桑名宿への行き方は、
・その名の通り、海上七里を船で行く←団体貸切らしく、金額は高い。
・「国道1号線」(江戸時代初期の海岸線)を行く。←基本:マイカー。
・「国道23号線」(江戸時代後期の海岸線)を行く。←基本:路線バス乗り継ぎ。
・「明治東海道」跡(明治初期の「東海道」。これは興味深い道筋だが)を行く。←途中経路が?
・「佐屋街道」(「七里の渡し」を経由しない陸路。これも興味深い)を行く。←資料不足。
・名古屋から鉄道で移動。
等の方法がある。この中で一番楽な方法「桑名まで名古屋駅から鉄道で移動」にした。
7月20日(祝)、21日(火)。亀山までは暑さとの闘い? だった。桑名到着は、9時20分少し前。東京~名古屋~桑名と新幹線、JR関西本線を乗り継いでの旅。
この時は、結局、暑さに参って、「石薬師」宿と「庄野」宿間は、断念。改めて8月18日(火)に再訪問するはめに。桑名から亀山まで3日がかりとなってしまった。そのへんの経緯は掲載した時の本文にある。
《42 桑名》(2015.7.31~掲載)
東京は梅雨明け、ここもまさに、猛暑。駅から「七里の渡し」跡まで約20分。強い日差しの下、もうすでに汗が噴き出すほど。
桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、江戸時代唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)であることから、七里の渡しと呼ばれた。七里の渡しはちょうど伊勢神宮の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風によってこの付近は甚大な被害を受け、七里の渡し跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡し跡の風景は、江戸時代と異なる。
大正期のようす(「同」HPより)。 現在のようす。
舟だまり。桑名城外堀。「七里の渡し」付近は、桑名城の「三の丸」。
「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」。
「船津屋」。旧本陣。
桑名宿は「船津屋」のもう少し北西にも広がっていた。
旧東海道のようす。
宿場町らしい建物は見当たらないが、歴史的建造物等については、解説板が設置されている。
「春日神社」青銅の鳥居。
この鳥居は、寛文7年(1667年)当時の藩主松平家重公の命を受け、御鋳物師 辻内善右衛門尉藤原種次により 鋳造されたもので、桑名の名物として今も昔を物語る。
その先の左手には「桑名城城壁」。
奥に見えるのが、城壁の一部。堀川には小型船がたくさん係留されている。
東海道五十三次をモチーフにして造られた「歴史を語る公園」の突き当たりを右折し、「桑名市博物館」を過ぎ、通りを渡った先で左折。桑名宿内の道標は間違うことがないよう、曲がり角や要所要所に立てられ、道も旧東海道が識別できるように色塗りされている。
指差し表示の道標。「右京いせ道」「左江戸道」。
街道筋らしい町並み。
「吉津屋見附跡」碑。
ここは四角形の三辺をまわる升形道路となっている。右折し、その先の角を左折、さらに左折し、写真正面の通りとなる。
いかにも棒鼻・曲尺手の名残のような道の先を右に曲がる。西側には神社・仏閣が軒を連ねている。しばらくそんな道を進み、通りを横断、広い通りに出て、「日進小学校」の先を右に入り、曲がってすぐの右手に、
「広瀬鋳物工場跡」碑。
足元のマンホールには、「七里の渡し」。
「矢田町」交差点で「国道1号線」を横断。
突き当たりの角に、 「火の見櫓」。「矢田立場」。
通り沿いにある交通安全標識「飛び出し」坊や。
かなり頻繁にお目にかかる。「東海道」を行き来する人にとっては目印的存在? 京都まで見かけることに。
炎天下をひたすら歩き、「国道285号線」をくぐる。
「玉喜亭」・安永の藤
その先の角には、「伊勢両国常夜燈」。
この常夜燈は、文政元年(1818年)に東海道のみちしるべとして、また伊勢神宮への祈願を込め、桑名・岐阜の材木商によって寄進されたもの。
突き当たりは「町屋川」の土手。そこに「東海道五十三次 町屋橋跡」の説明板。
対岸を望む。
桑名側を望む。正面の大きな木付近が旧街道。
「縄生一里塚跡」。日本橋から97里目。
そのまま進むと「伊勢朝日」駅。駅付近は、町の中心で、東海道五十三次沿いの小向立場のあったところで、焼き蛤の小向茶屋があった。宅地開発等で人口が急増している。
「東海道」の標識に沿って左に折れ、さえぎるものもない炎天下を進んでいくと、やがて正面に「伊勢湾岸自動車道」の高架が見えてくる。
「柿」交差点の手前右、「伊勢湾岸自動車道」沿いに、「多賀神社の常夜燈」。
高架下をくぐり、「朝明橋」を渡ると四日市市。「朝明川」。
「朝明橋」からは緩やかに右に曲りながら下って行く。暑い夏の昼下がり。人の姿もほとんど見かけない。
鏡ヶ池(笠取り池)跡。
近鉄のガードをくぐると、右手に「富田一里塚跡」碑。
八幡神社の力石。
「力石」が市内の数カ所に置かれている。
しばらく工場、倉庫街を進む。
「常夜燈」。比較的新しい。
左手に松の木が見えてくる。戦前まで、この付近には松並木があったが、現在はこの1本のみで、「河原津の松」と呼ばれている。説明板によると、樹齢200年ほど。現在、四日市市内で東海道に因む「松」が残っているのはここと日永のみだそうだ。
旧東海道らしい町並み。
左に折れて「国道1号線」に合流。「(日本橋から)393㎞」ポスト。
しばらく「国道1号線」に沿って進み、「三ツ谷」交差点を過ぎたら、「多度神社」への道を左斜めに入ると、突き当たりの土手のところに、
「三ツ谷の一里塚」。日本橋から99里目。
旧道には橋がないため、国道1号線の橋を渡り、すぐ左折する。
《43 四日市》(2015.8.09~掲載)
現在の四日市には、本陣、脇本陣、問屋場など宿場に必ず設けられていた施設跡のしっかりとした表示がない。先達の方々の記録などを参考にしたが、今一つはっきりしない。結局、ほとんど見逃してしまった。
「四日市」も町並みの変化(特に戦後の変化)が激しかった。東海道の「宿場」町というイメージはまったくなく、戦後、湾岸工業都市として大発展してきたことの証しでもある。
特に他の都市と同様、第二次大戦末期、米軍による激しい空襲で壊滅的状況になったことが大きい。
「東海道五十三次」を歩いていると、沼津、浜松、岡崎など、宿場町など多くの都市が空襲の大きな被害を受け、その後、官民の必死の努力によって見事復興を成し遂げている実態を肌で感じる。また戦後の区画整理、道路整備・拡幅、都市計画などによって、戦前、まして江戸時代の遺構がほとんど存在しない町も多くあることに気づかされる。
さっそく奇妙な人形がお出迎え。
これは、「四日市祭」の大入道のモニュメント。
「東海道五十三次之内 四日市 三重川 / 歌川 広重 (「知足美術館」HPより)
この絵は、現在の三滝橋付近を描いたとされている。
「大正期の四日市」(「同」より)
この先から四日市宿の問屋場や高札所、さらには本陣、脇本陣などの施設が置かれていた地域になる。
本陣の一つ(といわれる)「黒川本陣」跡。
宿内を振り返る。「清水本陣」はもう少し南側だったらしい。
広い通りを渡ると、交差点の角に道標。
「東海道」はこのまま諏訪神社方向に向かい、「みやまえ商店街」が旧道にあたる。
「商店街」南側。東海道は広い通りを越えて南に続く。
旧東海道はほぼ四日市あすなろう鉄道内部(うつぶ)線(あすなろう四日市駅~内部駅)に沿って南下していく。
近鉄名古屋線のガードをくぐり、古い町並みを進むと、
「鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」。
「鹿化橋」を渡ると、古い町並み。
「日永(ひなが)神社」の境内に、
「追分道標」。もともとこの先の追分の地に明暦2年(1656)に建てられていたもの。東海道中の最古の道標。
まもなく右手の建物と建物との間に石柱。「日永(ひなが)一里塚跡」碑。日本橋からちょうど100里目。
しばらく進むと、「東海道名残りの一本松」。
この辺りから泊の集落までは東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に大きな松の木が並んで植えられていた。その向こうには、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その蝿手に植えられていたものが残った貴重なもの。
縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9m)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5m)で、現在も変わっていない。
そこから来た道を振り返って望む。
「日永郷土資料館」の先で「国道1号線」と合流。
正面に「日永の追分」が見えてきた。
左が「国道1号線」(すぐ先で「伊勢街道」を分岐し、西へ向かう)、右が旧東海道(「追分」駅の先で県道と分かれて左に進む。)
左いせ参宮道 右京大坂道
「四日市あすなろう鉄道内部線」の線路を渡る。
「追分」駅。
「追分」駅の先を左折。住宅街の細い道を標識に従って進む。途中、右と左に大きく曲がり、「山中胃腸病院」の脇を通り、広い通りに出て左に進む。
左手奥に「内部」駅。内部線の終点。
右手の道が「旧東海道」。
ここからは、8月18日(火)に出かけた内容。「内部」駅からスタート。
旧東海道。
しばらく進むと、「内部川」にぶつかり、旧道は分断されるので、「国道1号線」の地下道を抜け、反対側に出て、「マックスバリュー」の先を左折する。
「杖衝坂」方向。
このおうちのところを左折。上り坂へ。
芭蕉句碑。「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」
この句は『笈の小文』にあり、
「・・・桑名より食はで来ぬれば」と云ふ日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。歩行ならば杖つき坂を落馬哉と、物うさのあまり云ひ出で侍れ共、終に季のことば入らず。・・・
「季語」の入っていない句としても有名。
「史蹟 杖衝坂」碑。
そこから振り返って「杖衝坂」を望む。
しばらく進んで、「国道1号線」に合流。「国道1号線」の向こう側に「采女一里塚」碑。
日本橋から101里目。 「国道1号線」では403㎞。
しかし、炎天下の国道歩きはきつい。しばらく行き、国道から左に分かれて進むと、のどかな道筋。車も人も通らない。
しばらくして再び「国道1号線」に合流。そこの案内図に従って地下道を通って向こう側に渡り終えて横断歩道を行くと、「石薬師宿」へ。
《44 石薬師》(2015.8.21~掲載)
「石薬師宿」の入口。
石薬師宿は、東海道五十三次の44番目の宿場で、元和2(1616)年に宿場となりました。それほど規模は大きくなかったようだ。
また、この地は歌人・文学者の佐佐木信綱、父弘綱の生誕の地でもあり、それに因んで「信綱かるた道」が街道に沿って掲示されている。
「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」。
「小澤本陣址」。
「石薬師小学校」のすぐ先が、建物や歌碑。
これのふぐら良(よ)き文庫(ふぐら)たれ故郷(ふるさと)の里人のために若人(わこうど)のために
「石薬師」では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで「卯の花の里づくり」に取り組んでいて、初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。
(「Wikipedia」より)
宿場名にもなった「石薬師寺」は、宿場の南端に当たるところ。道はだんだんと下って行く。
「瑠璃之橋」から右手「石薬師寺」方向。
もちろん旧東海道のここに橋はなかった。「国道1号線」建設で切り通しになったために、橋が架けられた。広重はこの橋の手前あたりを描いたのだろうか?
現在のようす。 大正期のようす(「知足美術館」HPより)
かつては、深い森に囲まれたところであったようだ。
宿内を振り返る。
しばらく進むと橋のたもとには、
「石薬師の一里塚」。
日本橋から102里目。
くたびれた やつが見つける 一里塚(江戸時代の川柳)
まさにこの川柳のようで、この木陰でしばし休息。照り返しの強い舗装道路を人っ子一人通らない道をひたすら歩いて来て、いささかくたびれた。
水分補給も食糧も、この先にもコンビニか自販機くらいはあるだろうと、都会的な安易な考え。これらの甘い考えが、後の辛い状況を生み出す。
「石薬師宿」方向を望む。
案内表示に従って関西本線のガードをくぐり、右に曲がる。
しばらく行くと、「国道1号線」の下をくぐり反対側に。そこからそれこそあぜ道のようなところを曲がって、「国道1号線」に再び合流。激しく行き過ぎる車を横目にひたすら国道を歩く。
「庄野町北」の交差点を右折し、その先を今度は左折。その角が、「庄野宿」の入口。12時10分頃。木陰も休むスペースもないので、そのまま進む。
《45 庄野宿》(2015.8.22~掲載)
解説板。庄野宿入口。
東海道五十三次之内 庄野 白雨 / 歌川 広重 (「知足美術館」HPより)
注:「白雨」=白く見える雨。ゆうだち。にわかあめ。
大正期のようす(「同」より)。 現在のようす。
しばらく進むと、左手に「庄野宿資料館」。これは助かった! 見学しながら休憩しようと。水分を補給し、昼飯でも食べながら・・・。ところが「休館日」。自販機も置いてない! 結局、この先、宿内の旧道には「自販機」は1台もない。
鈴鹿市指定建造物 旧小林家住宅・庄野宿資料館。
後から調べたら、当日のこの時間帯、この地域は快晴で、気温はすでに32度を越えていたらしい。日なたでは35度以上?
問屋場跡。
しばらく進むと右手に「庄野宿本陣跡」。
「高札場跡」。 「助郷会所」跡。
この付近になると、かなり暑さにまいってきた。せめて広重にあやかって、「白雨」に出くわしたい、と。
「東海道 庄野宿」碑。ここが京方の出入口?
真昼時。しばらくして「国道1号線」と合流する地点へ。のどはカラカラ、腹はペコペコ。ここまで、「石薬師一里塚」から約3㎞強。時間にして40分少し。人も車も通らない炎天下の歩き。すると、「国道1号線」のところに「サークルK」。助かった! 飲み物を購入して、一気飲み。ホッと一息。
複雑な交差点を渡って、旧道へ。ふと角にタイヤ屋さん。無理に頼んで店内に。お店の中に入ると、ひんやりと涼しい風。「冷たいお茶、差し上げますよ」・・・ゆっくりと休養でき、歩きを再開。
「従是東神戸領・これより東 神戸(かんべ)領」
「神戸藩」と「亀山藩」の境界標。
「中富田一里塚跡」碑。
「従是西亀山領 これより西 亀山領」。
かつてはそのまま「和泉橋」を渡ったが、下流に橋が移設されたため、「川俣神社」のところを左に折れて「和泉橋」を渡る。
橋を渡り終えたら右に下り、その先で左に折れ、「地福寺」を右手に見て、左に曲がる(このへんは分かりにくい)。「関西本線」の線路と遠くに「井田川」駅が見えてくる。
竹林が点在する旧道を振り返る。
JR「井田川」駅前。
時刻は、午後2時05分。、暑さは一段と。結局、ここでギブアップ。前回と同じ発車時間の名古屋行きで戻ってきた。車内の快適さはたとえようがありません。
注:21日の実際の経路は、亀山駅から井田川駅までだったが、京に向かう旅なので構成し直してある。所要時間は、約1時間40分(ほとんど高低差のない道のりですのでどちらからでも同じくらい)。
「井田川」駅からしばらく線路沿いの道を進み、「国道1号線」を越える。
歩道橋から見た上り方向。
渡り終えたら、左に折れる。
のどかな道筋を進むと、右手に「谷口法悦供養塔」。
まもなく左手には、和田の道標。
東海道分間延絵図(文化年間・19世紀初頭)には「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下より亀山藩領若松港へいたる重要な分岐点であった。東海道の在銘道標の中で最も古いものである。
すぐ左は「国道1号線」。
「和田」付近の家並み。
ここまで桑名宿からほぼ南(南西)に進んできた東海道がこの辺りからしばらくは西へ向かうようになる。関宿からは鈴鹿峠越えのため北へ向かう。
町並みを抜け、ゆるやかな上り坂になり、広い道路をしばらく行くと右手に「和田一里塚」(復元)。
しばらく広い道を進む。けっこう暑い。なかなか自販機が見つからず、やっと「ファミマ」でペットボトルを購入。
しばらく行くと、左手に「亀山ローソク」の工場。
あれ、聞いたことがある会社名。一般には亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、ろうそくの国内シェアは約5割を占める。社名は創業地・三重県亀山市に由来する。世界でも有数のキャンドルメーカーでもある。
《46 亀山》(2015.8.28~掲載)
いよいよ本格的に亀山宿内へ。「従是西亀山宿」。
「巡見道」(「東海道」と交差する北側)
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後の将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。巡見使はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し、中山道とつながる。
これまでの宿場町にもあったように、家々には「屋号」が掲示されている。
しばらく進むと、左手に「江戸口門跡」。
江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
枡形。右に折れて中心部に入る。
左からやって来て、右に曲がる。正面が「江戸口門」跡。
道路の反対側にある本陣跡や脇本陣跡の表示を見逃した。
「亀山城大手門跡」解説板。
「大手門」は、東海道に直面する亀山城の正門としてあった門。明治初頭に石垣にいたるまで破却されてしまった、そうだ。
古い家並み。
東海道の道筋には色が塗られている。
「屋号札」の掲示された家。
行く先表示板。広い道を下った右手に「亀山」駅。
西町問屋場跡
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