北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

なぜ声をあげない?プルサーマル反対

2010-11-24 | 脱原発
 「志賀原発で今度、プルトニウムを使った何か新しいことやるそうやけど、珠洲は大丈夫ながけ?反対せんでいいんかね?」

 もちろん志賀原発のプルサーマル計画のことである。
 
 連日、かつて珠洲原発反対運動を共にたたかった人たちのところを回っているが、原発の話題が出たのは実は今日が初めてだ。

 頻繁に珠洲に入って一緒に反対運動をたたかった慶応大学の藤田祐幸さんが、当時こんなことを言っていた。
 「全国の仲間が応援して原発計画を終わりにすると、その地域の人は他の地域の原発反対運動にぱったり顔を出さなくなる」

 その時は珠洲原発が終わりの日を迎えて、そんな風に嘆かれてみたいと思ったものだが、実際、2003年12月の「凍結」で事実上の終わりの日を迎えてから、推進派の人たちも「原発の夢よ、もう一度」とは言わないし、反対派の人たちも原発問題に触れなくなった。いわんや、他地域の反対運動に出かける人もほとんどいない。

 たまたま私は平和運動センターの仕事の関係もあり、六ヶ所村や東海村、柏崎、もんじゅ、玄海などなどあちこちに出かけ、かつてお世話になった皆さんに挨拶する機会があったが、志賀原発のたたかいでも珠洲の人を見かけることは稀である。

 理由はいくつかあると思う。 
 原発問題の終わりとともに反原発団体も解散し、財政基盤も含め組織的な対応が難しくなることもある。情報が入りにくくなることもある。非日常の「反対運動」から近所付き合い、親戚付き合いも含め「日常」の人間関係、職場関係を修復するだけでもかなりの労力を要する。「ポスト原発」の地域課題に追いまくられるということもある。
 何より、原発問題の決着を迎えるにあたって、私自身、地域の中に「勝ち組」と「負け組」を作ってはいけない。ポスト原発の一番の課題である地域の融和には、反対派側こそ言動に気をつけて対応していかなければならないと仲間の人たちに訴えてきた。
 基本的には間違っていたとは思わないが、結果的に原発問題をタブーにしてしまったのも事実である。

 かつて、反対運動が盛んな頃は、日本各地の原発情報どころか、アメリカ・カリフォルニアのランチョセコ原発が住民投票で廃炉になって喜び、ラ・アーグ再処理工場周辺で白血病が増えていると聞いて哀しみ、怒った珠洲の人たちが、志賀原発の事故に無関心になったり、海外への原発輸出に異議を唱えなくなったとしたら悲しすぎる。
 無関心ではなく、声をあげる場がなくなったんだと思いたかった。

 そんな中、今日、80歳近くなったKさんから「黙っとっていいいんかな、おかしいな」と思ってたという冒頭の言葉を聞いた。私の顔を見て、つい日ごろの疑問が口をついて出たのかもしれないが、すごくホッとした思いである。

 原発を過疎地に押し付ける不条理に怒り、地域の将来を憂い、地球レベルでの環境問題を憂い、子どもたちの将来に負の遺産を残してはならないとの思いで全国の仲間と連帯して懸命にたたかった経験は普遍的な価値をたくさん内包した運動だったと思う。
 その価値観までタブーにしてしまっては、推進・反対を問わず原発問題に翻弄される中で人生の終わりを迎えていった多くの人たちに対し申し訳ないと思うのは私だけだろうか。そんなことはないと信じたい。
 


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