北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

林幹人・元珠洲市長逝去

2015-08-27 | 雑感
林幹人(はやし・みきんど)元珠洲市長が昨日亡くなられた。
珠洲市で最大の建設会社「林組」の社長から1975年県議へ、そして1985年、無競争で珠洲市長に就任。
林氏の下で珠洲原発はできるはずだった。
少なくとも当時の中西陽一石川県知事はそのために林氏を珠洲市長(候補)に指名し、関西電力、中部電力も立地推進に大きな期待を寄せた。

そんな順風満帆の林市長の人生を大きく狂わせたのが1989年の珠洲市長選挙、そしてその直後に関電が強行した高屋での事前調査に対する住民の阻止行動(30日間)、そして阻止行動と並行して行われた市役所会議室での座り込み(40日間)だった。



関電の事前調査の中止を求める住民の申し入れ(1989年5月22日・珠洲市役所3階会議室)。
林市長の姿はこの写真では左端、頭部しか写っていないが、顔は青ざめ、マイクを持つ手は震え、声は消え入りそうだった。
「原発に反対する者は市民にあらず」と権勢を誇った面影はなく、この申し入れの途中で林市長は席を立ち、その後約1ヶ月間、所在不明。



6月21日、6月議会に出席するため久々の登庁。
県立中央病院にいたことが後日判明。
この行動によって珠洲市と石川県の間に大きなヒビが入り、この不信感は2003年の電力撤退の日まで消えることはなかった。

林市長は調査再開を賭けた3期目の市長選で当選を果たしたが、私たちは「不正選挙」と訴え1996年、最高裁判決で選挙無効が確定。
林市長は失職し、やり直し選挙には立候補せず21年間の政治家人生にピリオドを打った。

近年、病床に伏しているとは聞いていたが、珠洲原発の立地を巡る最大の激動期に市長を務め、林氏しか知らない事実、林氏しか語ることのできない歴史が多々あったのはず。林氏にとっては恨み骨髄の私には到底聞き取り役は務まらないが、語ってほしいことがたくさんあった。
福島の事故をどのように見ていたかも知りたいところ。
多くの珠洲市民は「もうそんなこといいじゃないか」と言うかもしれないが、一方の当事者としては残念至極。
回顧録や自叙伝のようなものをしたためておられたなら是非とも読みたいものだ。
ご冥福をお祈りしたい。


コメントを投稿