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堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その1

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堀川辰吉郎と閑院宮皇統(1)

前月まで数回にわたって論じた「清朝秘宝の運命」の中で、之に関わった堀川辰吉郎が京都皇統に属することを明らかにしたが、以下に辰吉郎の背景たる「京都皇統」について略述する。

清朝秘宝の運命 1~4

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 辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系である。江戸幕末が光格帝に始まるとの論が近来盛んで、慶応大学講師竹田恒泰氏も、先年の講演でその事を強調していた。竹田講師の父は竹田恒和日本オリンピック委員会会長で、伏見宮皇統から出た北白川能仁親王の曾孫に当たる。

 宝歴七(一七一〇)年、直系皇嗣が途絶える場合に備えて、新たに世襲親王家を創立することに幕府の了承が得られ、東山帝の子で中御門帝の同母弟に当たる直仁親王に、霊元上皇から閉院宮号と所領一千石が与えられた。七十年後の安永八(一七七九)年、東山帝の四代孫の後桃園帝が二十二歳で崩御して、ここに皇嗣選定の必要が生まれた。皇嗣の候補は世襲親王家に求める外なく、伏見宮貞敬(一七七六年生)と二代目閑院宮の第一皇子美仁(一七五八年生)、及びその弟の祐宮師仁(一七七一年生)の三親王に絞られたが、生まれたばかりの先帝の遺児欣子内親王の女婿となるには独身が条件で、まず美仁親王が除かれた。残る二人の内、後桜町上皇(百十七代桜町女帝)と前関白近衛内前は貞敬親王を推したが、十日に亘る議論の末、関白九条尚実の推す師仁親王が先帝の七親等で現皇統と血統が最も近いことから、先帝の猶子となって皇統を継ぎ、光格帝となった(在位安永八【一七七九】年~文化十四【一八一七】年)。

 光格帝は、男系血統を遡れば後崇光院太上天皇(伏見宮貞成親王)に行きつく北朝直系であるが、世襲親王家の閑院宮から出たことを以て「光格王朝」の始祖と視るべきものであろう。また閑院宮二代の典仁親王が、光格天皇の父として明治以後慶光天皇と呼ばれることから、直仁親王→慶光→光格→仁孝→孝明と続く直系を、「閑院宮皇統」と称しても、差し支えはないと思う。

 光格帝の事績については巷間史書の記載も多く、また『ニューリーダー』十二月号(*後日紹介)にも詳述したからここには省くが、何を以て幕末の嚆矢とするかが問題で、それを京都学習院の開設と考えるのが一つの観方である。光格帝が設立を企てた学習院は、光格帝崩御二年後の天保十三(一八四二)年に、仁孝帝が幕府の承認を得て開設に漕ぎつけ、当初は幕府を意識して、「学習所」「習学所」など名称も一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜した以後は学習院を公称とし、明治期に東京に設立された華族子弟のための学習院と区別するため、今は「京都学習院」と呼ばれている。

 公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、さらに翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となったのは、公家側の情報蒐集の名目の下に、以前から尊皇諸藩の下級武士の登院を許していたからである。安政六(一八五九)年十月、安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、門人・入江九一に、「学習院をして『四民共学の天朝の学校』たらしむべし」との遺志を託した。平和ボケの今日、その政治哲学だけが強調されている松陰の本質は軍学者で、その松下村塾は政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であった。松陰は、学習院の本質を洞察して右の遺言を託したのである。

 職能集団の公家の中で武事を家職とする羽林家では、中山大納言のごとく、幕府対策上表面は文弱を見せながら、秘かに武略を研究していたフシがある。当時の学習院には、公家方が軍事的実践を家職とする公家侍と尊王諸藩の下級武士を集めて、秘かに尊皇思想と軍事学を習得させる目的があったのかと思う。尊皇各藩も之に応じ、「学習院御用掛」あるいは「学習院出仕」と呼ぶ要員を学習院に派遣し、主なものに長州藩の桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作、福岡藩の平野国臣、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の土方楠左衛門らがいた。かくて学習院は、尊王攘夷の急進派が、広く公家と諸藩志士を糾合して日々国事を論じ、倒幕の陰謀を巡らす場となった。

 ところが、文久三年に「八月十八日の政変」が起こり、公家の公武合体派が三条実美ら尊攘派を処分するとともに、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、陳情建白の受理も停止した。以後の学習院は、本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが、同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 こうして観れば、松陰の遺言に徴するまでもなく、学習院が公家の子弟に対する軍事教育を隠れた目的とするのは明らかであり、その設立を決心された光格天皇は、胸中それを秘められていたものであろう。蓋し、事を興すにはまず人材の養成から始めねばならず、光格帝の学習院設立計画を以て江戸幕末の嚆矢とする所以である。仁孝帝に皇位を譲った後も上皇として御所に君臨した光格帝は、天保十一(一八四〇)年に崩御されたが、次の仁孝帝も六年後に崩御、弘化三(一八四六)年に十五歳で即位された孝明帝の、慶応二(一八六六)年末の突然の崩御を以て、光格王朝は終わった。

 ここからが、私(落合)が仄聞した学校歴史にない★秘史である。何時の頃からか詳らかでないが、この国の支配層の間では、開国に向けての工程とそれに伴う次代の政体の探究が始まり、その実行のために皇統の入れ替えを図った。皇統の変改はこの上もない重大事であるから、関係者は極く少数で、同期する関係者たちの第一世代が、光格天皇(一七七九~一八四〇)・関白鷹司政煕(一七六一~一八四一)・将軍徳川家斉(一七七三~一八四一)・薩摩藩主島津重豪(一七四五~一八三三)らである。鷹司政煕は光格帝の叔父に当たるから、禁裏側は親族がペアを組んだものである。幕藩側は、家斉の叔母・一橋保姫が重豪の正室で、家斉の正室が重豪の娘という間柄で、これも縁戚のペアである。巷説では、家斉側に頼まれた重豪が将軍・家治の世子家基を暗殺して家斉の将軍就任を導いたというほど親密度の高い仲であった。

 関係者の二世代目は、孝明帝(一八三一~一八六六)・関白鷹司政通(一七八九~一八六八)将軍家茂(一七四六~一八六六)・福岡藩主黒田長溥(一八一一~一八八七)である。孝明帝は光格帝の孫で、関白政通は政煕の子だから、二人は又従兄弟のペアである。また将軍家茂は家斉の孫、黒田長煕は重豪の実子であるから、幕藩側もペアである。この中で、孝明帝の妹で家茂の正室になった和宮親子内親王(一八四六~一八七七)が触媒の役割得を果たす。

 右の二世代にわたる関係者が、皇統の変改を核とする幕末維新の仕上げをしたと仄聞するのだが、詳細を語るほどの情報をまだ得ていない。ともかく公認史実と異なる事実は、

①孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。
②孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ。
③和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。
④家茂も慶応二年には薨去していない。

  以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。

 そこで、第一世代の動向を観ると、天明七(一七八七)年、庶民「天明の飢饉」の苦難からの救済を求めて天皇に訴える「御所千度参り」が発生した。参拝者が一日七万人に達した時、十六歳の光格帝は、新任関白の鷹司輔平を通じて武家伝奏に命じ、京都所司代に対して窮民救済に関する申し入れさせたところ、すでに五百石の救恤米を決定していた幕府は、新たに千石を追加して朝廷に報告した。皇室権威の復元を目指して朝廷儀式を復旧した光格帝は、文化十(一八一三)年には石清水臨時祭を、翌年には賀茂臨時祭を復活した。この間、幕藩側では、将軍家斉と島津重豪の間で何かを談合し、協定が結ばれたらしいが、内容は未詳である。

 第二世代は、一八五〇年代から六〇年代にかけて、幕府側か皇室の伝統的権威と幕府を結びつけて、江戸幕府体制の再構築を図る公武合体政策を建てた。幕府権力の再強化や雄藩の政権への参加を目的としたもので、皇妹和宮の将軍家茂への降嫁が文久二(一八六二)年に決定、翌年に婚儀が行われた。之に先立つ万延元(一八六〇))年、新見正興を正使、小栗忠順を監察とする遣米使節がポーハタン号で米国に派遣されたが、使節団の米国訪問中の三月三日、大老・井伊掃部頭が水戸・薩摩の浪士に暗殺された。

注:小栗忠順の斬首は嘘だった

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

 直ちに寺社奉行・町奉行・勘定奉行に大目付・御目付を加えた江戸幕府の最高裁たる「五手掛り」が聞かれたが、書記に当たった評定所留役・小俣景徳が、後に帝国大学史談会で次のように証言した。被告たちは「攘夷鎖港のことで幕府の処置が宜しくないと謂うことを第一にして、掃部頭に私曲があった事を申した・・・あの時分に金の格が大層違ってきた、それは掃部頭が改鋳の触れの出る事を知っていて、金貨の買い占めをさせて儲けたことがあるというのであります」。「それは事実あったことでありますか?」。「あったようでございます」。

 当時の金銀比価は、国際相場の十五・三対一に対し日本国内は四・六対一で、米ドルが三・三倍に評価されるドル高両安のために大量の金貨が日本から流出し、之に対処するため小判の改鋳による金量の低減が計画された。日米修好通商条約の通貨条項を改訂するために渡米する小栗忠順は、渡米前に配下・三野村利八に命じて天保小判を買い占めさせた。三野村の大儲けは当時から評判であったが、水戸浪士たちは井伊大老が小栗に命じたものである事を知っていたのである。「五手掛り」は事実を認定したが、「それを吟味すると、上(カミ)にまで及びますので、それに先方もそれは枝葉で、飽くまでも攘夷と条約締結が表向きになっておりますので」として、このインサイダー取引を井伊掃部頭が幕府利益のためにしたものと判断した。

 鳥羽伏見の戦いの後、江戸城における評定で新政府軍に対する交戦継続を主張して罷免された小栗は、三野村に米国亡命を勧められたが応じず、勘定奉行を辞任して領地の下野国・権田村に隠遁した。慶応四(一八六八)年、無血開城の江戸城に入った官軍は、例のインサイダー取引による莫大な利益を知っていたから、城内の金蔵が空なのは小栗が隠匿したと判断し、小栗が大量の荷駄を赤城山に運びこむのも目撃されていたから、直ちに派兵して小栗を捕え、厳しく吟味するが結局解明できず、小栗ら三人を斬首した。真相は、この利益金は秘かに京都西本願寺に運ばれ、孝明帝に献金されて公武合体基金となったと聞くが、無論大老井伊直弼の発意であろう。幕末開国に向けた工作も既に最終段階に達していたから、この孝明基金は王政復古ではなく、明治以後の国事に充てられることとなった。

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堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

 鉄砲伝来の折、種ヶ島に在住していた美濃国関の刀工・八板金兵衛は鉄砲製作の秘訣を探るためにポルトガル人に娘を与えたが、対岸大隅国の日置伊集院の刀鍛冶集落にもやがて混血児が生まれて鉄砲鍛冶となり鹿児島城下加治町方限に移り、その子孫が薩摩藩士となり、薩英同盟の主役として明治維新を主導する。おそらく絹紡織の分野でも、欧州の先進技術が白糸の輸入港であった摂泉の堺港から丹波綾部を通り、大需要地の京へ入った筈で、日葡の混血種が媒介したのは当然であろう。鉄砲・絹と並んで巨大な影響を与えた工業技術が、粗銅から金銀を取り出す「吹き分け法」である。生野銀山の産銀量が、十六世紀の末に一挙に増大したのが帰化ポルトガル人による事を、作家豊田有恒が発表(*『世界史の中の石見銀山』、祥伝社新書、2010年6月)してからまだ一年も経たないが、生野など一部の銀山は別として、江戸初期の各銅山は粗銅のまま輸出しており、これにより南蛮・紅毛商人の得た利益は莫大なものがあった。寛永十七(一六四〇)年、ポルトガルはスペインから独立し、旧ユダヤ教徒は再び帰るべき郷国を持った。同年、将軍家光がポルトガル船の長崎来航を禁じた目的は、多量の金銀を含む粗銅が際限もなく流出するのを防遏するためで、キリスト教の禁制などは当時既に完全に行われていて、殆どその必要を見なかったことは、寛永十四年の島原事件の後に発令された幕府の法律を点検してみると好く分かる、と白柳は言う。

 因みに、江戸初期、多量の金銀を含む粗銅をそれと知らずに売り渡し、オランダ商人に不当な利益を与えていた住友家が、★「白水」と名乗る外国人(英人ハクスレーとも)から金銀吹分けの法を学んで収益が格段に増加したとの伝承を、私(落合)は住友軽金属の新入社員として教わったが、その後
李氏朝鮮国の記録に「漁労民の白水朗(わが国の海士で彼の地では賤民)が灰吹き法を倭人に教えたので倭国を強大にしてしまい、大いに国益を損なった」との記載があることを知り、このことかと思ったが、さらに紀州粉河の伝説に接した。

 川上から粉が流れてきたために川水が白く染まり、上流に人家があると知った漁師大伴孔子古は、川を遡って老夫婦に遭う。粉河の地名はこれに由来するとされ、別名を「白水」ともいう。この老夫婦が橘姓井口氏で、古代から井口氏の荘園だったこの地に八世紀後半大伴氏が侵入し、以後は大伴氏が武力で支配者となり、在来の井口氏が経済面を担当した。孔子古の草創とされて、子孫の児王氏と恩賀氏が代々支配してきた粉河寺であるが、寺紋の「菱井桁」に井口氏との深い関係が顕れている。「菱井桁」は★住友家(屋号「泉屋」すなわち「白水」)の商標でもある(住友の家紋は「抱き茗荷」)。

 粉河鍛冶は銅器の製造で知られるが、家紋といいまた「白水」の伝説と言い、住友家の淵源が粉河に在った可能性は大きい。因みに、住友家は、ポルトガル領マカオの要塞砲を鋳造したが、いつの頃か血統にオランダ人が入ったと仄聞するが、だとすれば、「蘭人が住友家に托卵して混血種を生ませ、これに灰吹き法を教えた」のが或いは事の真相かも知れぬ。

 白柳は続けていう。「されば、翌年に貿易統制の制度すなわち長崎商館制度が完成すると間もなく、幕府はキリスト教に関係のない洋書すなわち科学書の繙読を許可し、以後は西
欧の新学説やこれに基づく新発明の機械器具が数年遅れで輸入されたから、同時に流入した西欧の科学思想に刺激されて、日本独特の科学思想にも相当なものが生まれた。幕末に至り、維新の改革が迫った時には、古神道学者や復古主義者達は全部進歩主義者であった」。すなわち、維新開国の思想基盤は、朱子学に毒されていない古来の儒学(古学)と、惟神の古神道及び、西欧チュートン系の科学思想の三本立ての教学であった。之に対して、終始日本社会の進歩を妨げていたものは、悉く仏教徒と宋学者であった、と白柳は断言するのである。

 堀川戦略の骨子は、国家経綸の一部を秘かに京都皇統に分担させることであった。すなわち、堀川辰吉郎が東京皇室に代わって特に皇室外交と国際金融の分野を執り行いこれを輔翼したものが杉山茂丸が実質社主の玄洋社であったが、詳しくは次号以下に。

閑院宮皇統から出た光格帝の血筋が、維新後京都の堀川御所に潜んで成した子孫を仮に京都皇統と呼ぶが、その一人が堀川辰吉郎である。井上馨の兄重倉の戸籍に入ったため明治二十四年生まれとされている辰吉郎の実際の生年は明治十三年らしい。辰吉郎七歳の時、同じく孝明帝の孫でいとこに当る松下トヨノが堀川御所で生まれ、これを機に辰吉郎は福岡の玄洋社に預けられたと聞くから、戸籍では明治二十四年とされている松下トヨノも、実際の生年は明治二十年ということになる。

 明治天皇東遷の陰で、秘かに堀川御所を造営して孝明帝の子女を匿ったのは如何なる意図に出たものか。禁裏関係筋から、いまだに「聖地は本来富士山を西から見る土地であるべきもの」とか「今の東京城は行在所に過ぎぬ」との言を聞くが、ことほど左様に禁裏側は、維新政府の必要から行われた皇居東遷を心中歓迎していなかったらしい。或いは、皇居東遷が、西南雄藩と倒幕派公卿の連立政府の成立を意味するからであろうか。ともかく堀川戦略は、御所建春門外に在った学習所(京都学習院)が目指した公武合体理念が尊皇倒幕思想に置き換わる新事態に対応するためのもので、孝明帝を中心に公武合体派が、京都に堀川御所を秘かに造営して閑院宮皇統を残す「堀川戦略」を立てたものと思われる。因みに学習所は、光格帝の発案に始まり仁考帝が設置したもので、本来の目的は公武合体のための公武志士の交流の場であったが、維新後に東遷して現在の東京学習院になり、単なる貴族学校に変じた。

 堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた★吉井友実、西郷隆盛、大久保利通の薩摩三傑であることは確かである。就中自らこれに処したのが吉井で、各省の卿を歴任して当然の身ながら進んで宮内省に入り、官歴をほとんど局長級で終始して中々次官にさえ就かなかったのは、姿勢を屈めて明治宮城の護持に専念していたのである。吉井と相携えたのが実質閑院宮の鷹司家から入った★徳大寺実則で、実弟が西園寺公望と住友友純であるから隠然政財界に通じていたが、宮内卿兼侍従長として明治天皇に常侍し、片時も傍らを離れなかった。長州人では、辰吉郎の戸籍上の叔父となった★井上馨で、公武合体資金や玄洋社への炭田払下げなど各所に、堀川戦略に関与したフシが窺える。

注:西園寺公望

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B

西園寺八郎(大正天皇は子種がなかったため昭和天皇は西園寺八郎が父親となる

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AB%E9%83%8E

従って西園寺八郎のお相手は貞明皇后(旧九条節子)

あまり知られていない大正天皇

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 公武合体を理念的基盤とする堀川戦略の財務的基盤は、前月稿で述べた小栗上野介の公武合体資金であるから、当然ながら徳川氏側にも関与者がいた。まず将軍家茂の側近であった★勝海舟で、西郷・大久保ら薩人とも昵懇で、維新後は家定未亡人・天璋院と誼を通じて旧幕臣の要となり、明治海軍増強のための資金供給に携わった。今一人は一橋家旧家臣で、井上馨の後援下に実業界に対する資金供給を担当した「実業王」★渋沢栄一であった。

 幕末開国運動は、結局は尊皇倒幕の形で実行されたが、当初は公武合体の政治理念の実現を目指したものであった。異色の在野史家・社会評論家として知られた白柳秀湖によれば、公武合体的政治理念の淵源は、遠く織田信長・豊臣秀吉が尽力した「皇室を中心とする近代国家日本」の統一運動に端を発し、慶長元和の間に樹立した徳川政権の家康・秀忠・家光三代の貿易統制政策に基づく半郡県的封建国家体制の樹立により、公武合体思想は表面跡形もなくその姿を消し去ったかの如く思われているが、実は決してそうでない。『文芸春秋』昭和十六年十一月号所載の「明治維新の三段展開」で白柳は言う。「公武合体的政治機構の上に近代国家日本が建設されていかねばならぬという理念は、何も幕末、英米仏露の軍艦が迫りくるに及んで初めて唱道された説ではなく、既に六代将軍家宣の時、新井白石が公武合体論を唱えて、来るべき新体制運動の高潮時に備え、徳川政権の補強工作としている。白石がこの説を唱道した動機は、当時漸く勢いを成しつつあった民間の尊皇賤覇論の暴脹に備えようとするにあり、その要旨は、【上に朝廷があり下に公卿及び諸侯があり、幕府は両者の中間に在りて天下の政治を執り行うものであって、決して支那に於けるいはゆる覇者を以て論ずべき性質のものでない】といふにあった。白石の時代はまだ徳川氏の全盛期であったから、この説はただ純然たる学問上の言説に止まり、何ら客観的情勢の之に応ずるものがなかったが、安永・天明と過ぎ、弘化・嘉永以後、尊皇攘夷論の漸く高潮し来るにつれ、実際政策として注意を惹くやうになった」。

 守護大名による封建制に立つ商業的色彩の濃かった室町政権が、終焉を迎えて戦国の世となった時、澎湃として起こったのが「日本列島を統一して皇室を中心とした近代国家」を建設せんとする政治理念で、その推進実行者は織豊政権であった。ところが、関ヶ原の役以後織豊政権に代った徳川政権が政体を一転して半ば郡県的な封建制に戻し、いわゆる鎖国政策を取った。通俗史観はこれを排外主義の顕れと看做すが、白柳によれば、「慶長五(一六〇〇)年、オランダ東インド会社の派遣した蘭船リーフデ号の船員ヤン・ヨーステン及び英人航海士ウイリアム・アダムスに接見した家康が、北西欧に育ちつつあるチュートン系科学文化が南欧ラテン系の宗教文化と全くその本質を異にして居る事実を知った。これより先、家康はラテン系の宗教カトリックが国を毒する弊害に驚き、之を国禁とした秀吉のカトリック排斥政策を、更にそれ以上熱心に承継していたが、リーフデ号の船員を接見して、英蘭などのチュートン系欧州の科学文化の尊重すべき所以を知った。若し日本に欧州文化を排斥した事実があると言うなら、それはラテン系宗教文化を排斥したのであって、チュートン系科学文化を排斥したことはない」のである。つまり、宗教に仮託して国家侵略を図る耶蘇会を警戒しカトリックを排斥しただけであって、チュートン系科学文化を排斥したことは決してないと強調する。

 鎖国の理由はもう一つ、「三代将軍家光の時に至って日本人の海外渡航が絶対に禁止せられたのは、日本の金・銀と金銀を多量に含む粗銅が、際限もなく海外に流出するのを防遏するためであった」。一五八〇年スペイン王フェリッペⅡ世がポルトガル王位を継承し、スペインとポルトガルの同君連合(国家統合)が成立する。之に先立つ一四九二年、フェルナンドⅡ世のレコンキスタによってスペインを追われたユダヤ教徒が大挙してポルトガルに入り、旧教に転向し或いは旧教徒に扮した。その多くが東南アジアに来て、折から鎖国中の明帝国と日本との間の仲介貿易に従事していたが、故国における突然の新政権の出現に危険を覚えて帰国の望みを絶ち、秘かに日本に帰化したことを前に本稿で述べた。交易相手の日本人に一身を託した彼らの、或者は鉄砲鍛冶となり、或いは絹紡織に携わって、日本人との混血種と欧州の先端工業技術とを残して、歴史の闇に溶けて行ったのである。
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