おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京王線「多摩境」駅~東急線「南町田」駅。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第2日目。)

2019-07-22 19:10:56 | 八王子絹の道
                  「町田街道」に合流。
「現・町田街道」が直線化され、残された旧道? 

                                   

「町田街道」の拡幅工事のため立ち退いた建物の跡? 

(12:03)「滝の沢」交差点で右に進みます。小田急町田駅方向へ。 

                    

         「馬頭観音塚跡」碑。

だんだん賑やかに。車もけっこう多くなります。

(12:15)「森野」交差点で現代の「鎌倉街道」と交差します。

                                        

 この「鎌倉街道」は都道18号府中町田線で、東京都府中市より多摩市を経て町田市へ至る都道。通称を「鎌倉街道」と呼ぶ。ほとんどの区間で鎌倉街道上ノ道(鎌倉古道)に並行している、とのことです。ただし、「鎌倉街道」として神奈川県内にも続いています。

  

(12:30)しばらく進むと「小田急線」の踏切。すぐ町田駅前に。

                      

 駅前広場に「絹乃道」石碑(昭和58年建立)。「此の方よこはま」「此の方はちおゝじ」」とあり、裏面に「原町田誕生四百年記念」とあります。
  

解説板。
絹の道
 黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政6年(1859)に横浜が開港されると日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は主産地である長野・山梨や八王子から町田を通って横浜へ運搬されました。
 新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果した中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
 そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
 この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として原町田誕生四百年を記念し一番街商店会が建立しました。

                                            昭和58年12月吉日
 広場のベンチで小休止。

(12:50)再開。賑やかな商店街。けっこうな人通りです。

新しいデザインのマンホールが二つ。

                       

町田駅周辺はJR横浜線と小田急線とで、たいへん賑やかな街並み。


新しい建物が多い中で、こんな昔ながらの蔵造りのお店。富澤商店」本店。
 このお店。お菓子作り、パンなどの材料やドライフルーツを扱っているお店。都内などあちこちにお店がありますが、「東京スカイツリー」店でよく買い物をします。このあいだ、ドライトマトを買いました。その他にも品ぞろいが豊富です。

こういうお店も。乾物屋さん。河原本店」。   

 老舗然とした存在感のある店構えは乾物デパート【河原本店】。どこにも負けない豊富な品揃えと驚くべき昆布の知識。
 小田急町田駅東口から歩くこと数分、商店街の終わりに現れる昔ながらの懐かしい店構え。数ある町田の乾物屋の中でも長い歴史を誇る【河原本店】だ。乾物デパートと書かれた通り、店内にはありとあらゆる乾物が整然と並ぶ。昆布や椎茸、豆類は勿論、他の店では見られない珍しいものまで、品揃えは70アイテム、総商品数は数えられないというから驚きだ。
 4代目店長の河原氏は北海道にまで出向き仕入れを行うくらい、昆布へのこだわりが高く、その知識も驚くほど。これからもずっとこのままの姿でいてほしい、ゆっくりとした時間が流れるお店だ。
(「」HPより)

その先、「町田市商工会館」のところに、「二・六の市」碑。

                                   
原町田商店街発祥の地 「二・六の市」の碑
 原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立したのち、天正15年(1578)に、それまでの市をわけて、「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれています。本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町田の“市”は炭・薪・蚕糸・畑作物のほか、衣料や農具など多くの物産を取り扱い、文政・天保年間頃(1818~1843)には「二・六の市」となって、月に六回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ、今日の原町田商店街発展の礎を築いたといえるのです。
 幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ“絹の道”の中継地として、各地から生糸商人が集まり、“市”の規模も大きくなっています。
 “市”が開かれた場所は、川田横丁や塩屋横丁あたりから勝楽寺門前までで、道の両側の家の軒先に“マゲ”と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。
 明治41年(1908)に横浜線が開通し、交通の便がよくなると、“市”の日以外にも人びとが集まるようになり、次第に商業の街としての形が整うようになりました。
 大正14年(1925)には、古着や古道具類を扱う市店が今の仲見世商店街付近に“ボロ市”として独立し、有名になりましたが、昭和に入ると不況や戦争の影響を受けて、物資不足から出店数も減り、昭和19年(1944)6月、360年程続いた“市” も、ついに幕を閉しています。しかし、原町田は戦後再び商業地としてよみがえり、飛躍的な成長を遂げて今日に至っているのです。

                                1985年10月 町田市史編さん室編修
「二・六市 発祥の商店街」。

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