あれです、今日は阪神淡路大震災から27年目のあの日、なんですね。
いろんな人がいろんな思いで迎えたでありましょう27年目の本日・・・私ゃ追悼の意とともに思い出すのはあの日の朝のことであります。
自分はインドネシアはバリにいまして、朝飯を食べ、ホテルのロビーのテレビでニュースを見ていたわけです。
すると大地震で倒れた高速の高架橋が映って驚きつつも、ああアメリカの西海岸とか、そこら辺かな、と思ったわけですが、どーもKOBE JAPANと言っている風に聞こえたのでじーっと聞き入ると・・・あー間違いなく日本だわ!!! 神戸が地震で潰れたわ、と腰を抜かすほどに驚いたわけであります。
これはヤヴァイぞ・・・どーしよう、と焦りまくっても手の打ちようも無いわけでして、覚悟を決めた日でもありました。
いや、スキューバーダイビングの遊びで行っていたんですが、サラリーマンだった自分は6日間の休みを取るために架空の親族を殺して休んでいたわけであります。
で、なんで神戸がアレだと困るかと言うと、私ゃとある業界で神戸が担当だったので速攻で会社に連絡を入れ、その後の対策を取らなくてはならない立場だったのであります。
あれです、今と違って携帯で海外ローミングなんて有り得ませんし、迂闊に国際電話など掛けようもんなら国外に居ることがバレちまうし、と四面楚歌だったんであります。
まっ、翌日日本に戻って遅ればせながらアレコレと手を打ってなんとかなったわけですが、私にとっての阪神淡路大震災と言うと思い出すのはこのことでありまして、とても不謹慎な記念日なのであります。
1月17日の朝日は何故か不気味な紅でした
いや、詭弁以外の何物でも無い・・・バカヤローと言いたい記事であります。
まっ、だったら取り扱うなと言われるとアレなんですが、まっ、いいでしょう。
いや、老化が治るなら死なないって事じゃねぇか、と思うんですが違いますか?
仕組みがありそうだということがわかってきた。
結果的に老化を引き起こしているということがわかってきているという。
若いときと同じクオリティーで生活できるようになるかもしれません。
ありそうだ、がわかってきた、かもしれません・・・ですとぉ。
まっ、タイトルにも「可能性」とあるんで大きな釣り針に引っかかった自分がバカってことですが、まっ、いいでしょう。
この記事は今朝、トイレでじっくりと読んだものであります。
で、読み終えた感想として、九分九厘賛成でして、すぐに著書も手配し、深く嵌る予定であります。
格差の根拠とされているものや、『格差はなくせる』という考え方が虚構である」と論じる。
そのとおーり!!!
いや、頭の良い人ってのは自分などが漠然と感じるモヤモヤをきっちりと体系的に言語化できるから凄いと思います。
格差は経済問題ではなく、根本的には心理の問題であり、人間のアイデンティティのあり方に関係している。差別と同じです。差別もなくならない。形態や対象は変わるけれども、差別自体はどこの社会にもある。悪についてもそうです。犯罪がなくなる社会はありえない。むろん、人間はなくそうとする努力もせずにはいられない。社会心理学の研究でこういうことはいくらでも言われている。
いや、抜粋したい箇所はナンボでもあるんですが切りが無いのでほどほどにしますけれども、ご用とお急ぎの方も是非ご一読してみやがれ、と言いたい記事であります・・・いや、ホントです。
仏教は「あきらめるとラクになる」と説きます。つらい、苦しいと感じるのは執着があるからだ、欲望をなくせ、と。しかし、人々から煩悩や欲望が消え去れば、社会は何も動かなくなる。時代の流れが止まる。そんな世界を誰が望むのか。
私ゃ楽になりたくて仏教に傾倒した時期がありまして、相当な数の本を読んだわけです。
で、今でも嫌いじゃ無いものの見方の一つではありますが、現実との乖離は否めず理想論だよなぁ、なんて常々思っているわけです。
いや、全員が出家したら生産性ゼロの社会で飯は誰からもらう?
喜捨やお布施は仏教とは別の現実社会があってこそ成り立つ矛盾をどーすんだ、と私ゃ考えたわけですが、この記事では、社会が動かなくなり時代の流れが止まるのを誰が望むか、と簡単に切り捨てるわけでして、そーだよなぁ〜と、納得させられちまった次第でありますが、まっ、いいでしょう。
おおっと、適当なことを宣っていたら既に8時40分を過ぎてました !!!
足腰膝の養生のためにさっさと布団に潜らなければなりません。
では、宴もたけなわでは御座いますが、皆様と自分の明日がそこそこ良い日でありますように願いまして、おやすみなさい、と。