『戦後になって皇室財産が凍結され,天皇家が保持していた株式などの資産は大部分が没収された。(天皇家=宮内省)複合体を中心とする天皇財閥は経営破たんに陥ったのである。皇室財産である会社の株式など有価証券はことごとく占領軍によって剥奪され,天皇財閥による企業支配体制は終焉したのである。』と。(223ページ).......なんともプロパガンダ的内容であろうか。....某も弟子たちも隠れ統一ではないか,と管理人は見ている。
昭和天皇が戦犯として問われなかった理由の一つとして面白い記述がある。
『日本と300人委員会とについて興味深い関係が明らかになっている。デンマーク国王フレデリック9世(ノルウエー国王ハーコンの支援を受けた)とイギリスのジョージ6世,オランダのウイルヘルミナ女王,ルクセンブルグのシャルロッテ大公妃が「昭和天皇を戦争犯罪人として逮捕あるいは裁判にかけないように要請した」というものだ。しかし,おそらくは戦争犯罪人として処刑されたであろう昭和天皇を救ったのはガーター騎士団の力だった。』と。(ジョン・コールマン著「300人委員会」453ページより)。
皇太子時代の昭和天皇は英国を訪問しジョージ五世の歓迎を受ける。『ウインザー家という呼称は国王ジョージ五世が採用した。ウインザー家の実体はゲルフ家であり,ベネチアの黒い貴族の中でも最も古い名門の一つである。ヴィクトリア女王の血統は,直接ゲルフ家まで遡る』(ジョン・コールマン著300人委員会より)
『日本のいちばん醜い日』 ( 鬼塚英明 成甲書房 2007.8.5 )から
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-391.html
工藤美代子の『香淳皇后』の内容を補足する記事となっている。この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する(管理人注:実際には皇后の名前で4月15日ジュネーブに通知・英国公文書館による))。駐日代表は9日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは終戦直後の8月17日となった。その前日の16日、米英はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。
それでは、結果はどうなったのか。天皇の資産のほとんどはBIS(国際決済銀行)の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。それでほとんど無事であった。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」(既述)をつくり、国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と皇后名の二口座が確認されているが、他にもある可能性がある。
工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセン・グループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウェーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを「陰の政府」が支えたのである。スティムソン陸軍長官はグルー国務次官を通じてヨハンセン・グループに伝えた。そして言った。「グルー、彼らをたきつけ、持てる影響力を行使させよ」
では、ヨハンセン・グループは天皇とその仲間たちに、どんな影響力を行使したのであろうか。私がまず第一に考えたのは、原爆投下によって数十万人が確実に死ぬが、これを国際的にも、国内においても報道するな、という脅迫をグルーから受けて約束したと思う。
あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は「天佑」と叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。あの時だけが例外ではない。死ぬまでだ。新聞もヨハンセン一味の脅しに屈したのか、ほとんど報じなかった。スティムソンの思惑どおりである。
日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。天皇はこの直後に、アメリカから「天皇制護持」の約束を与えられていることだ。そして、御前会議を開き、ポツダム宣言受諾を決定する。間違いなく、原爆投下と交換条件である。アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。どれだけの人々が、アメリカの蛮行に激怒するかを計りかねていたにちがいない。アメリカの利益、否、国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉の声をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。
もう一度、「ジュネーブ13日共同=藤井靖」に戻ろう。この記事の最後は次のようになっている。
寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当性を主張するスイス政府、ICRCが対立した。
この紛争は46年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会は同年10月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は49年3月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も49年5月「所有権の主張」を撤回した。
送金は49年5月末。スイスが横浜正金の資金凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった。
この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。
もう一度、工藤美代子の『香淳天皇』を引用する。
ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。43年間にわたって総裁を務めていた閉院宮載仁(ことひと)親王が、昭和20年5月20日に亡くなっていたのである。
その後を承けて総裁になったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、7月1日だった。(『高松宮宣仁親王』)
この日の高松宮の日記には何も記されていないが、7月4日には「速二戦争終末ノ仕事二準備ヲセネバ間二合ハヌ」といった記述が見える。
高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる方向を見据えていたのがわかる。
さて、もう一度、トーマス・H・ハンディのカール・スパーツヘの命令文書を見てほしい。
「一、・・最初の特殊爆弾を以下の内、いずれか一つの目標に投下せよ。広島・小倉・新潟・長崎・・・」
この文書の日付は7月25日である。この手紙から見ると、[どれか一つ」で、まだ広島とはっきりと決定してはいなかった。これはどういうことを意味するのか。私はヨハンセン・グループが広島と決定し、グルーに報告したとみる。その日時も、8月6日午前8時ごろにしてほしい、と。「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。
林三郎の『太平洋戦争陸戦秘史』には次のような記述がある。
8月7日、大本営は調査団を現地に派遣した。調査団は8日夕広島に到着し、調査の結果、一、特種(ママ)爆弾が使われたこと、二、身体を被覆していれば火傷は防ぎうる等の、内容を持つ報告を9日に大本営あてに打電した。
続いて第二総軍は、一、白色の着物をきていたものは火傷の程度が好かったこと、二、防空壕に入っていたものも火傷の程度が好かったこと、三、火災の多かったのは朝食準備の最中が狙われたからであること等を報告した。
米戦略空軍は8月9日、第二の原子爆弾を長崎に投下した。
陸軍統師部は8月10日ごろ、全軍に対し状況を通報すると共に「この種爆弾は恐るべきものでなく、我が方に対策がある」ことを明らかにした。
次に藤田尚徳の『侍従長の回想』を引用する。蓮沼侍従武官長の奏上を聞く場面である。
陛下には蓮沼侍従武官長から奏上したが、〔略〕 新型爆弾については、特別な御たずねはなかった様子だったが、広島市全滅の報に、陛下は深い憂愁の色をうかべておられた。〔略〕 8日朝、東郷外相が決意の色を浮かべて参内してきた。そして御文庫地下壕の御座所に進んだ外相は、原子爆弾に関する米英の放送を詳細に言上すると、陛下は原子爆弾の惨害をよく知っておられ、次のように、一刻も速やかに和平を実現することが先決問題である点をお示しになった。
天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン・グループはスティムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。
★では、どうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から。急げ″と告げられ、赤十宇との交渉を急いだ。グルーはヨハンセン経由で天皇に8月6日の原爆投下の予定を告げていた。東郷茂徳は8日、天皇に会い最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くと3~5年後には凍結を解除してくれるとスティムソンが申しています・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を「天佑」として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。
★では、どうして広島だったのか。七月二十五日の時点で、スティムソン陸軍長官、マーシャル参謀長たちは爆撃予定地を新潟、広島、小倉、長崎と決めていた。この件について、日本側に最終目的地を決定せよと通知があったと思われる。新潟は長岡市に軍需工場があった。小倉(八幡)は鉄工業の町だった。長崎は国際金融資本家たち(特にユダヤ人たち)がもっとも嫌うカトリックの、日本の総本山であった。
(海軍造船基地でも)
では、どうして広島か?
有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。
わたしは直ぐに降り立ったが、誰ひとり出迎えてもいない。飛行場の短かく伸びた芝生は、一斉に一定方向、たぶん東へ向ってなびいており、しかも一様に赤く、真赤ではなく焦茶色といった方が当っているように焼けていたのに驚いたのであった。ものの2、3分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から這い上がってきたのは飛行場長と思われる一中佐、左半面顔中火ぶくれに赤く焼けていた。〔略〕
司令部は幸に建物は残っていたが、窓ガラスはメチャメチャに壊れていた。その司令部の前庭に運び出された六尺机の前に立ったわたしは、船舶参謀長官・馬場英夫少将の詳細にわたる報告を受けた。〔略〕
飛行場での印象と生々しい火傷の飛行場長の数言、それに馬場少将の報告で二十数万の広島市が、一言で尽せば全滅といった驚くべき特種爆弾の威力に驚いた。・・
この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日朝8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。
有末清三は★畑俊六元帥のことを書いている。
山の中腹、松本俊一(外務次官)氏の父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課としての朝のお祈りで、神棚に向っておられたため、幸に被害はなかったとのことであった。
私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。
●八月十五日、日本のいちばん醜い日
8月14日、最高戦争指導会議と閣議が天皇の召集のもとに開かれたのが午前11時50分。ここで2回目のご聖断(「鶴の一声」)が出た。
午後8時、天皇は終戦の詔書に署名した。この詔書をめぐって、阿南陸相と米内海相が激しく言い争った。このことは省略する。御用学者たちも部分的に筆を入れたが、これらもすべて省略したい。
各国務大臣が副署を終えたのが14日午後11時頃である。たいがいの本にはただちに外務省から連合国への回答公電が出されたとするが、私は阿南陸相の抗議により2時間ほど遅れたとの説を立てた(291頁参照)。そして枢密院での東郷外相の説明による15日午前1時を正式の回答時間とした。
回答公電はスイスとスウェーデンに向けて発信された。加瀬俊一公使がスイス外務省に受諾文を手渡し、その受諾文がただちにホワイトハウスのトルーマン大統領執務室に届いたのが14日午後4時5分(東部現地時間)。ジェームス・バーンズ国務長官はイギリス、ソ連、中国(国民政府)の首相らに電話し、14日午後7時(日本時間15日午前8時)に同時発表することを申し入れた。従って、この同時発表を終戦(敗戦)の日時とする説が一般的ではあるが、異論もある。ここではすべて省略する。
日本では、15日正午、録音された終戦の詔書がラジオ放送された正午を終戦の日時とする説が多い。いずれにしても、8月15日、国民は初めて日本の敗北を知らされたのである。
ここでは、「終戦の詔書」の原文と読売新聞社編『昭和史の天皇』(第三十巻)の口語訳の両方を記載し、解説は口語訳でする。この原文が難解すぎるからである。対比して読んでいただきたいと思う。そうすれば、原文の意味も自ずから理解できると思う。
●広島にどうして原爆が落ちたのか
・・・
私はこの文章を読んでいたときに、ハッと気づいたのである。「どうして広島に・・」と長いあいだ思い悩んでいた難問が「ついに解けたぞ」と、ひそかなる声を出したのである。
それは一つの仮定ではある。しかし、事実だと確信する。有末精三の次の文章を引用してから謎解きに挑戦してみよう。
10日早朝、双葉山中腹の総司令官宿舎に畑元帥を訪ね挨拶に行った。ソ連参戦のため急ぎ東京へ帰るべく、原爆の調査研究の一切は仁科博士一行に委任する旨報告したところ、元帥は当然至急帰京をすすめられ、独語のように、
「君!! なるようにしかならんねェ 」
と短かい言葉を洩らされた。元来、元帥は昔から頭が俊敏で、先きの見透しのよいことで有名であった。わたしも参謀本部の演習課で勤務の折、隣りの作戦課長だった元帥(畑大佐)の評判をよく聞いていた。「五千メートルしか届かない砲弾を、七千メートルも先きの目標に向って発射するような計画には絶対不賛成」といった性格の方であった。その元帥の独語を聞いて、わたしは心なしか和平への予感めいたものを感じたのであった。
有末精三は「それぞれ頭や頚(くび)元や腕に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀・橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡座(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・」と書いている。生き残った第二総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡座をかいていたのである。
この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、★畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精二(三の誤植)は書いている。私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎごろ、広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。
畑はヨハンセン・グループの依頼を受けた。「君、これは上の方も承知しているのか。そうか、君、なるようにしかならんねェ・・」と言ったにちがいない。この指令がヨハンセン・グループからグルーに報告された・・・。そして、8月6日午前8時すぎに、広島に原爆が落ちたのである。
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。
8月7日(火) 晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。10数万の死傷の報、大塚地方総監、爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2、3百メートルにて爆裂、直径4キロ全壊全焼、エラいことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。
では、『広島県史(近代Ⅱ)』の「原爆と敗戦」を見ることにする。
広島地区司令部の強い要請により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。
この二つの本を読んで、私は次のように推論する。
八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進・広島県知事と中国地方総監を説得した。第二総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。
この軍隊を指揮した中国軍管区司令官の藤井洋治中将(広島第五十九軍司令官)も、夫人とともに被曝死している。
一九九七年に国立国会図書館は「政治談話録音」なるものを一般公開した。木戸はその中で「原子爆弾も大変お投に立っているんですよ。ソ連の参戦もお投に立っているんです・・」と語っていた。
天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた。1975年10月31日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。
天皇:「エ・・この・・エ・・エ・・投下、された、ことに対しては、エ・・エ・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、★やむをえないことと私は思っています」
もう1人の記者が戦争責任について質問した。
「そういう★言葉のアヤについては、私はそういう★文学的方面をあまり研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます」
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。
もう一度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。
私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来ると云うのが寧ろ幸である。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)
まさに、米内海相が語るがごとく、数十万人の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満州で数十万人の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その一つが広島にある第二総軍であったというわけである。
その第二総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こした、というわけである。
そこまでして守らなければならない「国体護持」とは何なのか? 読者はこの点を深く考えなければならない。
原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。アメリカ、そして何よりもこの世界を支配する「陰の政府」、それはユダヤを中心とする国際金融同盟のために働いたがゆえに、彼らヨハンセン・グループの人々は、戦後になると地位と名誉と金を手にするのである。ほとんど例外はない。国を売って得たダーティな報酬だった。
東郷茂徳は太平洋戦争そのものに反対した。しかし、敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。20年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。
1948年11月12日、東京裁判の判決が出た。その判決の一部を記す。
被告・東郷は、1941年10月から東条内閣の外務大臣として、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。〔略〕 1945年春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、東郷を有罪と判定する。
これが禁固20年の判決理由である。
ここで明確にしよう。国際検察局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、もう一つはYルートであった。ヨハンセン・グループは吉田反戦ブループである。戦後首相となった吉田茂は多くの人々をこの検察局に売った。
東郷は原爆投下の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた。それゆえに消されたのである。
第二総軍司令官・畑悛六はどうなったか。
彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。
彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかし、ヨハンセン・グループと結びついていなかった。戦後、ヨハンセン・グループを脅していたら、あるいは戦犯にならずに済んだのかもしれない。
天皇は、もう一人の知りすぎた男、有末清三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。「有末精三はどうして戦犯にならんのか」と側近に語っているのである。
朝日新聞東京裁判記者団著の『東京裁判』の中に、「馬上の半生、長夜の夢」のタイトルで、畑悛六陸軍元帥についてのエピソードが書かれている。
陸軍元帥・畑悛六。沈痛な、渋い表情のこの人の横顔からは、およそ喜怒哀楽の情をよむことは至難であった。終始寡黙。そして、なにかきびしいものに身を包んでいる様子は、その意志的な頬の線によっても知れるが、しいて取りすましているというのでもない。
同被告の弁護人・神崎正義氏は、畑氏が被告控室でしたためた一枚の色紙を持っていた。それには
「 馬上之半生 長夜之夢、俊六 」 とあった。〔略〕
三日間の審理で召喚された証人は、宇垣一成元陸軍大将、米内光政元海軍大将、米内内閣の外相・有田八郎、元参謀次長・沢田茂元陸軍中将、元帥軍兵務局長・田中隆吉らの諸氏。
米内光政の口述書は米内内閣の崩壊の際の畑の行動を弁護したものであるが、米内証人に対し、サットン検事が反対尋問に立ち、
「畑は米内内閣が辞職することに賛成したか」
ときき、これに対し米内証人、
「初めは賛成していなかった」
と答えたのに引きつづき、的外れの返事が多く、ついには裁判長たまりかねて、
「かつて首相であった人で、この法廷に出た者の中で一番愚昧だ」
と、前例のない言葉を口走った。・・
私は、米内光政が畑悛六・元帥(第二総軍司令官)を説得し、広島に原爆を投下させた可能性大と思っている。米内が首相になったとき、畑は陸軍大臣となっている。それで米内は証人として出席した。しかし、心にやましいことがあるゆえに、しどろもどろの答えを繰り返し、ウエップ裁判長はついに「一番愚昧だ!」と口走ったのであろう。
こんな愚昧な男が終戦工作の主役の1人となり、天皇のイエスマンとしての行動を取り続けたのである。
畑悛六元帥の判法文を記す。
かれの指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行なわれた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかったが、なんらの方法も講じなかったかである。〔以下略〕
私たち日本人は、この米内光政という一番愚昧な海軍大臣(元首相)に一杯喰わされたのだ。天皇という存在はそれほどまでに大きな犠牲を要求して、平成の今日まで生き続けているのである。
この項の最後に、「八月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令された」ことに関し、原爆遺跡保存運動懇談会編の『広島爆心地中島』から引用する。
当時の県視察官、後に広島一中・学校長として動員学徒に深い関係のあった数田猛雄氏は、「動員学徒誌」の「動員学徒をしのぶ座談会」の内で次のように軍部のことを述べている。
私たち教育関係者としては、教育防衛(*次代を担う若者たちの教育=人材育成を天皇制軍隊の横暴から防衛する)の立場から僅かの時間でも教養を高め、学問の道の指導訓育に心をくだいたものであります。
この間の学徒は国家の危急存亡にあたり、ひたすら勝利を希って栄養失調に陥入りながら昼夜を分かたず自己を拠ってよく精進努力してくれました。
青雲の志をもちながら入学以来明けても暮れても戦力の増強に死力を尽し、学業を省みる暇もなかったのでこの姿では勝っても負けても将来どうなるかと心配でならなかったものです。
そこで教育防衛のため、無理難題を言う軍部としばしば衝突したことも今に至って感慨無量のものがあります。
原爆のため6千余人の犠牲者が出たので、その善後策は大変なものでした。・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第二総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。
・・陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機を茲に与へられたと云ふのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。・・・
私は多くの非難を覚悟の上で、この「涙の項」を書いている。『広島爆心地中島』の本の最後は以下の文章である。
・・当時の国家総動員体制下にあって、子どもの健康、安全を第一に考えて、敢て反対の意見を述べ、また自分の責任で行動する教師のあったことは驚きであり、また救いであった。一方強引におしつけた軍部の横暴は許し難い。
しかも原爆投下は、命じたものも、命じられたものも、そしてすべての命を奪い去った。
さらに許し難い。・・
●かくて、鶴の一声が発せられた
住井すゑ(作家)が書いた「愛する故に戦わず」を紹介したい。この随筆は、葦原邦子他の『女たちの八月十五日』の中に収載されている。
[明、十五日正午、重大放送がございます」
1945年(昭和20)8月14日正午、ラジオはニュースの冒頭で右のように告げた。もしかしたら、重大放送の件は、朝のニュースで、既に知らされていたのかもしれぬ。けれど私の場合、朝のうちはラジオどころではなかった。3人の子供-19歳の長女は徴用工、16歳の次女と14歳の次男は学徒動員で-を、それぞれの軍需工場に送り出すのに忙しくて。
ところで正午のニュースは、その終りでも繰り返した。
「明、十五日正午、重大放送が・・・ 」
心成しか、アナウンサーの声が強張っている。
「どう?」と、私は今は亡き夫(犬田卯=いぬたしげる)の顔を見た。多少意地悪な勝利感を胸に秘めて。というのは、この日ーつまり無条件降伏を内容とする天皇のラジオ放送が行われる日の到来を、私は一年以上も前に予言していたからだ。ことの次第は次の通りである。[略]
住井すゑは「ことの次第」を書いているがここでは省略したい。確かに彼女はこの一年以上前に、夫や知人のN君にそのことを語っている。間違いのないところである。
私が「鶴の一声、近くて遠し」の項で書いたのがまさしく、この玉音放送であった。
戦争に突入した。敗北に次ぐ敗北だった。多くの史家はこの敗北の模様を書き連ねるが私は一行も書かない。知りたい人は別の本を読んでもらいたい。その敗北の続く日々の中で多くの戦死者が、外地のみならず日本国内でも毎日、毎日、続出したとのみ書く。
「どうして鶴の一声が近くて遠かったのか」
1944年6月26日、サイパン島攻防戦の最中に、東條内閣の外相重光葵と内大臣木戸幸一が会談する。このとき、木戸幸一は「戦争の見透しと外交をいかにするか」と、重光葵に問うている。「時機到来の際は、宮中は内府に於て、政府は外相に於て、天皇は全責任を負い、聖断へ鶴の一声により事を運ぶの外なき・・・」と重光葵は答えている。
ちょうど住井すゑが夫やN君に語っていた頃である。
日本は敗北し続けていた。鶴の一声を待つ気持ちを、全国民が心のどこかに持つようになっていた。しかし、それから一年間、戦争は続けられた。どうしてか? 私はその答えを書き続けてきた。ただ一つ、天皇制護持の確約がアメリカから送られてこなかったからである。
国際決済銀行は、ちょうどこの6月ごろから、天皇の財宝をスイスの銀行に入れてやるべく協力をするのである。国内にある金・銀・ダイヤモンドまでもが潜水艦や赤十字の船に載せて運び出されるのである。天皇は鶴の一声を出すまでに、なんとしても大室寅之祐以来、蓄めて蓄めて蓄めこんだ資産を海外に運び出さなければ、と思ったのである。その大半が運び出されたのが1945年6月ごろであろう。どうしてか。天皇が終戦工作に入るからである。それが6月8日の最高戦争指導会議(御前会議)となるからである。
この会議の後に、木戸幸一は天皇から「大綱」を見せられ、至急に「時局収拾の対策試案」を作成し、翌日天皇に奉上する。このことは『木戸幸一関係文書』の中に書かれている。私は彼の日記の一部を掲載した。
6月初旬であろうと私は推測するのであるが、一部の問題(皇后のスイス国立銀行での件)を除き、ほぼ天皇の財産が海外に移されたのである。とほぼ同じ頃に、ヨハンセン・ルートで天皇に終戦工作に伴う覚え書きが届いたはずである。皇太后への説得や天皇の諸々の動きの中に、それが見え隠れするからである。皇太后が陸軍省に原爆に耐えられる防空壕を造れと難題をもちかけるのは6月中旬以降のことである。皇太后はそれが不可能だと知ると、軽井沢に疎開することを承知するからである。
細川護貞『情報天皇に達せず』の8月1日の日記には次のように書かれている。細川護貞と高松宮の会話である。高松宮が細川護貞に語る場面のみ記す。
「軽井沢に大宮様を御出遊ばすについても、スイスの公使が、米国に軽井沢を爆撃しない様にたのんだと云ふことがわかったので、陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るものだが、注意すべきことではある」と仰せられたり。
『大井篤手記』については触れた。貞明皇太后(大宮様)は原子爆弾の投下のニュースを知り、狼狽する。天皇は6月14日、そのニュースを知らない皇太后を説得しにいくのであるが拒否されて、皇居に帰ると寝込むのである。半藤一利や保坂正康は、天皇の苦悩の深さに思いをいたし、天皇の心労に同情するのである。
しかし、ちょっと待て! と叫びたい。天皇はスイスの公使を使って、軽井沢を爆撃しないよう工作をしていたのである。それを高松宮はちゃんと知っている。
私はこの工作にもヨハンセン・グループが動いているとみている。当時スイス公使とあるのは藤村義明であろう。彼は戦略情報局(OSS)長官ドノヴァン配下のアレン・ダレスと和平工作をしていた。そのスイス公使に「皇太后を疎開させるから、軽井沢を爆撃してくれるな」と天皇が依頼し、アレン・ダレスが承諾し、OSSのドノヴァン長官に連絡する。それを陸軍長官が最終的に認め、爆撃中止を出す・・・。よって軽井沢に爆弾が落ちるのを防いだ。
高松宮は「陸軍の者が三笠宮の所へ押しかけて、大宮様が爆撃を御逃げになる様では面白くないと云って来た由だ。実につまらぬことに気が廻るもの」だと言うのである。
自分の母親がいとおしさに、天皇はスイス公使を動かして軽井沢工作をするのである。これが「実につまらぬことに気が廻る」ものなのか。
では最終的にはどうなったのか。貞明皇太后は静かに大宮御所で暮らすのである。そして戦争が絡わって8月20日、軽井沢に疎開(?)するのである。
これはどういうことを意味しているのか。軽井沢への疎開が陸軍の連中にばれたので、天皇や高松宮が交渉し、東京に爆弾が落ちようと、大宮様の御殿には落とさないと交渉した結果であろう。また、東京には原爆が落ちないようになったことを、天皇か誰かが、懇々と説明申し上げたからであろう。従って大宮様は7月のあるとき以降、疎開の話も原爆の話もしなくなるのである。なんと優しい天皇ではないか。天皇のこの優しさを、半藤一利や保坂正康に説明してやりたくなってきた。
この『情報天皇に達せず』の8月8日に原爆の記事が出ている。一般の国民は全く知らされていないときに、皇室の人々は全貌を知っていたのである。それはそうであろう。文中、「公」とは近衛文麿である。
然もその時、西部軍司令部は殆ど全滅したらしいとのことで、公と二人、是こそポツダム宣言に、独乙以上に徹底且完全に日本を破壊すると彼らが称した根拠であったらうと語り、或は、此の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。5時人生田出発、7時東京、直に木戸内府を訪問せらる。内府も、一日も速かに終結すべきを述べ、御上も御決心なる由を伝ふと。又内府の話によれば、広島は人口47万中12~3万が死傷、大塚総監一家死亡、西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅、午前8時B29一機にて一個を投下せりと。敵側ではトルーマンが新爆弾につき演説し、
「対独戦の際英国にて発明、1940年、チャーチル、ルーズヴェルトの話にて、予算29億ドル、12万人の労働者を使用して、メキシコ近くに製作に着手、現在6万人を使用せり」と。
天皇は木戸に全貌を知らせる。近衛は木戸からそれを聞き取っている。ほぼ正確である。見事と言うべきか、「西部軍司令部は、畑元帥を除き全滅」となった。
近衛は細川に、「(陸軍を抑えるには)天佑であるかも知れん」(8月9日の日記)と語っている。この「天佑」という言葉は、原爆投下作戦の「暗号」であった可能性がある。
8月9日に御前会議が開かれた。
8月9日の木戸幸一の『日記』の最後の部分を引用する。
鈴木首相拝謁、御前会議開催並に右会議に平沼枢相と参列を御許し願ふ。
11時25分より11時37分迄、拝謁。
11時50分より翌2時20分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す。
この会議はポツダム宣言を受諾するために開かれた。午前10時半に重臣たちを集めた最高戦争会議では意見が分かれた。それで平沼騏一郎枢密院議長を加えることになった。受諾賛成沢は、米内海軍大臣と東郷外相。反対派は阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍軍令部総長。2対3なので平沼枢府議長を賛成派に入れて3対3にして、天皇の御聖断を仰ごうとするのである。
鶴の一声はここでやっと聴くことができるのである。
この日、長崎にも原爆が落ちている。長崎市の被害は死者10万人、負傷者7万5000、被災者13万8930人、焼失家屋1万8620戸、焼失率40%。その他の地方都市もB29の爆撃にあって毎日のように死者が出ている。
この長崎原爆の投下による被害を知りながら、天皇も大臣たちも一言の発言もない。全く国民は馬鹿にされ尽くされている。
天皇がこの御前会議で語った模様を下村海南の『終戦秘史』から引用する。
大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。
本土決戦といっても防備の見るべきものがない。
このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。
しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。
自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい。
以上はただその要旨をあげただけであるが、大東亜戦は予定と実際との間に相違があるといかれし内容には、
九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の10分1もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の6月に完成するという報告をうけていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか、という、今までにまったくためしのない隠忍沈黙の型を破った陛下自らの思いのままを 直言されたのであった。満場ただ嗚咽の声のみである。首相は立った、会議は終りました。
ただ、今の思召を拝し、会議の結論といたしますといった。聖断とはいわない、思召を拝して会議の決議とし、第二回の会議は閉じられたのである。首相の車は官邸へ急いだ。時計の針は、はや8月10日午前三時を指している。
これが世に言う「御聖断」である。私が言う「鶴の一声」である。『大漢和辞典』によれば、中国末代の張端義撰の『貴耳巣』にも見える、有難きお言葉である。
天皇はどうして広島・長崎の被害について語らず、どうでもよいような(私にはそう思える)九十九里浜の防備について語るのか、まったく理解に苦しむのである。
「自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい」は、真っ赤な嘘である。このポツダム宣言受諾の条件が「国体護持」であることを見ても理解できる。
「満場ただ嗚咽の声のみである」も私の理解をはるかに超える。どうして、大臣たちは拉いていたのであろうか。彼ら大臣や重臣たちは、これ以降の御前会議で天皇の御言葉を聞くと泣き出すのである。
さて、この同じ場面を、鈴木貫太郎首相の書記官長として出席した迫水久常の『終戦の真相』から見てみよう。
陛下は先づ「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。
その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下10メートルの地下室、しかも陛下の御前。
静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。
陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。
次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
涙の中に陛下を拝しますと始めは白い手袋をはめられたまま親指を以ってしきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以ってお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
建国二千六百年日本の始めて敗れた日であります。日本の天皇陛下が始めてお泣きになった日であります。
名文である。私はこの名文を幾度も読み返し読んでみて、ふと思った言葉がある。「恋闕」という言葉である。恋闕とは天皇を恋することである。天皇の言葉に号泣する軍人たちは確かに天皇に恋していたにちがいない。どうして、このような感情が生まれてきたのであろうか。その一つの理由は、正木ひろしの『近きより』(昭和21年再刊号)の中に見出せると思う。
高級職業軍人や憲兵や検事の大部分、その他の戦犯らが戦争の継続を必死になって望んだのは、敗戦になれば、戦勝国の手による刑罰の必至であったため、それを恐れて1日も長く自分の寿命を延長するため、また絞殺されるよりは、国を焦土と化し、全国民と無理心中するため、一億戦死を叫んだもので、その残忍酷薄非人道は、地獄の悪魔の心と少しも変はるところがない。
しかし、正木ひろしは恋闕の半分しか答えていない。正木ひろしは戦争継続を叫ぶ軍人たちが敗北を覚悟で徹底抗戦を叫んだのを、生活基盤の面から見ている。もう一つの理由があると私は思っている。彼ら老いた高級職業軍人たちは言葉が悪いが、他に表現方法がないのだが、女形の天皇にぞっこん惚れこんでいたと思えてならない。女形が持つ無機的な闇の部分に惚れこんでいたのである。あの号泣の場所は、恋のぬれ場であったと思う。犯したいが犯しえぬ一人の女形を前にして、彼らはその恋情がやがて終わりとなることを意識したのである。
天皇に直接会える政治家や軍人はごく少数である。天皇に直接会えるということは、正木ひろしではないが、その女形の魅力ゆえに残忍酷薄非人道、地獄の悪魔の心を持って出世の階段を一歩一歩登りつめた結果なのであった。
多くの「高級職業軍人や憲兵や検事の大部分」の者たちは、犯すに犯しえぬ恋情=恋闕に憧れたのである。だから、戦争をするという行為に何ら疑問を感ずることなく、天皇の意のままに動くロボットのような人間集団と化したのである。
敗北が近づくにつれて、その女形のもつ、いとあやしき魅力にかげりが見えてきた。日本劇場の幕切れが近づいてきた。女形は、古い恋人たちを捨てて、廻り舞台の上で乗りかえようとしていたのである。そこで、女形はあらためて、自分の魅力とは何だろうと思うようになった。この小男で、猫背で、体をいつも小きざみにふるわせている女形の魅力とは何であったのか。天皇ヒロヒトは絶えずそれを考えていた。女形を権威づけてきたものは・・・と天皇ヒロヒトは考え続けたにちがいない。
それは大室寅之祐以来、隠しに隠してきた出自を、完璧に隠蔽できるものであった。彼は自分が大室寅之祐の血さえひいていないのを知り尽くしていた。皇統は完全に絶えていた。しかし、裕仁は連綿と続く皇統の唯一の存在者であると確信していた。それが大いなる誤謬であれ、裕仁は確実にそのように信じていた。
『昭和天皇独白録』を見ることにしよう。
当持私の決心は第一に、このまゝでは日本民族は滅びて終ふ、私は赤子を保護する事が出来ない。
第二には国体護持の事で木戸も同意見であつたが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。
この本の中に「注」がついている。たぶん、半藤一利の解説である。
また、国体護持のためには三種の神器を確保せねばならない、とする天皇の考えは、20年夏ごろにしばしば側近に洩らされている。たとえば、7月25日、前日の伊勢神宮爆撃について語ったとき。
「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預りしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるほかはないのではないか」
あるいは7月31日に、
「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思う。・・・万一の場合には自分が御守りして運命をともにするしかない」と語っているのである。
この解説者の書いている通り、『木戸日記』を読むと、三種の神器にこだわる天皇の姿がたくさん書かれている。木戸関係文書の中にもたびたび登場する。阿南陸相が戦争継続を木戸に訴えているとき、「それでは三種の神器はどうなるのですか」と木戸が反対する場面が、その文書の中に登場する。木戸は天皇の話を聞いているうちに天皇に感化されているのが分かるのである。
この『昭和天皇独白録』について、痛烈なる批評をなしている本があるので紹介する。★小森陽一の『天皇の玉音放送』である。(2003年五月書房刊)
「第一」の「理由」は、迫水の語ったところと一致している。これ以上死者を出してしまうと「日本民族」が「滅びて終ふ」、「天皇」を支える「赤子」が死に絶えてしまうことに、ヒロヒトはまず恐怖したのである。
しかし「第二」に固執しているのは「国体護持」しかも7月25日や31日と同じように神器が置いてある伊勢神宮と熱田神宮が「敵の制圧下」に入ったらどうするのか、ということなのである。ヒロヒトが「聖断」を下したのは、本土決戦になれば「神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない」からなのだ。広島、長崎への原爆投下の後も、ヒロヒトの頭の中に変化は起こらなかったのである。
「私の一身を犠牲にしても」と、あたかも決死の覚悟であったかのように語ってはいるが、ヒロヒトの頭の中にあったのは要するに自分が戦争に敗北した大元帥になったとしても、「三種の神器」の保全を優先して「国体」を「護持」する、という神話的妄想にほかならない。
「聖断」は、国民ではなく、「三種の神器」の安全を守るために下されたのだ。この一点を私たちは忘却してはならない。
私は「三種の神器」については書かないことにするが、一言だけ書くとすればこれは★レプリカであるとのみ書く。
私は天皇の「独白録」を読み、「注」を読み、そして小森陽一の説に接しつつ、思ったことかあるので正直に書いてみよう。
伊勢神宮と天皇家は本来、関係がないのである。天皇家は仏教を信じていた。伊勢神宮は仏教を信じない人々の心の拠り所であった。
幕末、この伊勢神宮を参った人々(お伊勢まいり)は、「ええじゃないか」の旗を立てて、革命を煽る集団と化した。この「えゝじゃないか」の旗の中に「エタでもえゝじゃないか」の旗が見えるのである。ここから明治維新の波が起こってきた。だから、大室寅之祐こと明治天皇は、この伊勢神宮に参ったのである。
簡単な表現をするならば、(被差別)部落解放運動が明治維新となったのである。あの天皇も重臣の多くも部落出身者であった。彼らは自分たちを権威づけるために「三種の神器」という伝説を創造したのである。ヒロヒトがこの「三種の神器」にこだわる理由がそこにある。
もう一つ考えられる。ヒロヒトは、スイスに入れた金と「三種の神器」をごったにして考えているふしが見え隠れする。最下層の生活から一変して大金を手にした人間は、擬い物の芸術作品や偽作の血統書を手に入れて、自分の出自を隠そうとする。自分の子供たちを高貴な血統(?)と結びつけようとする傾向がある。これと同じである。ヒロヒトは「三種の神器」を口にするたびに、心の中では「大室寅之祐以来、蓄めに蓄めた金」をどうして占領軍アメリカに渡されようか、と考えていたはずである。
だから、原爆をアメリカに都合よく投下してもらい、あとは国体護持を維持することに専念する。その第一歩が「鶴の一声」であったのだ。