JR錦糸町駅のすぐ北東側にある「錦糸公園」。この公園は1923(大正12)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものです。 もともとこの地は、陸軍の糧秣厰倉庫でした。
戦時中は、空襲からの避難所としての役割や、戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。特に、1945(昭和20)3月10日の東京大空襲では、1万余の遺体がこの公園に仮埋葬されました。
関東大震災の経験から1万の棺桶が用意されていたが、まったく足りないため、死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。10万5400体からなる犠牲者は、それ以外の空襲の犠牲者が1万人にならないのだから、ほとんどが3月10日の空襲の犠牲者と考えられる。そのほとんどは、銃後の母親、娘、年寄り、子どもたちだった。
(早乙女勝元「東京が燃えた日―戦争と中学生」 (岩波ジュニア新書 )
戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池なとが整備されてきました。(昭和22年の航空写真では、まん中に広い楕円形の広場があるだけ。まだこの時点では、埋葬された遺体が数多く埋められていたと思われます。)
近年、公園の北側には隣接してあった精工舎(SEIKO)の工場が移転し、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006(平成18)年にオープンしました。「錦糸公園」もそれにあわせて現在総合体育館の建設など、再整備が進行しています。
写真は、終戦直後のままに残された公園の一角です。
千葉県柏市に最近転居した岡田良彦さんは、墨田区で経営する工場へ車を運転しながら、「この辺でグラブを捜し回ったな」と思い出すことがある。
王貞治少年のそのグラブは、兄の鉄城さんが買ってくれたものだと岡田さんは聞いていた。5年生頃のこと。錦糸町駅北側の錦糸公園(墨田区)へ、仲間たちで野球をしに行った。広い公園は野球少年に人気で、既に中学生に占領されていた。道具を置いて少し遊んだが、家の近くの業平(なりひら)公園へ戻ることにした。ぞろぞろ歩いて向かう途中、王少年が「グラブがない」と言い出した。
「なくしたら兄貴に怒られる」。珍しく王少年が慌てた。みんなで方々を捜し回った。「結局、見つからなかったんじゃないかな」と岡田さんは残念がる。
桜が見頃を迎えた錦糸公園で、少年時代の記憶をたどる杉浦弘明さん 錦糸公園は東京大空襲の後、1万人以上の遺体の仮埋葬所となっていた。復興が進んで子供たちに返還され、プールも営業した。区立業平小の児童は夏、教員の引率で1キロほど歩いてプールに来ると、水に飛び込んだ。左利きの王少年はクロールで泳ぐと、左手の力が強すぎてどんどん右に曲がって行った。岡田さんら級友は腹を抱えて笑った。
公園にはローラースケート場もあり、放課後、王少年や杉浦弘明さん(千代田区)は大勢で遊びに出掛けたという。「スケート靴は子供の小遣いで借りられました」
現在の公園は桜の名所。プールは残っているが、スケート場は跡形もない。「コンクリートの質が悪かったのか、滑った後には白い粉が出てきて、転ぶとズボンが真っ白でした」。満開の桜の下で、杉浦さんは懐かしそうに語った。
公園から、北へ数分歩くと「賛育会病院」がある。王少年が5年生の頃、ここを昭和天皇と香淳皇后が視察した。岡田さんは、日の丸の小旗で歓迎したのを覚えている。待ち時間が長くなり、王少年たちは小旗でふざけていた。
「こら貞治、ちゃんと前向いていなさい!」
女の人にしかられた。岡田さんは、王少年の母親、登美さん(107)だったと記憶している。前を向くと、昭和天皇が通った。「黒い車の中で、帽子を取ってあいさつされたようだった」
賛育会病院によると、ご夫妻の訪問は、1951年10月10日のことだった。
(2009年4月15日 「読売新聞」より)
戦時中は、空襲からの避難所としての役割や、戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。特に、1945(昭和20)3月10日の東京大空襲では、1万余の遺体がこの公園に仮埋葬されました。
関東大震災の経験から1万の棺桶が用意されていたが、まったく足りないため、死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。10万5400体からなる犠牲者は、それ以外の空襲の犠牲者が1万人にならないのだから、ほとんどが3月10日の空襲の犠牲者と考えられる。そのほとんどは、銃後の母親、娘、年寄り、子どもたちだった。
(早乙女勝元「東京が燃えた日―戦争と中学生」 (岩波ジュニア新書 )
戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池なとが整備されてきました。(昭和22年の航空写真では、まん中に広い楕円形の広場があるだけ。まだこの時点では、埋葬された遺体が数多く埋められていたと思われます。)
近年、公園の北側には隣接してあった精工舎(SEIKO)の工場が移転し、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006(平成18)年にオープンしました。「錦糸公園」もそれにあわせて現在総合体育館の建設など、再整備が進行しています。
写真は、終戦直後のままに残された公園の一角です。
千葉県柏市に最近転居した岡田良彦さんは、墨田区で経営する工場へ車を運転しながら、「この辺でグラブを捜し回ったな」と思い出すことがある。
王貞治少年のそのグラブは、兄の鉄城さんが買ってくれたものだと岡田さんは聞いていた。5年生頃のこと。錦糸町駅北側の錦糸公園(墨田区)へ、仲間たちで野球をしに行った。広い公園は野球少年に人気で、既に中学生に占領されていた。道具を置いて少し遊んだが、家の近くの業平(なりひら)公園へ戻ることにした。ぞろぞろ歩いて向かう途中、王少年が「グラブがない」と言い出した。
「なくしたら兄貴に怒られる」。珍しく王少年が慌てた。みんなで方々を捜し回った。「結局、見つからなかったんじゃないかな」と岡田さんは残念がる。
桜が見頃を迎えた錦糸公園で、少年時代の記憶をたどる杉浦弘明さん 錦糸公園は東京大空襲の後、1万人以上の遺体の仮埋葬所となっていた。復興が進んで子供たちに返還され、プールも営業した。区立業平小の児童は夏、教員の引率で1キロほど歩いてプールに来ると、水に飛び込んだ。左利きの王少年はクロールで泳ぐと、左手の力が強すぎてどんどん右に曲がって行った。岡田さんら級友は腹を抱えて笑った。
公園にはローラースケート場もあり、放課後、王少年や杉浦弘明さん(千代田区)は大勢で遊びに出掛けたという。「スケート靴は子供の小遣いで借りられました」
現在の公園は桜の名所。プールは残っているが、スケート場は跡形もない。「コンクリートの質が悪かったのか、滑った後には白い粉が出てきて、転ぶとズボンが真っ白でした」。満開の桜の下で、杉浦さんは懐かしそうに語った。
公園から、北へ数分歩くと「賛育会病院」がある。王少年が5年生の頃、ここを昭和天皇と香淳皇后が視察した。岡田さんは、日の丸の小旗で歓迎したのを覚えている。待ち時間が長くなり、王少年たちは小旗でふざけていた。
「こら貞治、ちゃんと前向いていなさい!」
女の人にしかられた。岡田さんは、王少年の母親、登美さん(107)だったと記憶している。前を向くと、昭和天皇が通った。「黒い車の中で、帽子を取ってあいさつされたようだった」
賛育会病院によると、ご夫妻の訪問は、1951年10月10日のことだった。
(2009年4月15日 「読売新聞」より)
よく見たら丸い光の中に人の顔がハッキリ写ってました。
いわくつきの場所だったのですね。