⑲「第一日立湯」 葛飾区亀有5-48-12
「環七通り」からJR線のガードをくぐって右折。商店街の先を曲がった路地にあります。正面は青いタイルのグラデーション。おしゃれな印象。
昭和20年創業で、現在は3代目が切り盛りしている、とのこと。浴室の高い天井は開放的、脱衣場の天井はシャンデリアと、古風な銭湯とはちょっと趣が異なります。全体的に明るくて、気持ちがいい。
フロント形式で、下足の札と交換にロッカーキーを貸し出すというスタイル。この方式は、初めての経験です。
ロッカーは上の扉と下の扉が繋げてあり、2つ使ってよいらしく、大きな荷物の持ち主には親切ですが、これも初めてでビックリ。
近所の工事現場から来た方でしょうか、さっそく二つとも使用しています。内庭は築山と陶器製の蛙、下の池には2匹、大きな錦鯉が泳いでいます。2匹とも70,80㌢はあるような大きさ。悠々と泳いでいます。目の前でこれだけ大きい錦鯉を見たのはあまり経験がありません。池が狭いくらい。
さてお風呂は、ここも桶は、定番のケロリンですが、他では見かけない、幅が広く、けっこうな高さの腰掛で膝の悪い人には座りやすい。シャワーは、一部にしか付いていませんが、スティックを真下に向けるとお湯が出てくる仕組み。これも初めて。
浴槽は中央に大きめの円形浴槽(ジェットバス)、左に座風呂(超音波バス)、右に「薬湯」。今日は(今日だけではなさそうですが)、「京都宇治抹茶」仕立て。濃い緑色をしていて、他の二つよりは温めで、ほのかにお茶の香りが漂う(感じ)。シャワー室も、一つあり。
男女の仕切り側に「本日より利用禁止」と貼り紙のある部屋は、元はサウナだったでしょうか。えっ、「今日から」とは思えないですが。
背景はタイル画で、遠方に真っ白な山脈、眼前にはとうとうと流れ来る渓流。渓流沿いにある露天風呂をイメージしたものか、これも、なかなかユニーク。湯船ごと流れに押し流されそうな感じですが。
ここも常連が多いようで、挨拶を交わしています。
かつて、ここの銭湯の名称が示すように、この先、北東、現在の「環七」の東側には「亀有日立」の大きな工場がありました。
1938(昭和13)年、「日立製作所亀有工場」が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯(JR常磐瀬・亀有駅の北東、西新井に向かう「環七」が、大きく西にカーブするあたり。)にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働き、戦時中には、戦車など兵器が作られていました(ちなみに、飯塚橋の通りは「戦車街道」とも呼ばれていた)。この工場を「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。
現在も周辺には日立関連企業があり、また引き込み線の痕跡などが残っています。
戦後、大型重機などを製造していましたが、都内にあった大規模工場の地方移転策により、1974(昭和49)年に土浦工場に統合され、操業を終えました。
2010年代のようす。上が「亀有日立」跡(一部)。「中川下水処理場」一帯。
亀有地域は、この工場の他にも、「日本紙業(現:日本大昭和板紙)」、「三共(現:第一三共)」などの工場があった地域でした。現在、これらの工場はすべて撤退し、その後、再開発が進み、JR常磐線「」亀有駅」を中心に「アリオ亀有」など大型商業ビルや商店街、閑静な住宅街となっています。
この銭湯もかつてはそうした工場労働者などでかなり賑わっていたと思います。
ところで、この地域はかつて亀無・亀梨(かめなし)と呼ばれていました。この名は、低湿地帯の中に「亀」の甲羅の形を「成す」土地だからということで付けられたといわれています。この地名は「無し」に通じて縁起が悪いとされ、江戸時代初期(1644年頃)に『正保国絵図』を作成する為の報告書提出の際、現在の名「亀有」に改められた、ということです。
「環七通り」からJR線のガードをくぐって右折。商店街の先を曲がった路地にあります。正面は青いタイルのグラデーション。おしゃれな印象。
昭和20年創業で、現在は3代目が切り盛りしている、とのこと。浴室の高い天井は開放的、脱衣場の天井はシャンデリアと、古風な銭湯とはちょっと趣が異なります。全体的に明るくて、気持ちがいい。
フロント形式で、下足の札と交換にロッカーキーを貸し出すというスタイル。この方式は、初めての経験です。
ロッカーは上の扉と下の扉が繋げてあり、2つ使ってよいらしく、大きな荷物の持ち主には親切ですが、これも初めてでビックリ。
近所の工事現場から来た方でしょうか、さっそく二つとも使用しています。内庭は築山と陶器製の蛙、下の池には2匹、大きな錦鯉が泳いでいます。2匹とも70,80㌢はあるような大きさ。悠々と泳いでいます。目の前でこれだけ大きい錦鯉を見たのはあまり経験がありません。池が狭いくらい。
さてお風呂は、ここも桶は、定番のケロリンですが、他では見かけない、幅が広く、けっこうな高さの腰掛で膝の悪い人には座りやすい。シャワーは、一部にしか付いていませんが、スティックを真下に向けるとお湯が出てくる仕組み。これも初めて。
浴槽は中央に大きめの円形浴槽(ジェットバス)、左に座風呂(超音波バス)、右に「薬湯」。今日は(今日だけではなさそうですが)、「京都宇治抹茶」仕立て。濃い緑色をしていて、他の二つよりは温めで、ほのかにお茶の香りが漂う(感じ)。シャワー室も、一つあり。
男女の仕切り側に「本日より利用禁止」と貼り紙のある部屋は、元はサウナだったでしょうか。えっ、「今日から」とは思えないですが。
背景はタイル画で、遠方に真っ白な山脈、眼前にはとうとうと流れ来る渓流。渓流沿いにある露天風呂をイメージしたものか、これも、なかなかユニーク。湯船ごと流れに押し流されそうな感じですが。
ここも常連が多いようで、挨拶を交わしています。
かつて、ここの銭湯の名称が示すように、この先、北東、現在の「環七」の東側には「亀有日立」の大きな工場がありました。
1938(昭和13)年、「日立製作所亀有工場」が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯(JR常磐瀬・亀有駅の北東、西新井に向かう「環七」が、大きく西にカーブするあたり。)にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働き、戦時中には、戦車など兵器が作られていました(ちなみに、飯塚橋の通りは「戦車街道」とも呼ばれていた)。この工場を「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。
現在も周辺には日立関連企業があり、また引き込み線の痕跡などが残っています。
戦後、大型重機などを製造していましたが、都内にあった大規模工場の地方移転策により、1974(昭和49)年に土浦工場に統合され、操業を終えました。
2010年代のようす。上が「亀有日立」跡(一部)。「中川下水処理場」一帯。
亀有地域は、この工場の他にも、「日本紙業(現:日本大昭和板紙)」、「三共(現:第一三共)」などの工場があった地域でした。現在、これらの工場はすべて撤退し、その後、再開発が進み、JR常磐線「」亀有駅」を中心に「アリオ亀有」など大型商業ビルや商店街、閑静な住宅街となっています。
この銭湯もかつてはそうした工場労働者などでかなり賑わっていたと思います。
ところで、この地域はかつて亀無・亀梨(かめなし)と呼ばれていました。この名は、低湿地帯の中に「亀」の甲羅の形を「成す」土地だからということで付けられたといわれています。この地名は「無し」に通じて縁起が悪いとされ、江戸時代初期(1644年頃)に『正保国絵図』を作成する為の報告書提出の際、現在の名「亀有」に改められた、ということです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます