今日はお彼岸・・・って言うか、春分の日。
で、日本全国お墓参りの日になっている感じなんですが、私しゃ訳あって彼岸中の墓参りはしません。
でも、せっかく高いお金を払って奇抜な墓石を立てたんでたまには見に行きますけれども、先祖の供養とか、そんな気持ちで立てたモノでは無いのです。
ナント申しましょうか、割りと早くに父を亡くしたんですが、我が家は出稼ぎのまま居着いてしまった移民族なんで本当の墓は少し遠くにあった訳です。
それだと母ちゃんも墓参りに行くのとか面倒だろうし、いずれは以前の本籍地とも縁が薄く遠くなり墓の守も大変だからと言う事で私の一存と多大なる出費で我が家の近くに移しちまった訳です。
まっ、そんな経緯なんですが、そうこうしているうちに母ちゃんがバテレンの宗教にハマっちまいまして、洋式に転向しちまった訳です。
そんな事も手伝ってか、殆ど墓参りにも行かず、そして、昨年、西洋の宗教に気触れたまま逝ってしまったのでありました。
余談ですが、放って置いても何となく私は仏教徒、と思い込んでいる日本人が多いんですが、バテレンの宗教はもの凄い努力で勧誘して歩いてますので・・・いや、エボバに限らず街の隅っこの小さな教会とかでも様々な啓蒙と勧誘はやってますよ。
なので私の母ちゃんのように学も無く確固たる信念も薄かったナンチャって仏教の徒は熱心なお誘いに乗って改宗しちまうんですね・・・いや、元々仏教の基盤なんてなにも無いんですから、なんか心地良い話しを得々と吹き込まれ、信心すればあなたの逝くのは天国じゃぁ~、とかやられたら、取り敢えず高いお布施も無用のようだし、一丁信心しちまいますか? と、なると思うんですよね。
私しゃ何度か浄土信仰をぶっつけてみたんですけれども、何分にも宗教の勧誘とかはシロートなんで結局はバテレンに負けた感じであります。
それと母ちゃんと話しをしていて感じたのは、仏教を値踏みする時に「現世利益」を考えていると思う節が有った訳です。
簡単に宣いますと、仏様に手を合わせて生きて来たけれどもあんまし良い人生じゃなかったなぁ~・・・と、言う厭世観みたいなものが底にあって、その隙間を何かしら耳障りの良い宗教話で埋めてもらえるとななって、バテレンの宗教と言うよりは、相手に気持ちを持って行かれちまうと思う訳です。
まっ、この方法は仏教の皮を被ったオオカミとも言える新興宗教でも言えるんですけれども。
そんな訳でバテレンの葬式をあげてしまった我が母ちゃんには戒名が無いのであります。
更なる余談で恐縮ですが・・・自分の家の墓場は仙台市が開発して売り出した巨大な墓地でありまして、宗派の如何を問わず誰でもOKなんであります。
で、色んな墓石が有って面白いので墓参りの時には墓石見学を趣味にしている訳です。
しかし、希に、もの凄い自己主張と言いますか自己顕示欲と言いますか、これは生前に自分用に準備してあるんだろうなぁ~、と言う大迫力の墓石などに出会す訳です。
そんなのを見ますと、権力の象徴として墓の存在は今も同じか? なんて微笑ましく見る訳です。
その他にも、明らかにバテレンの宗教の方であるな、と言うのも少なく無いんですが、ドーなんだろうか? 仏式の墓に囲まれての居心地は気にならないのかな? と、思う訳です。
いや、この手の宗教と思しき雰囲気の墓石も何処となくそれらしくは装っていますが、決してキッパリと外国のように十字架は立てていないのであります・・・ここら辺に日本人の心と言いますか、死して尚調和は乱さず、みたいな物を感じたりする訳です。
さて、とても長い前置きを振っちまいました・・・話題は彼岸であります。
東洋に仏教国多しと言えどもお彼岸の習慣があるのは日本だけであります。
そもそも、日本的大乗では、仏教と言えば葬式であり、個人の弔いが主たる目的になっちまっていますが、小乗でも大乗でも、仏教と言うのは仏様の教えに従い暮らすと言うのが趣旨であります。
と、言う事で、彼岸を仏教的に語ると言うのは出来ない訳でして、言っちゃぁナニですが、河童の話しや天狗様の話しと同列になっちまう訳です。
と、言う事で、仏教的には彼岸なんてのはそんなモノです。
しかし、誤解されるとアレなんで宣っておきますが、墓参りを否定している訳ではありません。
日本式仏教行事として取り込まれる以前からの儀式として春分の日を祭る行事は有った訳でして、それとともに先祖信仰の祀りも為されていたのでありますから、墓参りはとても良い事だと思っております。
いや、この事はそっくりお盆とも重なる話しでありまして、日本以外の国の仏教とは随分違うと否定しても詮無き事・・・日本じゃ仏教はこう変化したんだから仕方が無いじゃないか、と言うのも否定はしません。
でも・・・でもが付く訳です、がぁ~・・・。
ご先祖に心から感謝し、お祀りしたい心の現れとして墓が欲しければ立てれば良いし、戒名が有った方が良いと思えば付ければ良い訳です。
そもそも戒名は仏様の弟子になると言うことで本来は生前に僧籍にある人が貰うもんであったそうで、生前に仏弟子になると決めていた方なら話しは簡単なんですが、中々生前に意思表示って・・・ドナーのアレじゃないんで無いでしょ?
で、ナント申しましょうか・・・貴方様は御神籤を引いて中身を信用しなくても、読み終わった御神籤をゴミ箱に捨てられますか?
なんか嫌な感じがしてそんな事は出来ませんよね・・・木の枝なんかに結んできますよね。
そんな感じで自分の気持ちが落ち着くんなら戒名も有って良いと思うんです。
今ならインターネットで探すと本物の坊さんに格安で付けてもらえますから、それで良いんじゃないんですかねぇ?
私は自分の母親の戒名を無理矢理考えて墓石に刻んじまおうと企んでいます。
いや、そうしないと母ちゃんは戒名貰ってお浄土で遊んでいる父ちゃんに会えないんじゃないか? なんて思う・・・いや、ここまでの説明が無駄になりますんで止めましょう。
で、日本全国お墓参りの日になっている感じなんですが、私しゃ訳あって彼岸中の墓参りはしません。
でも、せっかく高いお金を払って奇抜な墓石を立てたんでたまには見に行きますけれども、先祖の供養とか、そんな気持ちで立てたモノでは無いのです。
ナント申しましょうか、割りと早くに父を亡くしたんですが、我が家は出稼ぎのまま居着いてしまった移民族なんで本当の墓は少し遠くにあった訳です。
それだと母ちゃんも墓参りに行くのとか面倒だろうし、いずれは以前の本籍地とも縁が薄く遠くなり墓の守も大変だからと言う事で私の一存と多大なる出費で我が家の近くに移しちまった訳です。
まっ、そんな経緯なんですが、そうこうしているうちに母ちゃんがバテレンの宗教にハマっちまいまして、洋式に転向しちまった訳です。
そんな事も手伝ってか、殆ど墓参りにも行かず、そして、昨年、西洋の宗教に気触れたまま逝ってしまったのでありました。
余談ですが、放って置いても何となく私は仏教徒、と思い込んでいる日本人が多いんですが、バテレンの宗教はもの凄い努力で勧誘して歩いてますので・・・いや、エボバに限らず街の隅っこの小さな教会とかでも様々な啓蒙と勧誘はやってますよ。
なので私の母ちゃんのように学も無く確固たる信念も薄かったナンチャって仏教の徒は熱心なお誘いに乗って改宗しちまうんですね・・・いや、元々仏教の基盤なんてなにも無いんですから、なんか心地良い話しを得々と吹き込まれ、信心すればあなたの逝くのは天国じゃぁ~、とかやられたら、取り敢えず高いお布施も無用のようだし、一丁信心しちまいますか? と、なると思うんですよね。
私しゃ何度か浄土信仰をぶっつけてみたんですけれども、何分にも宗教の勧誘とかはシロートなんで結局はバテレンに負けた感じであります。
それと母ちゃんと話しをしていて感じたのは、仏教を値踏みする時に「現世利益」を考えていると思う節が有った訳です。
簡単に宣いますと、仏様に手を合わせて生きて来たけれどもあんまし良い人生じゃなかったなぁ~・・・と、言う厭世観みたいなものが底にあって、その隙間を何かしら耳障りの良い宗教話で埋めてもらえるとななって、バテレンの宗教と言うよりは、相手に気持ちを持って行かれちまうと思う訳です。
まっ、この方法は仏教の皮を被ったオオカミとも言える新興宗教でも言えるんですけれども。
そんな訳でバテレンの葬式をあげてしまった我が母ちゃんには戒名が無いのであります。
更なる余談で恐縮ですが・・・自分の家の墓場は仙台市が開発して売り出した巨大な墓地でありまして、宗派の如何を問わず誰でもOKなんであります。
で、色んな墓石が有って面白いので墓参りの時には墓石見学を趣味にしている訳です。
しかし、希に、もの凄い自己主張と言いますか自己顕示欲と言いますか、これは生前に自分用に準備してあるんだろうなぁ~、と言う大迫力の墓石などに出会す訳です。
そんなのを見ますと、権力の象徴として墓の存在は今も同じか? なんて微笑ましく見る訳です。
その他にも、明らかにバテレンの宗教の方であるな、と言うのも少なく無いんですが、ドーなんだろうか? 仏式の墓に囲まれての居心地は気にならないのかな? と、思う訳です。
いや、この手の宗教と思しき雰囲気の墓石も何処となくそれらしくは装っていますが、決してキッパリと外国のように十字架は立てていないのであります・・・ここら辺に日本人の心と言いますか、死して尚調和は乱さず、みたいな物を感じたりする訳です。
さて、とても長い前置きを振っちまいました・・・話題は彼岸であります。
東洋に仏教国多しと言えどもお彼岸の習慣があるのは日本だけであります。
そもそも、日本的大乗では、仏教と言えば葬式であり、個人の弔いが主たる目的になっちまっていますが、小乗でも大乗でも、仏教と言うのは仏様の教えに従い暮らすと言うのが趣旨であります。
と、言う事で、彼岸を仏教的に語ると言うのは出来ない訳でして、言っちゃぁナニですが、河童の話しや天狗様の話しと同列になっちまう訳です。
と、言う事で、仏教的には彼岸なんてのはそんなモノです。
しかし、誤解されるとアレなんで宣っておきますが、墓参りを否定している訳ではありません。
日本式仏教行事として取り込まれる以前からの儀式として春分の日を祭る行事は有った訳でして、それとともに先祖信仰の祀りも為されていたのでありますから、墓参りはとても良い事だと思っております。
いや、この事はそっくりお盆とも重なる話しでありまして、日本以外の国の仏教とは随分違うと否定しても詮無き事・・・日本じゃ仏教はこう変化したんだから仕方が無いじゃないか、と言うのも否定はしません。
でも・・・でもが付く訳です、がぁ~・・・。
ご先祖に心から感謝し、お祀りしたい心の現れとして墓が欲しければ立てれば良いし、戒名が有った方が良いと思えば付ければ良い訳です。
そもそも戒名は仏様の弟子になると言うことで本来は生前に僧籍にある人が貰うもんであったそうで、生前に仏弟子になると決めていた方なら話しは簡単なんですが、中々生前に意思表示って・・・ドナーのアレじゃないんで無いでしょ?
で、ナント申しましょうか・・・貴方様は御神籤を引いて中身を信用しなくても、読み終わった御神籤をゴミ箱に捨てられますか?
なんか嫌な感じがしてそんな事は出来ませんよね・・・木の枝なんかに結んできますよね。
そんな感じで自分の気持ちが落ち着くんなら戒名も有って良いと思うんです。
今ならインターネットで探すと本物の坊さんに格安で付けてもらえますから、それで良いんじゃないんですかねぇ?
私は自分の母親の戒名を無理矢理考えて墓石に刻んじまおうと企んでいます。
いや、そうしないと母ちゃんは戒名貰ってお浄土で遊んでいる父ちゃんに会えないんじゃないか? なんて思う・・・いや、ここまでの説明が無駄になりますんで止めましょう。