おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「関宿」あれこれ。その3。(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その5。)

2015-10-01 21:16:08 | 旧東海道
 高札場跡は、「関郵便局」のところです。郵便ポストは、この地域に相応しく日本最古のものを模しています。

 
 このポストは文化財保護法により指定された「重要伝統的建造物群保存地区」の町並みと調和を保ちつつ、みなさんにご利用いただけるようにした特別なポストで、京都・大阪に設置され現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです。
 日本の郵便ポストは明治5年(1871)の郵便創始にあたり、東京に12ヶ所、京都に5ヶ所、大阪に8ヶ所のほか、東海道の各宿駅に62ヶ所設置したのが始まりです。
 当時のポストは、江戸時代の目安箱に似た角型の木製、「書状集めの箱」と呼ばれていました。

 関郵便局 亀山市教育委員会

注:解説板中、「明治5年(1871)の郵便創始」とありますが、「明治4年(1871)」の誤り。

 「関郵便局」は関宿のほぼ中心にあり、江戸時代には「高札場」があったところです。

    

関宿高札場
 高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。
 関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵画を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。
 関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。
 『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。
 明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治10年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀などもも含めすべて撤去されたことがわかります。
 この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関町観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。・・・

 平成16年3月 関町教育委員会

             
               「局藥オガナ 約特店商義野塩社會式株」
                  「番五拾四 話電」

「関宿名物 志ら玉」。

こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子。

       素朴な味わいの和菓子。道中で食べました。

「地蔵院」・「歴史の道 旧東海道関宿」碑。

 「地蔵院」前にある「会津屋」。
 12時少し前、お店に入って中を覗くと、満員。外にもお客さんが・・・。「山菜おこわ」とおそばでも、と思いましたがあきらめました。都会の、あるいは街道筋の大きなお店とは違ってこじんまりしています。もともとのおうちの中だけを食事処にしつらえたのですからそれも当然ですが。そこでせめてお店の「HP」だけでも

毎朝、昔ながらの竈に薪をくべ、山菜おこわを蒸かしています。
豊富な天然水と上質の日高昆布、注文してから削られる鰹節で出汁をとっています。
滋賀県唐戸川の原木の干し椎茸。神島の海女さんが手刈りで刈ったワカメ・・・。
各地を回って選んだ5種類の醤油など、女将のこだわりの食材と田舎ならではの季節の野菜や山菜を使っています。
女将自らが少女のころ、祖母から教わったご飯の炊き方・・・。
その記憶の糸を辿りながら、自ら馬籠や宿場町をまわり、試行錯誤を重ねて出来上がった
「山菜おこわ」は、まさに唯一、無二の味なのです。
信頼できる地元主婦スタッフと、私ども親子のみで「主婦が食べても懐かしい!美味しい!味」をモットーに、真心込めてお作り致します。
あだ討ちのヒロインとして有名な「関の小萬」の生家でもあると言われる大旅籠「会津屋」。
この歴史に刻まれた建物を、いつもお客様の笑顔で一杯にしたい・・。
そんなことを考えながら、今日も竈に火をおこします。



 待ってても食べればよかった! しばらく西へ向かい、「西追分」の休憩施設で名古屋駅の売店で購入した「天むす弁当」を昼食にしました。

 ここを過ぎると人の姿もまばらに。新所の町並み。

    

南禅寺 井ノ口家

 井ノ口家は、屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。
 当時西追分は宿屋が建ち並び、旅人がひきもきらず賑わったという。
 同家は、文久の頃の建物といわれ、道路に面して連子格子、塗ごめの中二階があり、料亭の面影をよく遺している。
  関町教育委員会

 「名物は 火縄餅菓子 豆腐料理」(関宿かるた)

そうこうしているうちに「西追分・休憩施設」へ。

「関宿」を振り返る。

 いくら歩いても見飽きない町並み、家並み。「いっぷく亭」、「関まちなみ資料館」、「玉屋 関宿旅篭歴史資料館」などの建物、施設。
 さらに、見上げれば、庇下の幕板、虫籠窓、漆喰細工(虎・龍・亀・鶴・・・)、起(むく)り屋根、瓦細工、庵看板など実に多彩な江戸の趣です。
 先を急がなければもっとじっくりと見学したい、と。旧東海道・宿場の中ではたしかにピカイチの雰囲気です。

 腹ごしらえをして次の「坂下宿」に向かって出発です。

駐車スペースの案内。

 東海道は西の追分から右に進みます。

    

西の追分

 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
 ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。

   文部科学省 三重県 亀山市

 右に折れてすぐまた左に折れます。「国民宿舎 関ロッジ」(今年3月で営業休止)の看板をくぐって「国道1号線」へ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「関宿」あれこれ。その2。... | トップ | 筆捨山。市瀬一里塚。「鈴鹿... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旧東海道」カテゴリの最新記事