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ホセア書からマラキ書まで

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現在旧約と新約がゴチャマゼになっていますが旧ブログのように目次がありませんのでこうなっています。

聖書ものがたり・Hosea~Malachi(ホセヤ書からマラキ書まで) - gooブログはじめました!

聖書ものがたり・Hosea~Malachi(ホセヤ書からマラキ書まで) - gooブログはじめました!

これで旧約は終了します。次は新約に入りますがこの物語のテーマは「滅びの予感と永遠性」です。人間には定められた運命があるかどうかですがあると思います。パラクレートと...

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この物語のテーマは「滅びの予感と永遠性」です。人間には定められた運命があるかどうかですがあると思います。パラクレートという「助け主」を呼び込むことにかかっているようです。


 東方三博士の礼拝(Uffizi /Firenze) Gentile da Fabriano1370-1427 05.ゴシック

 マタイによる福音書第2章『占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来た......』




 三島由紀夫は20台前半に著した「仮面の告白」新潮文庫15ぺージには「私が幼児から人生に対して抱いていた観念は,アウグスティヌス風な『予定説の線を外れることがたえてなかった。いくたびとなく無益な迷いが私を苦しめ,今もなお苦しめ続けているものの,この迷いを一種の堕罪の誘惑と考えれば,私の決定論にゆるぎはなかった。私の生涯の不安の総計のいわゆる献立表を,私はまだそれが 読めないうちから与えられていた。私はただナプキンをかけた食卓に向かっていればよかった。今こうした奇矯な書物を書いていることすらが,献立表にはちゃんと載せられており,最初から私はそれを見ていた筈であった。」仮面の告白は昭和25年6月には発刊されている。

それに対し故森有正氏の「砂漠に向かって」にはこう表現している。「予定の観念は強く私を捉えている。カルヴァンが,私の世界に深く浸透してくるのは,そこを通してではない。十分に理解された予定とはー意思が正しく意欲することーを意味している。

それはまさに宿命論の正反対である。マラキ書(注:託宣・マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉)は言っているではないか・エサウはヤコブ(注:イスラエル)の兄ではないか,永遠の神は言う,しかしながら,私はヤコブを愛し,エサウを憎んだ。

・・・・中略・・・・この予定の教えはアウグスティヌス,カルヴァン,ジャンセニウス,パスカルを通って近代までなまなまとと伝えられて来た。・・・・中略・・・・私の陽気さが,その最も確かな証拠だ」この本は昭和45年11月発刊ですから仮面の告白の20年後です。どちらかというと森さんはカルヴァンに影響を受け,心の奥深くにはキリストの終末論があったようです。フランス文学に進む場合この聖書の意味がわからないと一歩も前に進めません。このように解釈を巡っては人を死に追い込むのです。


 このように自分なりに人生のパラダイム(座標軸)を早くから持っていないと生き方がぶれることになり何を支えに生きてゆけばいいのかヒステリー状態となってしまうのですがスティーブン・T・ディヴィス著「ENCOUNTERING EVIL」(日本語訳:神義論をめぐる五つの答え)の翻訳者本田峰子さんクラスならさておき毎日がチャチャチャの一般の人たちには鬱陶しい命題であり自分には関係のない世界でもあります。その本に関しては後日解説いたしますが興味のある方はご覧ください。何回も申し上げておりますが教養とは学歴と最も遠いところに位置するものであり『自分を振り返り自分を変えてゆく』,これが教養なのです。

救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済に与れた者は罪を犯しても、必ず神に立ち返るとされる.(ロマ書8:29,9:15など)

予定説とは何ですか?予定説は聖書的ですか?

答え: ローマ書8章29-30節は、「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。エペソ1章5節と11節では、神はみむねとみこころのままに、私たちをイエスキリストによって、ご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました。、、、この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」と宣言しています。多くの人たちは、予定説に対して強い反感を持っています。しかしながら、予定説は聖書的な教理です。 鍵となるのは、予定と言うのは聖書的にはどういう意味かを理解することです。

以上の聖句で、「あらかじめ定められた」と訳されていることばは、ギリシャ語の‘プロオリ-ゾ“からきています。このことばは「前もって決められていた」とか「定める」「その時より先に決める」などの意味を持っています。ですから、予定というのは、神が、あることの起こる前からそうなるように決められると言うことです。神は何をその起こる前から決めておられたのでしょう? ローマ書8章29-30節によると、ある人たちが御子に似たものとなるように、彼らを召し、義とし、栄光を与えるように前もって決めておられたということです。要するに、ある人たちが救われるように と前もって決めておられたということなのです。多くの聖句は、キリストを信じる者を選ばれた者と呼んでいます。(マタイ24章22節;マルコ13章20、27節; ローマ8章33節;9章11節11章5-7、28節;エペソ1章11節;コロサイ3章12節;第1テサロニケ1章4節;第1テもて章21節;第2テモテ2章10節;テトス1章1節;第1ペテロ1章1-2節;2章9節;第2ペテロ1章10節)予定説というのは、神が主権を持って、ある人たちを救われるように選ばれるという聖書的な教理なのです。

予定説に対しての最もよくある反論は、それは不公平だという事です。神はなぜある人たちを救いに選び、他の人たちは選ばれないのでしょう? ここで覚えておくべきことは重要なことですが、誰一人として救いを受けるに価しないということです。私たち、みんなが罪を犯しました。(ローマ3章23節)それで、誰もが永遠の罰を受けて当たり前なのです。(ローマ6章23節)その結果、私達をすべて永遠の地獄に送っても、神は完全に正しいのです。 しかしながら、神は私たちの中の何人かを救うことにされました。 神は、選ばれなかった人に対して不公平でも何でもないのです。なぜなら、その人たちは当然の報いを受けるのですから。神がある人たちには恵みを示し、他の人には示さなかったからと言ってその人たちに対して不公平であるというのではないのです。誰ひとりとして神から何かを受けるに価するわけではないのですから。ですから、神から何かを受けなかったからと言って、神に反論することはできないのです。例えば、私が20人の人たちの中の5人にお金をあげたとします。お金をもらえなかった15人は腹を立てるしょうか?多分。しかし、彼らに腹を立てる権利があるでしょうか?いいえ、ありません。なぜでしょう?なぜなら、私は誰にもお金を借りていたわけではないからです。私はただ、何人かの人たちに気前よくしただけですから。

もし、神が誰が救われるか選ばれているのなら、私たちがキリストを選んで信じる自由意志はどうなるのでしょうか? 聖書は私たちは自由意志で選択できると言っています。私たちがしなくてはならないのは、ただイエスキリストを信じること、そうすれば救われると言っています(管理人注:これは教会牧師の犯す大きな間違いです。ここをクリック。(ヨハネ3章16節;ローマ10章9-10節)聖書は、一度も、神が、神を信じる者を拒むとか、誰でも神を求める者を退けるとか言ってはいません。(申命記4章29節) どうしてか、神の神秘さのうちで、予定説は、神に引き寄せられた人と共に働いて(ヨハネ6章44節)、その人が信じて救われるのです。(ローマ1章16節) 神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。 この二つの事実は、同等に真理です。ローマ11章33節は、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、そのみちは、何と測り知りがたいことでしょう。」と宣言しています


HOSEA:ホセヤ書(神の愛と苦闘)

管理人が幼児洗礼を受けたルーテル教会ではホセア(ホセヤ)書を詳しく解説している。

AMOS:アモス書(繁栄社会への挑戦

Malachi・Joel・Obadia:マラキ書・ヨエル書・オバデヤ書(神殿は出来た)

Jonah:ヨナ書(愛国者ヨナの怒り)

Micah・Zaphaniah・Nahum・Habakkuk:ミカ書・ゼファ二ヤ書・ナホム書・ハバクク書(動乱期の預言者たち)

Haggai・ZechariahⅠ:ハガイ書・第一ゼカリヤ書(神殿建築の再開)

ZechariahⅡ・第二ゼカリヤ書9~14章(シオンの再興)

Wikiによるマラキ書の解説。その右に外典(APOCRYPHA)で記事にしましたが,外典を含む含まないで宗派によって違いますのでご注意ください。エチオピア正教会はエノク書を含みます。

 一般的な旧約解説

すべての人類の祖先はエチオピアにいたたった一人の女性であることが「ミトコンドリアイブ」で判明している。

エデンの門が開くこの時期のことを,地質学者は最大間氷期とよんでいる。原生人類は地球上に現れてから,そのようなパラダイスを二度しか見ていない。最近の最大間氷期はわずか8000年前のことで,その秋の日差しの名残に浴していられる私たちは幸運なのだ。
Stephen Oppenheimer:Out of Eden


ENUCH(エノク)が EUNUCH(宦官)と改竄された聖書

拙稿:アダムとイブの舞台はエチオピアだった。

 競争相手を打ち負かして,その挙句,唯一まことの神”として崇拝される資格を確立し,カイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価,つまりユダヤ教の神ヤーウエを認めたキリスト教なんて誰が信じるの??

 答え:教会へいらっしゃい

 皆さんは一応最後まで付き合っていただいて終了しましたらすべて忘れることです。最近欧米の人たちはこの宗教のペテンに気づき比叡山を訪れる人が増えているそうです。曼荼羅に本質を見出しているのでしょうね。牧師がキリストを神と崇めるならば,おお主よ,と日本語で言って説教しても駄目ですよ。キリストはアラム語しか分かりません。アラム語を勉強することです。一方サンスクリット語の漢訳である般若心経をいくら読経しても駄目なのですよ。お前たちは死後の世界を商売にしてお釈迦様に申し訳ない気持ちはあるのですか。

 もし、牧師がこのHPを見ているならば管理人に答えてほしい。「ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか」,神が見捨てたものをなんであなたたちは神と定義づけるのか?

1:ホセア書 / 4章 1節

主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも/神を知ることもないからだ。

2:ホセア書 / 4章 2節

呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり/流血に流血が続いている。

3:ホセア書 / 4章 3節

それゆえ、この地は渇き/そこに住む者は皆、衰え果て/野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。

・・・

6:ホセア書 / 4章 6節

わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので/わたしもお前を退けて/もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので/わたしもお前の子らを忘れる。

7:ホセア書 / 4章 7節

彼らは勢いを増すにつれて/ますます、わたしに対して罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。

8:ホセア書 / 4章 8節

彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり/民が罪を犯すのを当てにしている。

・・・

14:ホセア書 / 4章 14節

・・・ 悟りのない民は滅びる。

・・・

19:ホセア書 / 4章 19節

欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み/彼らはいけにえのゆえに恥を受ける。(さてはてメモ帳さんより)



 拙稿:Ω祖型からバチカンまで参照

 『イエスがみずからの身を十字架にかけることにより「贖罪(罪をあがなうこと)」を全人類のために果たしてくれたから、とキリスト教では教えているというキリスト教の中核ともいうべき(だが大胆な)教義の記述についての解釈論である。

過去に行なわれたキリストの十字架上の刑死が、未来の人間であるわれわれの罪を消し去る「贖罪 しょくざい」であったという考えはどのように成立しうるのだろうか? そのようなことが論理的に成立するのかと言えば、どうしても否と言う誘惑を感じないわけには行かない。。だが、こうした不可解もキリスト者にとっては当然のこととして躊躇いなく受け入れている部分のようである。そもそもどうして過去の聖者の自ら選んだ死が、未来の人間の過ちまで含んでそれらを消し去ることに通じ得るのか? 

こうした疑問は決して真新しいものではなく、キリスト教に対する懐疑の発端としては古典と言うべきものである。例えば、「贖罪【しょくざい】論 」として書かれている解説にもそうしたトーンが反映されているのを見て取ることができる。これは一読の価値がある。(管理人注:多くの聖職者はキリスト教は許しの宗教であると言う。それは過去から現世までを俯瞰して視る能力がない表れでもある)。

ある意味、これは現世を生きる人間にとって大変「便利」な教えである。現世を生きるわれわれがこれほどまでに堕落し、「間違って」いるのは、この免罪符をすでに手に入れたと考えたためではないかと思われるほど、われわれにとっていかにも有利な教えである。もし、「イエスがみずからの身を十字架にかけることにより贖罪を全人類のために果たしてくれた」と受け容れることが、キリスト者への第一歩であるとすれば、そこには信心することに付随する苦悩が存在しないように思えるではないか? 一体このような「決心」のどこが困難な修練となるのであろうか? 聖書時代から視れば、すでに未来の時を生きているわれわれの犯した(あるいはこれから犯す)罪が、過去の“聖者”による行為によってあらかじめ「消し去られている」のであれば、われわれは何をやっても良いという風にさえ、あえて解釈されはしないだろうか?(いや、現にされているのではあるまいか?)私ならそうするだろう』。


 パレスチナでは農業用機械が導入されているがアラブ人地区ではこのような小鎌(Sickle)で収穫する。なおJoel(ヨエル書)第三章はWorld English Bibleでは21節まであるのに新共同訳では5節までしかない。世界共通の章と節をとるなか感心しない。

 そこでヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして,そこに小屋を建て,日差しを避けてその中に座り都に何が起こるのかを見届けようとした。すると,主なる神は彼の苦痛を救うため,とうごま(VINE)の木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり,頭の上に陰をつくったので,ヨナの不満は消え,このとうごまの木を大いに喜んだ。(ヨナ書第4章5~6節)

 ニネベ(NINEVEH)の陥落:ティグリス(Tigris)のにぎやかだったアッシリアの都の陥落は紀元前612年のメデス=メディア人(MEDES)とバビロニア人の預言者の預言どおりになった。バビロニアの預言者はニネベについてこう語った。「これが,かつてにぎやかだった都だろうか。かって,人々は安らかに住み,心の中で”私だけだ。私のほかにだれもいない”と言っていた。どうして都は荒れ果て獣の伏すところとなってしまったのか。ここを通り過ぎる者は皆驚きのあまり,口笛を吹き,手を横に振る。(ゼファ二ア書第3章15節)。(ナホム書第2章3,4,6節参照)

 民の腐敗:エルサレムの郊外ではスイカの取引が盛んであった。エジプトで生産された最も古い果実で古代ヘブライの植物の識別では木の上に生る果実と,地上に生る果実とになった。ミカ書第7章1~4節参照)

 多くの象牙で出来たコレクションはサマリアの王宮跡で発見された。一番下の丸く彫られたライオンはエジプトの影響を強く受け,真ん中の右は蓮(ハス)の花の上にのったホロス(HORUS)を表している。

サマリアの征服者サルゴンの宮殿。アモスの預言どおりサマリアは捕囚の身となった。これはアッシリア王サルゴン二世の時代のもので紀元前721年KHORSABAD の宮殿の年史に記録されている。コルサバッドはニネベ近郊のサルゴンの都にあった。

"MAKE STRONG THE BRICK-KILN"(煉瓦を釜で焼き堅固にせよ)煉瓦ははるか昔からメソポタミアでの建築資材であった。そしてこの写真はニネベ(Nineveh)近郊の要塞である。ナホム(Hahum)は紀元前612年にその都の陥落を預言した。「籠城に備えて水をくみ,要塞を堅固にせよ。泥の中に入って,粘土を踏み煉瓦の型を固く取れ。」(ナホム書第3章14節)

 ”WHERE IS THE DWELLING OF THE LION"(獅子の住みかはどこにいったのか)。「獅子の住みかはどこにいったのか。それは若獅子の牧場だった。獅子がそこを去り雌獅子と子獅子が残っていても脅かすものは何もなかった。」(ナホム書第2章12節)

 蔵には,まだ種があるか。ぶどう,いちじく,ざくろ,オリーブはまだ実を結んでいない。しかし,今日この日から,わたしは祝福を与える。(ハガイ書第2章19節)(ハガイは追放から帰ったエルサレムで人々に神殿の再建を訴える。それをライオンや果実にたとえた)

 "THE PRIDE OFJORDAN”。羊飼いたちの泣き叫ぶ声がする。彼らの見事な牧場は荒れ果てた。若い獅子のほえる声がする。ヨルダンの密林も荒れ果てた。(ゼカリア書第11章3節)

 あなたは弓の覆いを取り払い言葉の矢で誓いを果たされる。あなたは奔流を起こして地をえぐられる。山々はあなたを見て震え水は怒涛のように流れ淵は叫び,その手を高く上げる。(ハバクク書大3章9~10節)ヨルダン川の源流はNahr Bareighitである。

 (ロートシルト=ロスチャイルドの原型)エルサレムの高利貸し。若いアラブ人に金を高利で貸す。当時ヨルダンとパレスチナは同じ貨幣を使用していたが印刷はロンドンでなされた。「この人々は皆彼に対して嘲りのことわざを歌い謎の風刺を浴びせる。災いだ,自分のものでないないものを増し加える者は。いつまで続けるのか/重い負債を自分の上に積む者よ。」(ハバクク書第2章6節)

 エルサレムの北の郊外にある王のワイン絞り器と呼ばれた皮のなめし池でへゼキアの時代から信じられていた。ゼカリア書第14章10,11節参照)

 ここはベツレヘムの道。後方に見えるのはダビデの塔などの要塞。外典のマカバイ書Ⅰ第1章33節には詳しく出ている)

 マカバイが避難民を発見したTEKOAの砂漠。(マカバイ書Ⅰ:第9章33節)

 マカバイ時代のパレスチナ

ヘロデ・アグリッパ(HEROD AGRIPPA)によって建てられたエルサレムの壁。壁の崩壊とはアグリッパの壁,あるいは,ダビデの最初の壁と区別する意味で第三の壁と呼ばれる。パウロがバルナバ(Barunaba)を伴ってエルサレムへの帰路見たのはこの壁か?

 イコ二オン(ICONIUM)でも同じように,パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが,その結果,大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った。(Acts・使徒言行録第14章1節)。イコニオンは11世紀からSeljuk Empireセルジューク朝首都であった。上の写真のモスクは現在博物館となっている。

 ヨエル書は「いなごによる荒廃」ではじまる。”THAT WHICH THE LOCUST HATH THE LEFT"

わたしのぶどうの木を荒らしわたしのいちじくの木を引き裂き皮を引き剥がし,枝を白くして投げ捨てた。(ヨエル書第1章7節)

 TOMB OF HOSEA(ホセヤ,あるいはホセアの墓)。Hoseaはアラビア語ではOSHAという。

 山羊の毛で出来た衣服をまとったべドウインの女性が朝のパンを焼いているところ。「彼らは皆,姦淫を行う者 燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると脹らむまで,火をかき立てずにじっと待つ。(ホセア書第7章4節)

 過去のシオン(ZION)の栄光を嘆くユダヤ人たち。寺院の立ち並ぶ(Haram-esh-Sherif)の南西側にこの壁はある。金曜日の日没,祭りの前日に彼らはここで詩篇(PSALMS)や哀歌(LAMENTATION)を朗読する。写真の一番下の大きな石はヘロデ王時代のもので紀元70年の破壊によっても壊されなかった。ということはヘロデ・アグリッパ(HEROD AGRIPPA)によって建てられたエルサレムの壁と考えてよい。壁の崩壊とはアグリッパの壁,あるいは,ダビデの最初の壁と区別する意味で第三の壁と呼ばれる。

 "THE TOP OF CARMEL SHALL WITHER"(カルメルの山の頂は枯れる)「主はシオンからほえたけりエルサレムから声をとどろかされる。羊飼いの牧草地は渇きカルメルの頂は枯れる。(アモス書第1章2節)

 「カルメル山(カラメルざん、ヘブライ語: הר הכרמל‎、Karem El/Har Ha'Karmel、アラビア語: جبل مار إلياس‎、Jabal Mar Elyas)は、イスラエルハイファ地区ハイファにある山である。

イエス・キリストの再来の地とされ、キリスト教の聖地の一つである。現在ではバハイ教の聖地として「万国正議院」やバハイの寺院、インターナショナルティーチングセンターがある。カルメル山の中腹にはいまだにキリストの再来を待つドイツ人たちの街がある。」(Wiki日本語より)


豪華な家と贅をつくしたサマリアはアモスによって否定される。「わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び,大邸宅も消えうせると主は言われる。(アモス書第3章15節)。このような記述は最初列王記Ⅰ第22章39節で書かれている。つまり「イスラエルの王の歴代誌」に書かれているという旨。

 イスラエル建国前のGAZA.アモス書第1章にあるペリシテ(Philistia)とは古代ガザのこと。古代ガザであるペリシテの最南端,つまりエジプトからバビロンへの道は「奴隷交易」の中心でもあった。アモス書はペリシテ人をすべて捕囚しエドムEDOM)へ連行する(引き渡す)。


 竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。(アモス書第6章5節)

 TEKOAの遺跡はアモスの生誕地でありそこへ行くにはベツレヘムから馬ないしロバで行くしか方法がなかった

 古代ニネベ(Nineveh)の遺跡の中(Tigrisの東岸)にNeby Yunus(預言者ヨナ・Jonah)の墓がある。しかしここを訪れた人たちはヨナの本当の墓はCRYPTあると知らされる。


ユダヤ人教会(Synagogues)のユダヤ人巡礼者の新年にはミカ書第7章18~20節に由来すPropitiatory rite of Tashlikという儀式を水の流れの前で行う。前列の人が読んでいるのは勿論ミカ書の一節である。「あなたのような神がほかにあろうか..........すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか,ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示してください。その昔,我らの父祖にお誓いになったように。」

Image of TASHLIK Ceremony in Galicia

 ナホム書第3章8,9節参照)

 オリーブからオリーブオイルを搾りとっている光景。ヨエル書第3章13節参照と言いたいのですが「新共同訳」は5節まででカット。なぜなんでしょうね?カトリックとプロテスタントの共同訳ですから色々あるのかもしれません。こういうのを聖書の改竄というのでしょうか。World English Bibleにはちゃんとありますよ。
 
 
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