落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

いこひの水濱

2008年02月14日 | book
『ぼくと彼が幸せだった頃』 クリストファー・デイヴィス著 福田廣司訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4152077395&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

ゲイ小説特集。続きまして。
小説にもいろんなジャンルがあると思うんだけど、娯楽小説でありつつ社会派小説でもあることもできるのが、ゲイ小説の特徴のひとつだとぐりは思うのだが、正直にいってそれほどマジメな読書家ではないのであまり自信がない。どーでしょーね?
この『ぼくと彼が幸せだった頃』も先日読んだ『ウィークエンド』と同じくエイズ、それも80年代、エイズが不治の病、死病だった時代を題材にしている。しかも、エイズで死期の迫った青年の一人称で、彼本人がそれまでの半生と恋愛を回想するという形になっている。ずばり真正面からエイズを描いているというわけだ。

とはいえさほどシリアスでもなければシビアな物語でもない。読んでいて疲れを感じたりするような作品では決してない。そこがミソだ。
主人公は1960年、コネチカット州の裕福な家のひとり息子として生まれ、ピアノやロッククライミングを愛する健康的な男の子として何事もなく大きくなった。コロンビア大学に進学し、大学院を経て銀行に就職し、両親と同じく経済的に恵まれた生活を手に入れる。そして燃えるように激しい恋をする。彼が人生でもっとも輝かしい年齢を過ごしたのは70〜80年代、ニューヨークのゲイシーンが今を盛りと最も華麗に咲き乱れていた時代だった。
若く知的でハンサムで優しくて素直で純粋でエリートで、主人公アンドルーは「女とではなく男と寝るという点を除き、ゲイであることがストレートであることとなんら変わらないものであってほしい(113p)」と誰もが願うような好青年だった。そして読者にとっても、もし、わたし/あなたが80年代にゲイでエイズ患者だったら、彼のように生き/死にたいと誰もが願うような夢のキャラクターである。そういう意味ではこの小説は間違いなくメロドラマだ。

だがこの小説が単なるメロドラマに終わらないのは、ここに書かれた理想のゲイ青年像、理想のエイズ患者像が、たわいもない夢幻ではなく、現実にゲイ/エイズ患者にとっては切実に必要とされている理想だという事実があるからだ。
アンドルーや恋人のテッドはゲイであることを家族や友人に受け入れられて充実した人間関係を築くことに成功し、エイズを発症してからもたくさんの人々に支えられ励まされいたわられて、安らかに黄泉路へ旅立っていく。彼らは幸運でもあったのだろうが、その幸運は、彼らがゲイでさえなければ、ストレートであればごく当り前に享受できるはずの権利にほかならない。彼らがゲイだから、この小説に書かれた最期が「幸運」な「ファンタジー」に見えてしまうのだ。
つまりこの物語は、幸せな死というファンタジーを通して現実の矛盾を描いている。こういう表現は現代小説の他のジャンルでは、なかなか難しいのではないだろうか。

そういううんちくは別として、この小説には人を愛すること、いつくしむことのあたたかさが満ちあふれている。
ゲイであろうがなんであろうが、生きていることは素晴しく、生きている限り、人は自らを誇り胸を張って自身をさらけだす権利を皆もっている。
そんな当り前のことに胸が熱くなる、感動的な本でした。
デイヴィスの旧作『ジョゼフとその恋人』もこれから読んでみようと思います。

1年後の夏休みに

2008年02月12日 | book
『ウィークエンド』 ピーター・キャメロン著 山際淳司訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4480831681&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

1歳前のローランドの発育を心配する40歳のマリアンとジョンは、週末にジョンの弟トニーのパートナーのライルを招待した。ライルはその週末に交際し始めたばかりのロバートを同伴した。ロバートはまだ24歳で、ちょうど1年前にトニーを亡くしたばかりのマリアンは混乱する。
誰もが日常を離れて本来の自分に向かいあう夏の週末の喧噪を、ニューヨーク郊外の自然豊かな田園地帯を舞台に、亡くなって間もない人物を回想する親族たちの、穏やかでナイーブなやりとりの中に繊細に描き出した小説。

ときどき、まわりの人間はみんな完璧なのに、自分だけが完璧じゃないような気がして、ひどく不安になることがある。
子どものときからそうだった。物心ついたときには、いつもそのことに怯えていた。大人も子どもも誰も彼もが、何でも知っていて何でもできて、ものがよくわからなかったり、うまくやれなかったりするのは自分ひとりなんじゃないか、ずっとそう思っていた。
大人になるにつれ、完璧な人間なんかいなくて、もしそうみえるとしたら、それはたまたま偶然そんな風に思えるだけだったり、その人が完璧を装っているだけなのだということに思い当たるようになり、自分が完璧じゃないことに怯えなくてもいいと考えるようになった。
それでも、今でもときどき、自分の不完全さがおそろしくなることがある。そんなこと怖がったって何にもならないのに。

もちろん、完璧な人間なんかいない。
だがトニーを亡くした3人の男女─マリアン、ジョン、ライル─は完璧であろうとすることに囚われ、自らを頑なに縛りつけている。
彼らは誰に対しても優しくあろうとし、同時に正直であろうとつとめる。同時に知的であることや、男らしくあること、女らしくあること、誠実であることにも頑張ろうとする。
しかしそうまで完璧でいるには、彼らはあまりにも純粋で繊細すぎた。トニーが、亡くなったハンサムな弟が、永遠に彼らの一部をはぎとって持っていってしまったかのように。
彼らはトニーを愛するあまり、自分の愛情が完璧でなかったことを悔いているのだ。そのせいで新たな愛=トニー後の愛─ローランド、ロバート・・・─に対して臆病になっている。大人になると人は何にでも慎重になるが、慎重になることと臆病になることは違っているようでそっくりだ。
もちろん、完璧な愛なんかも存在しない。
それに、どう愛そうと、死んだ人は戻っては来ない。

親しい人を亡くした哀しみを、年月というフィルターを使ってさわやかにあたたかく描いた佳作。
読んでいて、素直に泣けました。
感動ってほどのことはないけど、共感しました。

おじいさんとおばあさんの思い出

2008年02月11日 | movie
『胡同の理髪師』

故宮の裏手、最近ではオシャレなレストランやバーが軒を連ねるナイトスポットに変わりつつある什刹海界隈の胡同で、昔なじみの老人たちを訪ねて散髪をする出張理容師のチンさん(靖奎チン・クイ)。
北京の中心地にあたるこの地域にも開発計画が持ち上がり、近隣の家々には次々と取り壊し命令が下される。下町では高齢化が進み、チンさんの顧客たちもひとりまたひとりと世を去り、あるいは住み慣れた家を出て子どもに引取られていき、残った友だち仲間の輪もだんだん淋しくなっていく。

主役の靖奎氏は実際に80年以上北京で働いている現役理髪師。他の出演者も多くが素人役者なのだそうだ。
登場人物のほとんどが60歳以上の高齢者。こういう映像をみていると、人の顔に刻まれた年輪ほど能弁なものはないなとしみじみ思う。演技なんかできなくても、激動の20世紀を生き抜いた彼らの息遣いや眼差しだけで、観ている方は胸がいっぱいになってくる。年をとることは生き物としては衰えることではあるが、人のうえにふりつもる年月にはそれ以上の意味がある。この映画を観ているととくにそのことを強く感じさせられる。

観る前は、古い下町を舞台にした人情ドラマなんて、しめっぽくてべたべたとセンチメンタルな映画なんじゃないかと思ってたんだけど、杞憂でした。おもしろかったよ。とっても。
ものすごく静かで淡々としてるんだけど、ところどころにこそっと笑えるユーモアもあるし、全体には意外とドライなタッチで描かれている。お年寄りの素のキャラクターを実に上手に活かして、できる限りそのままを切り取って繋ぎあわせるような、人を大切に大切に撮った映画という感じ。画面全体に、人生の先輩たちへの限りない敬意と、去りゆく者への喝采が満ちあふれている。そういうのは素直に心あたたまります。
とはいえ、高齢者賛美一辺倒なおしつけがましさもなくて、写真写りをマジメに気にしたり、しょっちゅう櫛をとりだして髪を整えたり、年齢に関係なく身だしなみを重視するおじいちゃんの姿をコミカルに表現しているシーンもちゃんとあったりする。そういう人物描写の面ではきちんとバランスのとれた、なかなか完成度の高い映画になっている。

観ている間、去年亡くなった祖母に会いたくて仕方なくて、何度も涙が出た。
物語自体はまったくそういう内容じゃないんだけど、主役の靖奎氏の、痩せて小柄で小さな白髪頭をぱっつんと切ったヘアスタイルや、腰を曲げてほろほろと歩く後ろ姿や、働き者の大きなごつごつした手や、ふるえるような細いやさしい声が、いちいち祖母を思いださせる。
靖奎氏は1913年生まれ。祖母よりみっつ年下だ。これからも元気で、長生きしてください。
ところでこの映画、女性の登場人物が極端に少なく、出て来ても親切ごかして欲の突っ張った隣人とか、老人をゴミでもみるような目つきで見下す嫁とか、ろくでもないキャラクターばかりである。
哈斯朝魯(ハスチョロー)監督、もしかして、女性、キライですかね?これ以外にもなんとなく女性嫌悪をにおわせるカットがところどころにあったんだけど・・・。

はばたける魂

2008年02月10日 | book
『潜水服は蝶の夢を見る』 ジャン=ドミニック・ボービー著 河野万里子訳
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4062088673&linkId=c3b9d4319fb861bb5fedec1eda9cfbaa&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>

現在上映中の映画『潜水服は蝶の夢を見る』の原作本。
東京国際映画祭の上映時に翻訳者の河野氏が舞台挨拶に登壇し、翻訳作業を通じて知った著者を「もし生前に出会っていたら恋に堕ちていただろう」と評していたのだが、まさしくその賛辞に相応しい、すばらしく魅力的で知的でユーモアにあふれた、美しいエッセイだ。
内容は映画と異なる部分も多いのだが、読んだ印象はおどろくほど映画とぴったり一致している。まさしく蝶が翼をはためかせるような軽やかなきらめきに満ちて、ほんのりとセクシュアルで、しっとりとさわやかにみずみずしい。
読んでいて、河野氏でなくても「もし生前に出会っていたら恋に堕ちていた」に違いないと確信させる、チャーミングな男性像がページの向こうにいきいきと浮かび上がって見える。

それにしても、ほんとうにほんとうに美しい本だ。
著者ジャン・ドーはロックトイン・シンドローム(知力・感覚に障害のない全身麻痺状態)に陥ってから、アルファベットを使用頻度順に唱えてもらい、使いたいアルファベットのところで唯一動く左目のまぶたを閉じて言葉をつむぐというコミュニケーション手段でこの本を書いた。
E S A R I N T U L O M D P C F B V H G J Q Z Y X K W
ウ エス ア エール イ エヌ テ ユ エル オ エム デ ぺ セ エフ べ ヴェ アッシュ ジェ ジ キュ ゼッド イグレック イクス カ ドゥブルヴェ
自ら文字を綴るどころか声を発することもできなくなったジャン・ドーだが、それでも彼は変わらず文字と言葉をこよなく愛していた。
人生を愛し、恋を愛し、文学や食べ物や酒を愛し、子どもたちを愛したのと同じように、言葉をつむぐ心の自由を、精一杯命の限り愛していた。

そんな彼の率直な心の歌は、これまでに聴いたどんな歌よりも見事に、聴き手の心を酔わせ、あたため、すがすがしい涙をとめどもなくあふれさせる。
読んでいるときは、著者が身障者であることなど忘れて熱中してしまうのだが、読み終わって「ベルク海岸にて、一九九六年七月─八月」という末尾の文字を目にしたとき、ジャン・ドーがひらひらと空の彼方に飛び去っていくのを感じたとき、胸の奥に花火のように感情が爆発した。
魂の限りを燃やし尽くして生きることは、どこにいても誰にでもできる。しかしそんな人生をほんとうに生きる人は少ない。少ないから美しいというわけではないけれど、やはりそんな命の輝きはどんな宝石よりも目映い。

作中でジャン・ドーが旅行中に読んでいた『蛇の通った跡』という本が読みたくなったけど、邦訳は出てないみたいで残念。
映画は一度観ているが、原作を読んでますます再見したくなった。
ジャン=ジャック・ベネックス監督が撮影した生前のジャン・ドーとクロードのドキュメンタリー映像『潜水服と蝶』はこちらで一部を配信中。
ちなみに現在ではこの方法を応用した光学式のコミュニケーションシステムが研究されており、全身麻痺の障害者でも介護者なしに言語を発することができる技術の開発が進んでいる。

悪魔の素顔

2008年02月09日 | book
『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』 アドルフ・ブルガー著 熊河浩訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4022503866&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

史上最大の贋札事件・ベルンハルト作戦に従事した囚人本人によるドキュメンタリー。
先日観た映画『ヒトラーの贋札』の原作?原案本。
つーても自伝とかエッセイとか回想録といったよーなパーソナルな書物ではない。そーゆー意味では『戦場のピアニスト』とは違う。
冒頭こそブルガーの生立ちから政治犯として逮捕されるまでの個人の目線で語り始めているが、全体は彼自身が経験した強制収容所の実態と、ベルンハルト作戦の立案からトプリッツ湖での捜索まで、作戦の全容を体系的に書いている。

文体が簡潔で非常にわかりやすい、誰にでも簡単に読めるいい本だ。写真やイラストやグラフなど図版もふんだんに掲載されている。
しかしこの本を読むと、映画がいかに優れた翻案だったかに改めて舌を巻かざるを得ない。なにしろ映画の主人公サリーは、この本では完璧なネガをつくる贋作師としてほんの数ページに登場するだけなのだ。著者がスロヴァキア人でサリーはロシア人というバックグラウンドの違いもあったろうとは思うけど、つまりは映画に描かれたサリー像はほぼフィクションに近いということになる。
サリーだけではない、映画の物語そのものも、史実とはかなり異なっている。まったく大胆な改編だし、それであれだけきっちりおもしろい映画に仕立ててるってとこはスゴイと思う。ドイツ/オーストリア映画おそるべし。