いしかわ教育総研の第10回公開研究講座「平和教育交流集会」が来月、珠洲市内で開催される。
満蒙開拓団の団員だったTさんから戦争体験を聞く講演会がメインとなる。
集会に先立ち開拓団の慰霊碑を見学するフィールドワークもある。
という報告を先般開催された教育総研・平和教育部会で受けたが、実は私、Tさんは以前から知っているが、満蒙開拓団の一員だったことは初めて知った。
開拓団の慰霊碑については、どこにあるかさえ知らなかった。
市外からの参加者が大半の中、このまま研究講座の日を迎えてはマズイ。
旧西海村(現大谷町)から多くの人が参加したと聞いたように記憶していたので、大谷地区のTさんに慰霊碑の場所を聞いてみる。
すると「あぁ、それなら馬緤の春日神社の横にあるわ」と即座に返事がある。
1940年に満州入植後、西海村分村恵陽開拓団が結成されたが、敗戦と同時に「修羅の巷となりその辛酸は言語に絶し」と記されているように、死の逃避行、そしてシベリア抑留という地獄の世界に突入していった。
慰霊碑横の副碑には合祀された359人の方の名前が刻まれている。
現在、存命の方はごくわずか。そういう意味でも今度の公開講座は戦争体験を聞かせてもらう貴重な機会である。
なお、慰霊碑は「西海村満州開拓誌」刊行を機に建立されたそうだから、この「開拓誌」が活字になったものとしてはもっとも詳しいのだろうが、2004年に発行された「珠洲のれきし」には私の高校時代の恩師、浜謹二先生が書かれた「西海村分村恵陽開拓団」の項目がある。まずはここから勉強である。
満蒙開拓団の団員だったTさんから戦争体験を聞く講演会がメインとなる。
集会に先立ち開拓団の慰霊碑を見学するフィールドワークもある。
という報告を先般開催された教育総研・平和教育部会で受けたが、実は私、Tさんは以前から知っているが、満蒙開拓団の一員だったことは初めて知った。
開拓団の慰霊碑については、どこにあるかさえ知らなかった。
市外からの参加者が大半の中、このまま研究講座の日を迎えてはマズイ。
旧西海村(現大谷町)から多くの人が参加したと聞いたように記憶していたので、大谷地区のTさんに慰霊碑の場所を聞いてみる。
すると「あぁ、それなら馬緤の春日神社の横にあるわ」と即座に返事がある。
1940年に満州入植後、西海村分村恵陽開拓団が結成されたが、敗戦と同時に「修羅の巷となりその辛酸は言語に絶し」と記されているように、死の逃避行、そしてシベリア抑留という地獄の世界に突入していった。
慰霊碑横の副碑には合祀された359人の方の名前が刻まれている。
現在、存命の方はごくわずか。そういう意味でも今度の公開講座は戦争体験を聞かせてもらう貴重な機会である。
なお、慰霊碑は「西海村満州開拓誌」刊行を機に建立されたそうだから、この「開拓誌」が活字になったものとしてはもっとも詳しいのだろうが、2004年に発行された「珠洲のれきし」には私の高校時代の恩師、浜謹二先生が書かれた「西海村分村恵陽開拓団」の項目がある。まずはここから勉強である。
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