おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京橋。江戸歌舞伎発祥の地。銀座。・・・(「日本橋」から「品川」まで。その2。)

2015-09-15 21:40:29 | 旧東海道
 「日本橋」から「京橋」、そして銀座へ。あらためてこの道を歩くと、外国人、特に中国人観光客が多いことに気づきます。行き交う人の言葉がほとんど中国語。日本語での会話はサラリーマンくらい。若い男女の日本語での会話はほとんどなし。平日・午後のせいでしょうか?

日本橋タカシマヤ。

「日本橋まで1㎞」ポスト。道の反対側には「日本橋から1㎞」という表示が。

 これから先、「旧東海道」が「国道1号線」とかぶることも多くあり、歩くときには目安になります。実際歩いてみると、それほど大幅に㎞数が違わないのに気づきます。「旧東海道」は「一里塚」(約4㎞)を目安にして歩きますが。

 しばらく進むと、前方に大きなガードが見えてきます。「京橋」です。ガード下には旧京橋の親柱が三つ残されています。右側の交番脇に一つ、向かいの「警察博物館」前とその先に一つずつ。

    


京橋の親柱

 京橋は、慶長8年(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和38年から40年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造りの親柱一基が残されています。
 このうち、二基の石造親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋』」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
 また石およびコンクリート造の親柱は、大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きょうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
 明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

 平成22年3月 中央区教育委員会

 上は、交番脇にある明治8年の時のもの。次の「警察博物館」前のものも同様。

    

 京橋は古来より其の名著える。創架乃年ハ慶長年間なるが如し。明暦以降屡々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる。此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰の揮毫に係るものなり
                  昭和十三年五月

こちらは大正11年のもの。   

その脇にあるのが、ガス灯と「煉瓦銀座の碑」。 

「煉瓦銀座の碑」

明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり

 昭和三十一年四月二日

 1875年(明治8年)東海道である中央通りの京橋川に、肥後の石工である橋本勘五郎によって、石造りのアーチ橋が架けられ、地域のランドマークとなりました。翌年には、京橋から新橋にかけて煉瓦街が完成し、やがてモダンな銀座と従来の町並みが残る日本橋の接点として位置づけられるようになります。馬車鉄道の軌道が複線で併設された大型の橋でしたが、交通量の増加などに対応して掛け替えが行われてきました。
 1931年(昭和6年)、町名としての京橋が誕生。当時の町域は現在のおよそ半分程度の面積でした。
 1959年(昭和34年)、下を流れる「京橋川」が埋め立てられ、それにともない「京橋」も親柱を除き撤去されることに。現在は「京橋川」など周囲の河川の埋め立て箇所に「首都高」が敷設され、「日本橋」同様に「京橋」跡の上を通っています。

江戸時代末の「京橋」(歌川広重)。

(以上、「Wikipedia」参照)

「京橋と京橋川」解説板。

 それによると、「京橋川」には、「大根河岸」「白魚河岸」「薪河岸」「竹河岸」などの「河岸」があって、大変賑わっていたそうです。「関東大震災」後、築地に市場が移設され、当時の活況もなくなったようです。
 
 交番脇の喫煙スペースにあるのが、「江戸歌舞伎発祥の地」碑。
  
    

 寛永元年2月15日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地といえる此地に猿若座の芝居櫓を上ぐ。これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按じ、斯石を鎮め、国劇歌舞伎発祥の地として永久に記念す。

その奥には「京橋大根河岸青物市場蹟」碑。

 銀座通りを進み、「銀座一丁目」交差点の先、道の向こう側、「ティファニー銀座本店」前にあるが、
銀座発祥の地 銀座役所址」。

慶長17年(紀元2272年、西暦1612年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。
当時町名を新両替町と称せしも、通称を銀座町と呼称せられ、明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる。

 昭和30年4月1日建之 銀座通聨合会

 それにしても、この碑と「煉瓦銀座」の碑と、いまだに皇紀を用いているところに驚き!



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 当時、この地域は川・堀割に囲まれた地域だということが分かります。現在は、埋め立てられて首都高になったりして「日本橋川」の他は水路は見当たりません。


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