまったく異なる。
大きな違いの1つが、前者が「『ポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害)』や『ホロコースト』に象徴される“被害”の後にパレスチナ人に対する“加害”が起こり、後者ではアジアへの侵略・略奪・殺戮という“加害”の後に、原爆投下という“被害”を被ったことだ。つまり前者では、その“加害”の後ろめたさを打ち消す“免罪符”として、その以前に起こった“被害”を持ち出すことが容易であったが、後者では“加害”を正当化する根拠がほとんどなく、無理に持ち出そうとすれば、せいぜい「欧米諸国による“経済封鎖”の包囲網のなか、アジア進出は日本が生き延びる唯一の道だった」「欧米諸国による植民地化からアジアを解放し大東亜共栄圏を創るためだった」というこじつけの「大義名分」ぐらいで、他国とりわけアジア諸国にはほとんど説得力がない。
ただ“被害”と“加害”の順序は逆であっても、“加害”への非難をかわすために、また自らの“加害”に目を背け後ろめたさを感じないための“免罪符”として“被害”が利用されることがあるという点では類似している。
2010年5月21日(金)
『トーラーの名において』
──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)
ユダヤ人であるラブキン氏の主張のなかで、他のユダヤ人にとってだけではなく、私たち非ユダヤ人にとって最も衝撃なのは、“ショアー(ホロコースト)”に対する見解である。もしこのような見解を私たち非ユダヤ人が口にしたら、「反ユダヤ主義者」として世界中から大非難を免れ得ないにちがいない。
氏は、“ショアー”は「災厄とはユダヤ教徒をしてみずからの行いの検証、そして個人ないし集団としての改悛にむかわせるもの」であり、「ユダヤ教徒を改悛に導くために用いられる残酷な手段」とし、ヒトラーのような加害者も「神の懲罰の代行者」というのである。
「(ラビ・)ヴァセルマンは、ショアーが(中略)、シオニストたちによって鼓舞され、実行されてきたトーラーの廃棄に対する懲罰であると信じて疑わない。この論理に従うならば、シオニズムの企画がこのまま継続される限り、ユダヤの民は、シオニズムに内包された個々の侵攻侵犯行に対し、人の命の形で高い代償を払わされ続けることになるのだ」
「ユダヤ人が、かつて神が彼らの祖先とのあいだに交わした契約を完全に忘れ、地上のほかの民と同じように暮らしたいなどと思い始めた時には、まさに今日、われわれの眼の前で繰り広げられているように、野獣のような反ユダヤ主義者らの群れが恐るべき力と猛々しさをもってユダヤ人を叩きのめすことになるのだ」
またラブキン氏はラビ、アムラム・ブロイの次のような「ショアー解釈」を紹介している。
「もしもシオニズムの罪がなかったら、ヨーロッパの惨劇は起こらなかったであろう」
「シオニズムの信奉者たちのあいだに広く根づいている仮想、すなわち、もしもイスラエル国が1930年代に建国を成し遂げていたならば、そこにより多くのヨーロッパ・ユダヤ人を吸収することができていたにちがいないという見方には断固異議を唱える」
「それは完全なる異端思想である。繰り返しいうが、ショアーは、シオニストたちの罪に対する報いとして起きたのだ。彼らは、ユダヤ国家なるものの建設に向かうことを諌める神の命としてタルムードに記された、あの3つの誓いを破り、それによって、ユダヤ人の体がナチどもの使う石鹸に変えられてしまうような大災厄を引き起こしたのである。無信仰の人々の目には問いとして映ることも、われわれにとっては答えそのものなのである」
ラブキン氏はさらに、シオニストたちのショアーそのものへの責任へと論を進める。
「ラビ、ヨセフ・ツェヴィ・ドゥシンスキー(1868-1948年)は、1947年、国連パレスティナ特別委員会に宛てた文書のなかで、シオニズムこそ、アラブ人たちとのあいだで暴力や諍いを引き起こし、それによって、1930年代の終り頃、パレスティナへのユダヤ移民を制限する方向にイギリス政府を動かしてしまった張本人であると述べている。つまりショアーの犠牲者、数百万人の命を救う道を閉ざしてしまったのはシオニズムであるということだ」
「現実に起きてしまったショアーも、ユダヤ国家の取得に向けてシオニズム指導者たちの政治的意志をさらに強固なものとする役割しか果たさなかった。そして、その実現に向けて彼らが手にした議論は、たしかにたぐい稀なる説得力を宿したものであった」
「ナチズム台頭の直後、シオニストたちは、ベルリン政府に対し、6万人のドイツ・ユダヤ人をその私財もろともパレスティナに移動させる計画を持ちかけ、合意をとりつけた」
「ドイツに派遣されたシオニストの代表団は、ナチス当局、とりわけ、当時、ユダヤ人の国外移住問題を担当していたアードルフ・アイヒマンとのあいだで実に円滑な協調体制を築くことができたのだった」
「あるシオニズム指導者は、ヨーロッパ・ユダヤ人に支援の手を差し伸べようとの呼びかけに対し、『ポーランドのユダヤ人を全部ひっくるめたよりも、パレスティナにいる1頭の牝牛の方がよほど価値がある』と答えたという。また別のシオニズム指導者は、第二次世界大戦後に国家を要求することの重要性を強調して、次のように述べたという。『われわれの側でかなりの犠牲者を出さなければ、国家を要求する権利などまったく認めてもらえないだろう。〔…〕よって、敵に資金まで出して、われわれの側の流血を押しとどめようとすることはまったくもって馬鹿げた行いなのだ。われわれは、もっぱら血によって国家を手にすることになるのだから』」
「(『ユダヤ機関』の代表、ルードルフ・カストナー(1906-57年)は、)起訴状によれば、ナチスが数千人の若いユダヤ人にパレスティナ移住の許可を与えさえすれば、それを餌として収容所内のユダヤ人たちを落ち着かせることができると呼びかけ、結局、ナチスの収容所運営に手を貸していたというのだ」
「20世紀、老若男女合わせて600万人のユダヤ人が、国家の創設者、指導者らの手により、その国家設立の交換条件として犠牲に供された。果たして正常な感性を備えた人間として、かくもおぞましい行為を思いつくものがいるだろうか?」
「ベン=グリオンは、『救出作戦のための技術と資金を備えた大規模な公的組織を創設することや、こうした救出作戦のためにシオニスト組織をつうじて集められた資金を使うことには反対の姿勢を示した。彼はまた、アメリカ・ユダヤ人を動かして、こうした使途の義援金を集めさせることにも消極的だった』」
「シオニズム運動全体に対しても、それがショアーをつうじて目的どおりの効果が得られそうな場合を除いてヨーロッパ・ユダヤ人の運命からは目を逸らし、そして、みずからの政治綱領にそぐわない救出作戦はことごとく妨害していたのではないか、という批判がさし向けられている。シオニズム指導者たちは、『ヨーロッパ・ユダヤ移民にパレスティナに向けての出立を余儀なくさせるため、地球上のそれ以外の場所に彼らを導こうとする計画に横槍を入れた』というのだ」
「シオニズム運動がショアーについて負っている歴史的責任について、ハレーディ系、改革派を問わずラビたちが述べ続けてきた糾弾の言葉は、今日、イスラエルの一部の歴史家たちによっても裏づけられてようになっている。それぞれが異なる言葉遣いを見せてながらも、歴史家たちは、ベン=グリオンとその同志たちがヨーロッパのユダヤ人居住地を絶滅から救うための努力を妨害したという点において、すでに見解の一致を見ているのだ」
ディアスポラ(離散)の地のユダヤ人を『私物化』しようとする傾向。
「イスラエルの歴代政府は、どの党が政権を担当するかによらず、あらゆるユダヤ移民の流れをイスラエルへ向かわせようとして、事実上、ロシアのユダヤ人がアメリカやドイツへ、アルゼンチンのユダヤ人がアメリカへ、マグリブのユダヤ人がフランスへ向かうことを阻止しようとしてきた。ディアスポラのユダヤ人をあたかも自国の資産でもあるかのように扱い、国家事由を個人の自由の上位に位置づける習慣は、シオニズムのみならず、20世紀に勃興したいくつかの革命的政治体制に備わる主意主義的な本性を図らずも露呈するものといえよう」
「シオニストたちがショアーから導き出す教訓は明快そのものである。つまり、いかなる犠牲を払ってでも国家を手に入れ、それを強靭なものにし、そして、アラブ側からのあらゆる異議申し立てを退けつつ、そこに可能な限り多数のユダヤ人を流入させなければならないというものだ」
「イスラエル国の存在はショアーに対する償いの意味を持つのだという意識を、イスラエル人にも、またディアスポラの地のユダヤ人の若者たちにもうえつけるため、シオニストの教育者たちはさまざまな手法を用いる。なかでももっとも効果的なのは、1988年に始まった『生の行進(ミツアド・ハ=ハイーム)』であろう。この行進に参加するユダヤ人の若者たちは、まずポーランドを訪ねてアウシュヴィッツ絶滅収容所をはじめとするショアーの歴史的跡地を見学し、それからイスラエルへ行き、独立記念日を祝う。ここから発せられるメッセージはきわめて強力だ。つまり、死の後に生があり、アウシュヴィッツのバラックの後に、青と白の国旗が飾られ、独立記念日を祝うイスラエルの町々があるというのだ」
「かくてショアーは、イスラエル国の存在理由にかなり強い説得力を付与するばかりでなく、イスラエル国への具体的支援の梃入れを促す契機にもなっている」
ショアーのイデオロギー的かつ政治的利用が習慣化し、日常茶飯事となっているという事実。
「(『ホロコーストは過ぎ去った』の著者アヴラハム・ブルグによれば)イスラエル人がみずからを永遠の憎悪の被害者とみなしており、中東を舞台として内続く紛争の一方の当事者であるという認識がきわめて稀薄であるという」
「イスラエル・ユダヤ人の意識は、被害者意識、強迫観念、盲目的愛国心、好戦性、独善、そしてパレスティナ人の非人間化と彼らの苦しみに対する無関心によって特徴づけられる」
「イスラエル政治に対する批判に、ナチスによるジェノサイドの記憶さえ動員されるようになった。2008年-2009年、ガザ地区への攻撃が多くの国々のユダヤ人からも激しい抗議にさらされた時、あるフランスのユダヤ人がイスラエル首相宛てに1通の公開状を書き、かつてナチスに殺害されたみずからの祖父の名を、以後、『ヤド・ヴァ=シェム』記念館から抹消して欲しいと要求したのである」
「首相閣下、あなたの手でその命運が左右されるこの国家は、ユダヤ人の全てを代表するのみならず、ナチズムの犠牲になったすべての人々の記憶をも代表するとの自負を表明しています。しかし、それこそが、まさに私の懸念の種であり、どうしても耐えがたい点なのです。ユダヤ国家の中心に位置する『ヤド・ヴァ=シェム』記念館に私の親族の名を保存しながら、あなたの国家は、シオニズムという鉄条網のなかに私の家族の記憶を幽閉してしまっています。そして、日々、まさに正義に対する挑戦としかいいようのないおぞましい行為を、いわば道義的に正当化するために、人質としてその記憶を利用しているのです」(イスラエル人作家、アモス・オズ)」
「われわれは苦難を体験したことによっていわば免責証、つまり道義上の白紙委任状を与えられたも同然なのだ。けがらわしい非ユダヤ人どもがわれわれにしたい放題のことをしたのだから、だれからも道徳について説教されるいわれはない。なにしろこちらは白紙委任状を手にしている。それもわれわれ被害者としてあまりにも辛い体験をしてきたからだ。かつて被害者であり、いつも被害者だった。被害者であり続けたがゆえに、当然、動議のらち外に置かれてしかるべきだ、という含意である」
ショアーの記憶の政治利用。
「ショアーの象徴主義が、とりわけ民族主義系の活動家たちによって最大限に活用されている」
「ユダヤ教の立場からシオニズムを批判してきた人々は、ショアー、そしてとくにワルシャワ・ゲットーにまつわる公式記念行事が、かえって出来事の真相を歪め、ユダヤ教にはまったく無縁のモラルを打ち広めようとしているとして非難する」
アシュケナジーとスファラディー
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode27.html
『7世紀にイスラム教徒の侵略を受けたパレスチナに残ったアブラハムの子孫の民の血統のユダヤ人は、イスラム教に改宗した。現在のイスラム教徒のパレスチナ人こそ、血統のユダヤ人であることがわかっている』
『エルサレムのどこを掘ってもダビデ、ソロモン王の遺跡が見つからないとなると、「聖書アラビア起源説」が信憑性をおびてくる。アラビア半島のアシール地方が古代ヘブライ王国の故地であるとするならば、パレスティナ人自体も、血統のユダヤ人ではなく、改宗ユダヤ人の可能性がでてくる。 (「ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたか」シュロモー・サンドによる)』