おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

長岡~水戸。その4。(「水戸街道」をゆく。第6日目)

2017-02-14 18:47:40 | 水戸街道
 「吉田神社」を右折し、いったん新道から離れて進みます。
その先、左手のくの字が旧道(らしい)。

    
 そのまま通りを突っ切っていくと、「備前堀」にぶつかります。そこを右折すると、「銷魂橋」となります。

街道筋らしいおうち。

 

「備前堀」の手前にある「金刀比羅神社」から来た道を振り返る。


「備前堀」に着きます。


備前堀
 水戸藩初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のため、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かれた用水堀で、伊奈「備前」守忠次の名から「備前堀」といいます。当時は千波湖から直接水を流していましたが、大正から昭和にかけての千波湖改修により、桜川から取水するようになりました。
 備前堀は現在でも農業用水に利用されており、酒門や浜田、常澄の水田地帯を潤します。また下市地区周辺は、歴史ある堀としての遺産を生かす都市整備がなされ、「歴史ロード」として美しい景観を見せています。平成8年には、新水戸八景の1つに選ばれました。(「水戸観光協会」HPより)

伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)は、「鉄道遺跡・深谷」のところで取り上げています。
 この方の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
 利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
 関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
 諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。


(12:19)渡った左手に「江戸街道起点」、右手に「高札場跡」の碑があります。
    
江戸街道起点
 水戸~江戸間、29里19町(約116㎞)を結ぶ街道は、五街道に次ぐ重要な幹線道路で江戸街道または水戸街道と呼ばれた。その起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は19箇所、行程は通常2泊3日であった。この地には広場が設けられて高札が立ち、備前堀に掛けられた橋は、ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれていた。

 ここで終点ですが、もう少し「水戸宿」を進んで行きます。
 「常陽銀行」の角を右折すると、「ハミングロード513」。この通りが旧水戸宿の中心の通りで、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠などがありました。今は、商店街ですが、水戸駅から東南に離れているせいか、駅周辺や北口付近の賑やかさに比べて、活気があまりない街並みになっています。その代わり、落ち着いた雰囲気。

    
「旧町名七軒町」碑。

「ハミングロード」。
    

整然とした街並み。

 ほとんど宿場らしい建物はみあたりません。
「江戸(水戸)街道宿場跡」碑。

左手に「井幸茶舗」。

 かつての雰囲気で、現役の商家はこのお店くらい?


そのまま進んだ交差点の右角に「旧本四町目」「陸前浜街道起点」という小さな赤茶色の道標。
   (12:31)到着。

ここで今回の「水戸街道」歩きも終了。

来た道を振り返って望む。


①「亀有」駅~「北小金」駅
②「北小金」駅~「取手」駅
③「取手」駅~「ひたち野うしく」駅
④「ひたち野うしく」駅~「石岡」駅
⑤「石岡」駅~「奥谷」バス停
⑥「奥谷」バス停~「水戸」駅

 JR常磐線と関鉄バスを利用しての6日の旅でした。行き帰りの交通の便がとてもいいいので、とても楽でした。
 これで、「東海道」、「日光道中」、「奥州街道」、「水戸街道」(「五街道」に準ず)とやっと制覇。
 あとは「中山道」の残りと手つかずの「甲州道中」。「中山道」はしばらく置いて、次回から「甲州道中(街道)」を歩いてみようと思います。53里(約200㎞)の道のり。

 そこから水戸駅まで出て(けっこう距離がありました。約25分)、食事をして北口からバスに乗って「偕楽園」へ向かいます。

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