おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

秩父湖~川又(往復)。栃本関。(「荒川を遡る」総集編。その2。)

2021-10-05 19:59:02 | 荒川を遡る

                  荒川上流を目指します。

「秩父湖」バス停から川又まで。

往路は湖畔・荒川沿いの道、復路は栃本集落の道。

どちらも旧「国道140号線(秩父街道)」。アップダウンはありますが、舗装道路を歩きます。

「三峯神社」へはダムを左折して行きます。秩父湖で下車したのは二人のみ。満員のバスはそのまま「三峯神社」へ。

二瀬ダム。水面はかなり低く。

「大洞川」。奥に吊り橋。          

途中の二股、栃本への道を分けて、左を進みます。旧国道140号線。

荒川に架かる吊り橋。但し、立入禁止。

「秩父湖吊橋」。この直下まで「湖岸遊歩道」。

眼下に荒川。ススキが揺れる。

木漏れ日の下を。右に左にカーブしながら上っていきます。

護岸工事。目がくらむような真下に荒川。

歩き始めてから約1時間。「不動滝入口四阿」に到着。「不動滝」への案内板が。

不動滝のいわれ

荒川に流れこむ大除沢がつくる不動滝は落差50mもあり、その荘厳さを不動明王になぞらえて不動滝としたのでしょう。大除沢には、昭和の初期に多くの山林業者が入山していて、その人たちは守護神として不動様を信仰したといいます。徳川時代の末期には、行者が修行場として使用したともいわれています。

荒川に架かる「不動橋」を渡った対岸にあるようです。

           (「彩の国さいたま」HPより)

大滝・落合橋の先で右に分岐した「(新)国道140号線」が近づいてきます。新旧の国道がこの先で合流し、雁坂峠トンネルを抜け、甲府に向かうことになります。

 

右手のトンネルが「(新)国道140号線」ルート。

「R140彩甲斐街道」。「これより滝川渓谷 この先300m左折入川渓谷 雁坂トンネルまで7k 甲府へ52k」。

川又といっても何か特にあるわけではありません。大きめな「観光トイレ」と「四阿」と観光案内板、そして駐車スペース。

少し先に「扇屋山荘」。民宿と売店を兼ねた施設。前を通りましたが、営業しているかどうか不明でした。

ほんの少しだけ入川(荒川)沿いに上ってみました。

       

 

下を見ると、透き通るような、まさに「水色」の流れ。

すっかり見とれてしまいます。

 

実は、この上流にキャンプ場があり、さらにその先まで進むことが出来ます。次回、そこまで入ってみようと思います。そのさらに上流に進むと、「一級河川荒川起点の石碑」があるようです。(源流はもっと上流になりますが)

四阿で昼食休憩して、栃本に向かいます。

下流方向。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。行きは、荒川に沿った道を進み、帰りは栃本集落への道。「栃本関」から北西に向かう道は、かつては信州への道でした。

栃本までは約20分の上り坂。

古風で落ち着いた風情の家並み。

        

山間の傾斜地に家々と耕地。

栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)

  右手に荒川沿いの山々。

国指定史跡「栃本関跡」。

江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。

栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。

そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。

関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。

そこからの山並み。           

これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。

途中、廃校になった「上中尾小学校」。

1909年(明治42年)開校、1981年(昭和56年)閉校。
1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで、児童用の寄宿舎があったそうです。その後、滞在型の私立養護学校「光の村養護学校・秩父自然学園」として活用。その養護学校も閉鎖となり、今に至っています。道路側から校舎内を覗くと、作業場のような雰囲気。

校舎は昭和7年(1932年)に竣工。

校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。

この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。

(「今昔マップ」より)

○が小学校。古くからあったことが分かります。

小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。

さらに下ると、「麻生加番所」跡。

                   

寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。

この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。

こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。


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