https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/9711ca9e9acacdcd0c0e881dbd55126d
関連記事:意識の変転状態
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/bd57d580415e7f62efedc37c28e85985
上の記事についたコメントから
2015年7月13日月曜日
神々しい宇宙的な人間
http://www.armageddonconspiracy.co.uk/The-Celestial-Human(1897059).htm
神々しい宇宙的な人間
宇宙は人でしょうか。フィジカルな身体(r > 0で表される次元性を持った宇宙の側面)を持っているのでしょうか。そして心(r = 0で表される次元性のない宇宙の側面)を持っているのでしょうか。身体とこころを持っている人間が「マイクロコスモス」であるならば、文字通り宇宙規模の身体とこころを持つ「神々しい人間」は <<マクロコスモス>>でしょうか。
「下にあるものは上にあるものと同じようなもの。上にあるものは下にあるものと同じようなもの。ユニティの理解にとってはそういうもの」
これは古代の叡智を表したものです。「エメラルドタブレット」からです。
注:エメラルドタブレットの画像
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88
アメンティの広場
http://ameblo.jp/yamadori0250/entry-11178208845.html
もしかすると、r > 0の物理宇宙は宇宙の頭脳として想像できるかもしれません。月、惑星は個別の脳細胞で太陽系は脳細胞が房状になったもの、銀河は頭脳の主だった構造、という風に。小惑星、隕石、恒星間の屑の類のすべては死に瀕したまた死んだ脳細胞の残留物です。星の光、宇宙線、ビッグバンの背景放射。これらは宇宙の頭脳を駆け巡る電気信号で、宇宙のプラズマボールのようにライトアップするものです。ブラックホールについてはどうか。各銀河はその中心にある超巨大なブラックホールによって体系付けられて制御されています。崩壊した太陽から生まれたその他の何百万というブラックホールは宇宙の中にくまなく散りばめられています。各ブラックホールは - サイズは何であれ - その中心にr = 0のシンギュラリティを有しています。
これらシンギュラリティは次元性のある存在の内側にはありません。空間と時間の中にはいないのです。物理宇宙に開いた穴であり、r > 0の宇宙を r= 0の宇宙にリンクさせ、頭脳をこころにリンクさせているのです。ブラックホールの数と同じぐらいにシンギュラリティが存在する、と信じ込まされることは容易ですが、高レベルの洞察によってこれらさまざまなシンギュラリティは実際は一つで同じものであると、一つの絶対的シンギュラリティが、存在のまさに r = 0という側面が、空間と時間の外側にあるのだ、ということが明らかにされるのです。空間と時間の特徴のどれをも欠いた側面すなわち永遠のワンネスが明らかにされるのです。それは「どこにもあって、どこにもない」のです。ブラックホールのシンギュラリティは出入り口として考えられるでしょう。あるいはr > 0へのポータルとして、物理的な宇宙の頭脳を制御する単一の「普遍的マインド」へのポータルとして考えられるでしょう(r = 0 がr > 0を統率します、ちょうど私たちのこころが身体を統率するのと同様です)。私たちの惑星は宇宙の頭脳の一つのノードです。「普遍的マインド」に喚起されているノードです。生命が地球上で進化したのはランダムな事故だったのか、それとも普遍的マインドによって発生しデザインされたできごとなのでしょうか。
宇宙にハイヤーセルフとロウアーセルフがあると想像してください。私たち同様、宇宙は長くて厳しい旅を続けているのです。グノーシスを求めて。ですが次のことを考慮してください。もしも、遠い昔に、宇宙はグノーシスを獲得することに成功していたのなら?ハイヤーセルフに到達していたら?可能な限りの完全な自己実現を達成していたら?存在が表現できる究極のハイヤーセルフ - 宇宙のアポテオシス - を完了していたら?どうでしょう、それは神についてのしっくりくる定義にはならないでしょうか。それ以上の地点はなく、それ以上へと宇宙が志すようなステージがないことになります。まさに存在の最終到達点です。「絶対的最高潮」であり弁証法の終結点、進化という努力の論理的結論なのです。
だがその最終的最高潮はおそらく未来に存在しているでしょう。私たちはもしかすると弁証法的進歩のカギを握る一部であり、普遍的な完全を現実のものとするであろう存在なのかもしれません。おそらく私たちは神を創り出しているのでしょう。そして私たちは今はおそらく宇宙のロウアーセルフ - デミウルゴス - の囚われの身となっているのでしょう。
私たち - 人類 - は神の御姿に似せて作られたと言われています。彼がマクロコスモスで私たちはミクロコスモス。ですが目下、私たちが鏡で見る姿は恐らくデミウルゴスの反射体でしょう。それでも彼は然るべきルートで弁証法的に超越されてゆくでしょう。
星々を見るとき、私たちは神聖な者の発光する輝く身体を見ているのでしょうか、それとも頭脳でしょうか。r = 0は聖霊(Heilige Geist)でしょうか。ロゴス(ことば)でしょうか。神のマインドでしょうか。そしてr > 0 はCorpus Dei -神の身体 - でしょうか。
私たちの心 - 人間一人一人の心 - は神の「脳細胞」の一つ一つです。神はスーパーマインドです。オーバーマインドです。宇宙の地的存在のすべての心を包括する「絶対意識」です。
個人の知性を結合できるとしたら人類は何が達成できるでしょうか。想像してください。人間の心が集合的な「ヒューマンマインド」に貢献したら何が達成されるでしょうか。想像してください。およそ65億の心を包括している「知性」にどのような問題が抗えるでしょうか。インターネットは意識であると想像してください。いったいどれだけの知識を持ち、使い放題にできるのかを想像できますか。
禁じられていない全ては強制的です。まだ目に見えていない潜在的状態の全てを宇宙が究極的に顕現することが可能であれば、宇宙はそうしようとします。進化の最終地点がいわゆる神であるなら、神は禁じられていないばかりでなく、その出現は強制的です。宇宙は可能な限りの最大限の完全を達成することができ、そうしなければならず、そしてそうするのです。その最高潮が神です。
地球において数十億年前のケミカルスープが潜在的に全てをその途上でいつの日かレオナルドダ・ヴィンチ、アインシュタイン、ニーチェ、ピタゴラス、ヘーゲル、ライプニッツ、シモンマガス、他すべての人類史に輝いている諸々の個人を生み出すことになる可能性を含んでいたのです。そしてまた未来においてはさらに多くの潜在性の顕現が待ち構えています。同様にして宇宙の星屑が発光するスパークの中に、地球が達成したのと同じような潜在性を宇宙規模で含んでいるのです。この地上での人類の進化の旅は宇宙規模の論理的な結論へと連れて行くと、「神性」への旅なのです。これ以上に明らかなことはありません。
私たちは神に成りつつあるのです。
【観念論:R > 0 の否定】
観念論とは、「外部世界」は心の産物であるとする哲学の立場です。つまり、次元性のある宇宙(r > 0)は幻想なのです。観念論の思想家たちによれば物質世界はこころから独立して存在しているのではありません。哲学者バークリーはこの主張の過激派です。物質世界は「神のこころ」にあるイデアとして認識されると論じました。私たち人間のこころは、神の想像により維持されるこの壮大な幻想の中に閉じ込められているのです。神が幻想を中止すれば、物質世界は瞬く間に消えてしまいます。この観点はヒンズー教の名残です。「神」-ブラフマン - が幻想世界(マーヤ)を作り、人間のこころは開明を得てブラフマンと一体化することでそれを克服するというものです。
イマヌエル・カントの"超越論的観念論"は次のような見解を示しています。人間のこころは空間と時間、原因と結果を外界において強要するように形作られている、と。つまり、これらは外界のれっきとした属性ではないということです。こころは見かけの世界 - フェノメナ - を創り出すのですが、それら自体 - 本体 - における事物の世界とはなんら関係はないのです。自身のこころから逃れることができないので、私たちは決して本体世界の正真正銘の知識を得ることができないのです。決して外すことのできない時間/空間と原因/結果のゴーグルをはめているようなものです。何であれ私たちは時間と空間、原因と結果をいつも見続けるでしょう。たとえそれらが事物の本当の性質とはなんら関係がないにしてもです。私たちが持ち得る知識はこころが創り出した現象についての知識であり、決して本体のそれではないのです。
本体世界は空間と時間の外部にあります。つまり、r = 0 に類似しています。ただし、カントにとって本体世界はまったく不可知なのですが、r = 0 はイルミニストにとっては完全に知り得るということを除いて。
カントの理論を根源的に前進させたのがショーペンハウアーです。空間と時間は別々の事物の見え方を創り出すのだが、この意味は空間と時間が存在しない本体の宇宙においては何事も別々ではないのだ、ということです。そのように彼は結論付けました。それぞれの個別の現象に対応し裏付けられている別々の本体を想定したのに対し、ショーペンハウアーは唯一の本体のみが存在し得ると気付きました。それを彼は"意思"と呼びました。その意思は抑えることができず、存在・生存するために永遠に努力するものです。たった一つの意思があるのだが、見かけの世界においてそれは現象世界の無数の事物として自身を顕現するのです。木、水、昆虫、岩、星、空気、人間。これらは全て存在しようとする単一の根本的で普遍的な意思の違う表現でしかないのです。人間は全てこの意思の具体化なのです。私たちの身体は対象化された意思なのです。ショーペンハウアーは言いました:「私の身体と意思は一つである」
ですので、ショーペンハウアーにとっては外部の、「客観的な」、物理的な時空間と因果関係のある世界があり、内なる、主観的な、「心的な」、時間、空間、因果関係の外部にある意思の世界があるのです。見かけの外界は幻想的であり、意思の内なる世界は万物が統一されているところの存在の真なる性質なのです。存在は、究極のむき出しの形式においては純粋な意思なのです。
世界が、本体的な真実に覆いかぶさる見かけの幻想的レベルのある意味通常ではない対になった性質を持たねばならないのは何故かについての説明をバークリー、カント、ショーペンハウアー、ヒンズー教、仏教は何も提供していません(神/世界の意思という説明以外には)(本体的な真実は通常、超越的な統一という観点で捉えられます)。
r > 0の物理宇宙の現実性を観念論は否定します。こころの幻想というレベルに委ねています。観念論はしかし、ファンタジーのように豪華な幻想によって仕えられる目的がどのようなものかを説明します。例えば、過去二・三十年に発見されたばかりの宇宙の奥深いところにある広大な諸銀河があるとすれば、これらを私たちの"以前の"幻想においてなんら役割を果たさなかったその諸銀河(その存在を私たちは何も知らなかった)を加えることによりどんな機能が果たされるのでしょうか。r > 0 の宇宙は現実でありそれについて科学は意味のあるれっきとした知識を与えてくれると結論したほうがはるかにシンプルです。私たちは正真正銘新しい物事を発見しますが以前まで私たちからは隠されていた大いなる幻想の新しい要素ではないのです。
科学的唯物論を信奉している人々は、一方で、観念論者とは反対の立場を取り、宇宙のr = 0 の側面の現実を否定します。
観念論と唯物論は共に決定的なことを見逃している過激な世界観です。真なること、それは r = 0(観念論)もr > 0(唯物論)も両方、正真正銘な現実の側面なのだということです。つまり、r >= 0という心的・物理的宇宙の側面なのです。
次元性のない存在を否定するという点で唯物論者は間違いです。そして次元性のある存在を幻想として見なす点で観念論者は間違っています。二つの主だった哲学の伝統を調停するのがイルミニズムです。次元性のある存在と次元性のない存在はともに現実的です。両者は共に幻想ではありません。それらはお互いに弁証法的に働きあい、お互いが互いに影響しあっています。r > 0 は心身にまつわることです。つまり、「身体」は「こころ」に影響されます。そしてr = 0 の宇宙は身体-精神的です。つまり、「こころ」は「身体」に影響されます。科学がこれまで浸透することができないでいる重要な神秘は、次元性のない宇宙を科学が否定することに起因します。同じように、多くの宗教と哲学(観念論に基づく)が陥っている愚かさは、次元性のある宇宙の否定によって引き起こされています。
次元性と無次元性、時間、空間、因果関係、個別化の原則(多者)が一方にあり、無時間性、無空間性、自由意志と相互接続の原則(統一)をもう片方とする両者の共存以上にシンプルなことはあり得るでしょうか。科学、哲学、宗教の問題は全てr > = 0 の宇宙では消し去られるのです。
太古より続く自由意志の問題を例にとりましょう。r > 0 の宇宙では、揺るがしようのない科学の諸々の法則や原因と結果によって見かけ上は制御されています。ここには自由意志の入り込む隙はありません。万物は逃れようなく一様に先立つ科学的な原因によって決定されます。ですが、r = 0 という宇宙の側面が導入されれば、科学的な時間、空間、因果関係の外側に存在するので、自由意志をあらかじめ排除してしまう原因のチェーンは崩れ去ります。そうして私たちの自由意志という経験は単なる幻想ではなく、大抵の旺盛な唯物論者が強く主張するのとは違うこととなります。
「死が運命付けられている」死は、時間と空間のr > 0 の領域では限りのある終着です。ですが r = 0 の宇宙、つまり時間と空間が適用されない領域においては、何事も本当の意味で途絶えてしまうことはないのです。万事は、ある意味、不死身なのです。
人間の頭脳はr = 0 の人間のこころのr > 0という表現です。ですのでこれによってこころへの頭脳の関連の神秘は解決されるのです。ですがもし人間のこころが宇宙のr = 0 の側面へのポータルであれば(ブラックホールのシンギュラリティが巨視的なポータルであることの比較として「微視的な」ポータル)、それすなわちこころは絶対的マインドつまり神のこころへのポータルでもあるのです。
人間のおのおののこころが全ての偉大なるこころに知らず知らずにして接続されていたらどうでしょう。想像してください。大抵の人々はそのような繋がりを想像だにしません。神秘主義者や秘教的なアートに精通した人々ぐらいしか神聖なるものへのこのチャネルを利用することを学んでいません。
私たちが寝る時、私たちは(大抵の場合)物理的なr > 0 の感覚をシャットアウトします。そして私たちは夢を見るのです。時間と空間は大幅に歪曲されます:死んだ人が現れることもある、あるいは超越的なビジョンを見ることがある。これはまさにr = 0 宇宙を通じて私たちのこころがいかに「自由に行き来」しているかを想定できることです。
Dream Gnosisと題した私たちの記事の中で「私たち」の夢について引用しました:
「ここはまさに私に起きたことだ。普段それを”神体験”と呼ぶのだが … 私はまず寝た。そして夢を見た。それは、それより先のことやその後のことよりもずっと鮮明に現実感があった。私には身体がなかった。名前も。そして特定のどこかの場所にもいなかった。アイデンティティーの感覚もなかった。一度に私はどこにでも居た。なにか見たいものがあれば、ただそれを思えばよかった。行きたいところがあれば、私はすぐにそこに居た。それはまるで私が全てになったような気持ちだった。なんでもそして全てを感じることができた。風が枝を通り過ぎる時に木がどう感じるかを私は知っていた(それはくすぐったいものだ)。木によって行く手を迂回させられた風がどのように感じるかを私は知っていた。猫のアゴに収まったネズミの気持ちが私にはわかった。女性として性行為をすることがどのようなものか、それも私にはわかった。戦った全ての命の体験を経験することができた。そして彼らの人生が終わった時、彼らの物語を体験した、そして彼らの物語は私の物語の一部となった。なにが起ころうと、万事順調だった。圧倒的とも思えるインプットの全てを私は自在に取り扱うことができた。
(以下略)
関連記事:
対象からの意識の離脱~カール・ユング
目次~http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/alchemy/ptree/gflower1.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/alchemy/ptree/gflower6.html#5
『チベット密教の『死者の書』にみえる教えは、これらの自律的形姿の力によって意識が解体してしまう危険がどんなに大きいか、ということを知らせてくれる。死者は何度も次のように教えこまれるのである。こういう形姿を真実なものと思わないこと、その暗い外観を仏の「法身(ダルマ・カーヤ)」(真理の神的身体)[28]がもつ清浄な白光と混同しないこと、言いかえれば最高の意識のあの一つの光を具象化された個々の形姿に投影することなく、光をそういう自律的な断片的体系の多様性の中へと溶かしこむことである。もしそこに何らの危険もなく、断片的な体系が魂に脅威を与えるほどの自律的で分散する傾向性をもっていないのなら、こんな強い調子の教えは全く必要がないであろう。その教えは、東洋人の簡素で多神教的傾向をもつ気質にとっては、ちょうどキリスト教徒に対して、そうした幻影を唯一の人格神と思いこんだり、三位一体や多くの天使・聖人についてやたらに語ったりしないように、という教えを与えるのと同じような意義をもつものであろう』↓
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/alchemy/ptree/gflower5.html
ユング錬金術目次参照
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/alchemy/ptree/gflower1.html
関連記事:エメラルドタブレット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88
エメラルドタブレットと錬金術
http://search.yahoo.co.jp/search?search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=8&oq=%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89&fr=top_ga1_sa&p=%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88+%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93&rs=3
ハトホルの書とシュタイナー
http://bach-iruka.com/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC/11930/
ヘルメス思想の謎
http://inri.client.jp/hexagon/floorA7F/_floorA7F_alchemy.html
管理人注:
r > 0の物理宇宙の現実性を観念論は否定します
これは井口博士の領域のようです
主人公のロビン・ウイリアムズさんは自分の所有する大豪邸で自殺しているところを発見されました。とても悲しいことです。63歳でした
Hospital Crownで検索すると
https://www.youtube.com/results?search_query=Hospital+Crown
セラピードッグベイリー ベイリーはもう引退していましたが12歳9カ月でお空へ旅立ちました
この子はベイリーじゃなくてアイビーです