北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

藤井肇さんへ 私からも追悼の言葉

2014-02-10 | 雑感
 森一敏さんが「追悼 藤井 肇さん」として今月4日に急逝した藤井肇さんへの追悼文を掲載してくれた。
 藤井さんと交流のあった多くの知人、友人の皆さんにとっては、在りし日の藤井さんが鮮明に思い出されるエピソードばかりである。

 私もヤマのようにある思い出の中からいくつか紹介してみたいと思う。

 91年に県議会に入ってからは同僚の議員として活動を共にしてきたが、藤井さんとの接点は89年の珠洲原発反対運動からである。
 おそらく初対面は高屋の阻止行動か、市役所の座り込みの場だったと思うが記憶が定かではない。
 関電が高屋での事前調査の中断を表明した直後の6月18日、今後のたたかいについて相談するため、市内各地に発足した反対グループの中心メンバーが乗光寺に集まったが、そこに金沢から駆けつけた藤井さんがいたことを記憶している。
 その後の珠洲原発反対運動を担う珠洲原発反対ネットワークが発足した節目の場である。会合終了後、話し合いをずっと聞いていた藤井さんから「いろんな人が集まっての運動やから大変やなぁ」と声をかけられ、さっそくネットワークにカンパをしてもらった。

 さらにその後の動きは素早かった。芸術家仲間に声をかけ、地元の珠洲焼の陶工中山達磨さんらとともに「反原発アートオークション」を開催した。会場は国民宿舎きのうら荘。洋画や日本画、漆芸、陶芸など様々な分野の作家に作品を提供してもらい、売上金を反対運動にカンパするという企画である。
 この時のカンパでネットワークは街宣車を購入することができた。
 以後、電力撤退の日まで街宣や、時には選挙カーとしてもフルに活用した、珠洲市民にはおなじみのあの白いワゴン車である。
 藤井さんの第一印象は行動力、企画力の人であった。
 珠洲原発白紙撤回への道のりの中に大きな足跡を残していたことを、多くの珠洲市民とともに記憶に刻んでおきたい。

 91年4月、私が県議選に初当選し、県議会に入ってからは同僚議員として大変世話になった。

 まずこの年の全国都道府県議員野球大会。
 藤井さんのヤジに大いに感謝している。
 いつも1回戦負けの石川県議会チーム。国体開催地ということで、せめて一勝を、という期待がかかったが、たしか5回表を終わって3点のリードを許していた。
 5回裏、走者2人で私に打順が回る。
 「ここで打たんにゃ原発建つぞ~」
 味方チームからのヤジ。
 声の主は藤井さんである。
 つられた自民党議員も一緒になってのヤジの合唱の中、ストレートを振りぬいた打球は左中間を深く破り同点のランニングホームランとなった。

 それよりも藤井さんのおかげで何が一番助かったかといえば、その4年前から県議のイメージを覆す型破りな存在感を十二分に発揮していてくれたおかげで県庁職員には免疫ができており、珠洲原発反対を掲げ、なおかつ議会のこともよくわからない私が少々飛んだり跳ねたりするくらいは許容範囲となっていたのである。
 「わしゃそんな変な議員かぁ!」と藤井さんから叱られそうだが、藤井さんのカラオケの十八番は美川憲一のさそり座の女の替え歌。
 
 いいえわたしは変な県会議員よ 
 議員の毒はあとできく~のよ~ 

 議会質問も独特の藤井節で、何を言ってるのか、何を聞きたいのか、教養とトンチがないと理解できない。

 一番記憶に残っているのは91年の12月議会。
 少し紹介しよう。

 右近の橘、左近の桜が京都御所紫宸殿の前に植わっておりますが、今回、石川県庁にも突然ではありますが右近の橘、左近の桜が植わることになったようです。判こをもらう手間が一つふえ、決裁が遅くなるという向きもあるようですが、仕事の分担は知事が決められることです。県行政がスムーズに県民のために運営されることをお願いします。
 ところで、御所を守る戦力として、北面の武士が存在します。北面の武士といいますが、石川県庁に右近の橘、左近の桜が植わる前からおられる北面の武士の仕事は、これからどのように変わる、また変わらないのでしょうか、お考えをお聞かせください。


 解説すると、この12月議会で当時の中西知事は現在の谷本知事を自治省から、太田副知事を労働省からむかえ、初の2人副知事体制を敷いた。それを右近の橘、左近の桜に例えたのである。
 さらに北面の武士とは何を指すのか。
 これは北栄一郎氏のことである。自治省を退職した元県総務部長を県参与として迎えたのである。その処遇の狙いはなにかと詮索されており、固有名をあげず、北面の武士に例えたのである。

 質問の通告書は議会事務局を通すので、趣旨がわかるようになっていたはずだが、いきなりこの質問を聞いてもなんのこっちゃら訳がわからない。

 ところが答弁に立った中西知事もさすが大の読書家でもあり軽妙にかわしていく。

 非常に象徴的な、抽象的なお言葉でございましたから、私また受け違いするかもしれませんが、それは質問の責任か答える方の責任かよくわかりませんが、よろしくお願いいたします。

 との言葉ではじまり、

 北面の武士言われましたが、覆面の武士か北面の武士か存じませんけれども、某君を指すんだと思います。非常に有能な男でございますので、いつかも申し上げましたが、二十一世紀ビジョンのフォローアップを中心に、いろんなプロジェクトにその能力を十分発揮してもらおうと思っておるのであります。
 

 県議会に入って半年余り。こんな意味不明のやり取りにはついていけないぞ、と不安な気持ちに駆られたのを思い出す。

 森さんも取り上げていた金沢城に原発を!といった類の質問もときどき飛び出し、周囲をハラハラさせた。
 この質問には実はオチがある。
 「東京に原発を」と同じで、原発がそんなに安全なら金沢のど真ん中につくれということだが、私の記憶に間違いなければこの質問の答弁に立ったのは大蔵省から出向できていた企画開発部長、現在の金融庁長官畑中龍太郎氏ではなかったかと思う。
 畑中氏は金沢誘致の是非には触れず、金沢城址公園の敷地は原発建設に必要な面積に満たないこと、辰巳用水の流量をあげ、冷却水が足りないことを指摘し立地条件から誘致は無理だと答弁した。
 藤井さんは面積を一桁間違えていたのである。せっかくの質問が空振りで終わってしまい、さすがの藤井さんも「しもた~」と30分ほど落ち込んでいた。

 いずれにしても、たくさんの県政課題を縦横無尽に取り上げ、マシンガンのような迫力の語りで切り込んでいく。
 「金沢中警察署」という名称をみて、「金沢じゅう警察」かと思ったという指摘に象徴されるように、軽妙なたとえ話や冗談、笑い話の裏には常に権力への厳しい視線があり、裏表で常に人権、平和、環境、子どもたちや弱者への暖かい視線がある。
 
 さらに驚きだったのは、議員活動と芸術家としての創作活動の両立である。
 個展の開催や美術展への出品と議員活動を並行しておこなうパワーは恐れ入るが、やはり根っこは同じところにあったのだろう。
 
 同じく同僚議員として活動していた宮下登詩子さんが藤井さんに「よう絵を描きながら質問の原稿も書けるもんやね」と感心して声をかけたら、すかさず藤井さん、「わしゃお登詩さんみたいに漬物つけながら質問原稿書けんわい」。

 議員を引退しても生涯芸術家として創作活動をつづけ、思考はいつまでも年を感じさせなかった。
 酒を交わしながらの会話でも、あるいは作品を通じてでも、常に刺激がいっぱい。
 そんな底なしのエネルギーを感じてきたから、私は勝手に藤井さんは「死」と縁がない人だと思い込んでいた。

 深夜にお風呂に入って「生きとるかぁ」と声をかけられ「死んどるわい!」といって、本当に逝ってしまったそうだ。
 最期まで藤井さんらしい。
  


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