おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

欠真間。鈎型の旧道。行徳河岸(祭礼河岸)旧跡。東西線「南行徳」駅~武蔵野線「船橋法典」駅。その2。(「木下街道」をゆく。第1日目。)

2020-11-04 22:47:37 | 木下街道

「行徳街道」を北東に向かいます。

中宿」バス停。

その先、右手のおうち。奥に広がっています。

しばらく進むと、広い通りは大きく右に曲がりますが、旧道は鈎型に進みます。

直進します。

  

行徳街道」という標識。

角には、りっぱなお屋敷。

広い道に復帰。

1880年代のようす。渡し船が「今井の渡し」、○が鈎型の道。

2010年代のようす。街道の道筋は変わらないようです。

 

欠真間(かけまま)」バス停。真間の土が台風などの自然災害でこの地に流れてきたと伝えられているのでそう呼ばれる。(「Wikipedia」より)

路地から対岸の「江戸川清掃工場」の煙突。

屋根下の軒が立派なおうち。

左、「吉田畳店」。右、門構えが立派。

次の信号を左折し、土手に出ます。

「湊水神宮」の先に「押切水門」。

そこに「行徳河岸(祭礼河岸)旧跡」解説板。

奥に水路があります。

貨物専用の河岸

最初の祭礼河岸は寛永8年頃(1631)まで光林寺の南、稲荷神社の西にあたる押切13番、14番付近に設置されたと推定されます。元禄3年(1690)にこの付近に移設されました。

銚子などからの魚、スイカ、ウリ、前栽、大根、薪、塩、米その他の産物が馬で運ばれてきて積み出されました。

昭和の初め(1926~)頃でも荷足船が20~30艘ほどが入れる広さで、葛西船により下肥が運ばれてきて、小型の肥やし舟に移して内匠堀に入り水田に運ばれました。

昭和の初め(1926~)頃でも荷足舩が20~30艘ほどが入れる広さで、葛西船により下肥が運ばれてきて小型の肥やし舟に移して内匠堀に入り水田に運ばれました。

        

1880年代のようす。               2010年代のようす。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 行徳。行徳塩田。「今井の渡... | トップ | 常夜燈。笹屋うどん。東西線... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

木下街道」カテゴリの最新記事