おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

伊勢うどん。野村一里塚。太岡寺畷。・・・(「亀山駅」から「道の駅・あいの土山」まで。その2。)

2015-09-28 19:11:21 | 旧東海道
 街道筋らしいおうちもちらほら。次の宿場「関宿」までの道筋。

「名物伊勢うどん」の幟。

 開店前だったので、入らず(朝が早かったのでやっていたら食べてみようか、と一瞬思う)。

伊勢の地元名物「伊勢うどん」

 かけうどんのように多量のツユに浸ったものではなく、たまり醤油に鰹節やいりこ、昆布等の出汁を加えた、黒く濃厚なつゆ(タレ)を、太い緬に絡めて食べるものが主流。太い麺は長時間かけて柔らかくゆで上げられており、具やトッピングが少なく、薬味の刻みネギだけで食べることが多い。
 タレの色(そばつゆとは別物)は非常に濃く、塩辛いと誤解されがちであるが、見た目程の塩分はなく、概して旨味と甘みが強く、後味がまろやかである。この濃いタレの色は、たまり醤油の色である。
 麺は極太で、直径1cm前後のものが多い。非常に柔らかく、もちもちしており、一般的なうどんとはかけ離れた食感を持つ。そのため、博多うどんのように、柔らかいうどんが好まれる地域の人には受け入れられやすいが、讃岐うどん、五島うどんのような「コシが大事」という考え方の人には好かれない。極太麺であるために、麺を茹でる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる。コシがないと評されることも多いが、打ち立ての麺にはグルテンによるコシがあり、それを柔らかく茹であげているのであって、コシのない麺だと1時間近くも茹でると溶けてしまう。店や料理人ごとに手法は異なる場合もあるが、それぞれが伊勢うどんの特徴である表面はふんわりとしていて、中はもちっとした麺の食感を出すべく工夫している。
 伊勢うどんは、ゆで続けているため、すぐに提供できること、また、汁がないため、すぐに食べ終わることができる。お伊勢参りで混み合う客を次々さばくのにも適したメニューともなっている。
 具は、刻みネギだけか、好みで生卵をトッピングするだけという店が多いが、天ぷらを載せたものを出す店も珍しくはない。また、店によっては、タレではなく一般的なかけうどんのようなつゆで提供する事もあり、数少ないが、焼きうどんを提供する店も存在する。

        

(以上「Wikipedia」参照)

 麺の太さは、讃岐うどんの2~3倍、稲庭うどんの10倍くらいで、1時間もゆでるらしい。東京・新宿にもこの店がある、とか。

しばらく進むと
 森家住宅 国の有形文化財 母屋一棟

 亀山宿・関宿間の野村集落に所在。旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である。切妻造り桟瓦葺きで西麺に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。妻を黒漆喰真壁、下屋に行使を設けるなど町屋的な表構えを見せる。

右手の「焼肉・長次郎」の店に解説板が。

 「明治天皇御召替所跡」との看板。明治天皇が伊勢神宮を参拝したときに立ち寄り休憩した、元「内池家」の母屋だったとのこと。現在は、「焼肉屋」さんの店舗になっています。

 交差点を進んだ右手に巨木が植えられた「一里塚」が見えます。

        
                       「野村一里塚」。
 ここは三重県内で唯一原型をとどめる一里塚です。

史跡 野村一里塚

 一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。
 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。
 塚の上には、目通り幹周囲5メートル、高さ20メートルの椋(むく)の木がある。
 本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。

なかなか見応えのある椋の大木です。
                            江戸・日本橋から105里目。 

左手に田園風景が広がります。

しばらく行くと左手に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」の白い標柱。 

 この権四郎昌克は17代当主で寛永19年(1642)に生まれ、大庄屋在任中亀山藩領86ヶ村を中心にした見聞記「九々五集」(9×9+5=86)を記録し編纂しました。

T字路を右に折れる。

振り返って望む。

 「布気神社」を過ぎしばらく進むと、二叉の道になり、左の下り坂を進みます。

竹藪とヒガンバナ。

この建物の前を左手に曲がり、「関西本線」を越えます。

 跨線橋を渡ると、「鈴鹿川」沿いの道、「大岡寺(だいこうじ)畷」と呼ばれる、まっすぐな道になります。

   関西本線を越えた付近。

一直線の道。 

右手に「太岡寺畷」の解説板。

太岡寺畷(だいこうじなわて)のいわれ

 畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。  
 大岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一とされています。
 松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹き透し」と詠んでいます。この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。
 かつては「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い〈待つ〉ばかり」(『亀山地方郷土誌』)と謡われたほどの松並木で、太田南畝(蜀山人)が享和元年(1801)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり、此の十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった寺である「六門山四王院太岡寺に由来すると伝えられます。

     

 そして「名阪国道」をくぐります。ガード下には東海道の宿場にまつわる広重の浮世絵と解説があります。

    

「東海道五十三次と歌川広重」

 掲げられてあるのは、広重の、阪之下(坂下)・関・亀山・庄野・石薬師・四日市・桑名宿の浮世絵。

東海道五十三次と歌川広重

 慶長6年(1601)徳川家康は「御伝馬之定」を制定し、東海道沿道の集落五十三ヶ所を宿駅に指定した。
 以後、東海道は江戸と京を結ぶ最も重要な街道として、上り下りの大名行列や庶民にいたるまで、数多くの旅人が往来した。江戸後半には一般の人々の旅行も増大し、それにつれて各宿場の名所や行程などを記した名所絵図や道中記などが次々に刊行された。これらの需要もあって、浮世絵師たちも沿道の風景を画題として描くようになった。
 その風景画の中で最も著名なものが、初代歌川広重(1797~1858)の「保永堂版東海道五十三次」で、五十三の宿駅に日本橋と京を加えた55枚から構成され、四季折々の宿駅風景や人々の姿を描いている。天保4年(1833)から順次出版されたこのシリーズは爆発的な人気を得て広重の名声は一挙に高まり、以後他の絵師たちの描く東海道の風景画は、少なからず保永堂版の影響を受けているほどである。
 また、広重は行書版、隷書版、竪絵などの東海道物や、木曽街道五十九次、名所江戸百景などの名作を次々と発表して、風景画家の第一人者となるとともに、花鳥画や美人画などにも独自の境地を開き、その地位を不動のものとした。
 なお、この作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました。

「太岡寺畷橋」。左手が「鈴鹿川」。

    

 なお、当時の松並木はなくなった代わりに、桜並木が鈴鹿川左岸にあって桜の季節には大変な賑わいを見せるそうです。

      (HPより)

 のんびりと「鈴鹿川」沿いの道を進みます。前方にグループで歩く人達、振り返ると一人のんびりと歩く方・・・。
 道なりに右に曲がり、「関西本線」の踏切を渡って「国道1号線」に出ます。左手にある歩道橋で向こう側に行きます。

右手前方に「関宿」の看板。

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