おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

舞阪宿脇本陣。雁木。正岡子規句碑。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その2。)

2015-04-27 23:24:59 | 旧東海道

 穏やかな日差しの元での散策。高い建物がなく、視界も明るく開けてきます。今回のコースは、「舞阪宿脇本陣」、「新居関所」、「二川宿本陣」など見所・見学地があります。

    
 振り返って宿内を望む。                         前方は浜名湖。

 右手のところに、「本陣跡」碑。



舞坂宿 本陣跡
 この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中宿泊・休憩したところです。

 そしてそのすぐ近く、左手に「脇本陣」跡。立派な建物です。

    

東海道舞坂宿脇本陣

 舞坂宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度制定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人口1,204人・戸数265戸でした。
 また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
 建物は主屋.繋ぎ棟.書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。
 現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
 平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1833)の建築であることが判明しました。

 平成9年 舞阪町教育委員会
 
 見学が出来るので、入ってみました(入館料:無料)。

坪庭から奥を望む。

  上段の間。

2階から「東海道」・宿内を望む。

裏手にある土蔵。古い家屋が並んでいます。

 この建物、大正時代には、役場として利用されていた、とのこと。

 《江戸時代の宿泊施設》

 「本陣」=大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設。平屋建てを原則とする。
 「脇本陣」=本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたる。平常、旅籠屋を営んでいるが、代通行のときなど、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめた。2階建ての場合が少なくない。
 「旅籠屋」=武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの旅館。
 「木賃宿」=旅人が薪代を払って自炊する宿屋。 

 大変丁寧に案内してもらいました。「今日はちょうどいい天気ですね。歩くのにはもってこいの陽気。浜名湖もきれいですよ。お気を付けて。」



 宿場の出口近くの左手の角にあるのが、舞坂の三つ目の常夜燈、「西町の常夜灯」。

西町常夜灯

 舞阪には往還道路沿いに3つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇太神宮、西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主 西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことがわかる。
 舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。

 浜松市教育委員会

 注:これまでの説明板の設置者は「舞阪町教育委員会」になっていましたが、この説明板は「浜松市教育委員会」と修正されています。平成の大合併によって「舞阪町」は「浜松市」になったわけです。浜松市も静岡市を引けを取らない大都市になった、とも。

「本雁木」跡説明板。

舞坂宿の渡船場、本雁木(ほんがんげ)跡

 江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。
 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。

 浜松市教育委員会

    灯台。

 昔はここから舟で渡りました。

  
  右手に見えるのが「魚市場」。
           
 ここからは対岸の新居関までは船旅ですが、勿論、船旅はありませんし、今回は歩くのも省略し、現代の足・鉄道を使って対岸の「新居町」へ移動することにしました。そこで、浜名湖沿いに歩いて、JR「弁天島」駅を目指します。

途中にあった北雁木跡。  

史跡 北雁木(きたがんげ)

 ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1675年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたために積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み下ろしをした渡荷場(とうかば)。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。

    

安藤広重「舞浜 今切真景」。

 目の前には広大な海の風景が展開しています。穏やか内海。

    
 遠くの橋脚は「浜名バイパス」。                     大正期のようす(「知足美術館」HPより)。


 しばらく岸壁で眺めたあと、「弁天橋」を渡って弁天島に向かいます。

「舞阪宿」方面を望む。

 途中には弁天神社。

弁天島と天女

 昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まってほしいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行きました。
 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲崎の一部であった弁天は湖(うみ)にとり残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(西暦1709年)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人々に信仰されています。
 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があります。

境内にある「正岡子規句碑」。

    

 「天の川濱名の橋の十文字」。この句は明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。・・・

 その先で「国道1号線」に合流します。

右手に見えるのがJR「弁天島」駅。「日本橋から271㎞」という表示。

 「弁天島」駅から一駅先・「新居町」駅まで乗車します。電車に乗らずに歩けば、約40分(3㎞ちょっと)かかります。15分近く待って乗りました。乗車時間は約3分。「新居町」駅には10時20分前に到着。20分以上、短縮できました。勿論、船旅ならもっともっとかかるでしょうが。

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