「川俣締切阯」碑。
「解説板」。
写真には写っていませんが、右にある星形の碑は、「〆切神社」と刻まれています。
このところ、土曜日になると「利根川歩き」に出かけていますが、前回、今回と「曇り時々雨」に。特に、今回は肌寒い一日でした。
東武伊勢崎線「羽生」駅から秩父鉄道に乗り換えて一駅、「西羽生」駅で下車。「昭和橋」を目指して約30分。「道の駅はにゅう」へ到着。ここから「利根川歩き」再開。
敷地内にある「解説板」。
川俣締切跡は、それまで合流していた会の川を文禄3年(1594)に締め切った跡である。近世以前の利根川は武蔵・下総両国の国境を南に流れ東京湾に注いでいた。・・・羽生領における新郷川俣付近における会の川筋の締切は、江戸開府前に行われ、その最初の工事であった。
当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口に向かう会の川の川筋と現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年(1592)に忍城主となった松平忠吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同3年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説が残されている。この締切り工事により、会の川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域の広大な新田開発が進められていった。
隣にある「顕彰碑」。
「あゝ上野駅」の歌詞が刻まれています。この歌は井沢八郎が歌って大ヒットしました。今でも口ずさむことができます。
「上野は俺らの心の駅だ」というフレーズが印象的。
「羽生の作詞家 関口義明先生の顕彰碑」
・・・日本の高度経済成長期 集団就職列車が昭和29年4月から昭和50年3月まで運行されました 東北方面から上野駅に到着した就職者は 今日では60 70歳代となり その当時の人は無論のこと「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として 今尚若い人にも愛され歌われております・・・
現役の頃に接した青少年の中には、この集団就職列車で東北から上京してきた人も多くいました。「金の卵」という言葉もあった時代。まさに映画「三丁目の夕日」の世界でした。
ここで、当時のことをふと思い出します。
さて、利根川歩きを始めます。「昭和橋」橋詰めの向こうには、「川俣関所址」碑があります。
ここは、「日光千人同心街道(八王子~佐野~日光)」の道筋です。その時のブログを再掲。2018年12月投稿。
ここには「川俣関所(新郷川俣関所)」が設けられました。
「昭和橋」の橋のたもとに建てられているのは「史蹟 川俣関所址」碑と解説板。
定
一、此関所を通る輩
番所の前にて笠
頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は
乗物の戸をひらくべし
但、女乗物は番の輩
指図にて女に見せ
可通之事
一、公家・門跡衆・諸大名
参向の節は 前かどより
其沙汰可有之間不及
改之 自然不審の儀
あらば可為各別事
右 可相守此旨者也
仍執達如件
貞享三年四月
奉行
旧跡 川俣関所跡
川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)に廃止されるまでの役260年間続いた。
この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲の入るのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のためその路は川底になってしまった。
関所路は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和36年9月1日旧跡と指定変更された
注:関所(跡)は昭和32年の河川改修の際に川底になってしまいました。
対岸を望む。
上流方向を望む。
・・・今回は曇り空で視界不良。
「昭和橋」。
「日光千人同心街道」。
道筋には、「勘兵衛松並木」などがあります。
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