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沿道には立派な建物が続く。
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(9:57)右手に「旧稲葉家住宅」。
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稲葉家は、江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた家柄で、青梅でも有数の豪商でした。青梅街道に沿って、土蔵造り二階建ての主屋、棟割り長屋が並び、主屋の東側に井戸と、北側には土蔵があります。
間口5間半、奥行き7間の土蔵造りの主屋の表部分は、店舗として商業活動に充てられ、奥の部分は生活の場となっていました。
店舗部分は、間口いっぱいに土間を持つ前土間形式で、防火戸の収納部となる袖壁を左右にもつ一階部分と、土戸で守られた登り梁形式の二階部分からなっています。軒の低い登り梁形式から、江戸時代後期(18世紀後半)建築であると考えられています。
また土蔵は明治19年(1886)頃の建築、棟割り長屋・門・井戸屋方はその後の建築と考えられます。
(10:00)その先、森下陣屋の跡地に建つ熊野神社付近は宿場特有の枡形になっています。写真の左手の坂を下ると、「金剛寺」。金剛寺は、青梅の地名の元になった平将門ゆかりの梅の木で有名。
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森下陣屋跡
天正18年(1590)に家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
当地には、その出張所ともいうべき陣屋が青梅宿西端の森下に設けられ、大野善八郎尊長、鈴木孫右衛門らがその任にあたった。青梅陣屋の支配地域は、現在の八高線沿線から多摩川上流域にかけての三田領・加治領・高麗領・毛呂領にわたる範囲で、山の根2万5千石と称した。青梅(森下)陣屋は、延享元年(1744)頃に伊那平左衛門忠達の代で廃止された。
陣屋の敷地面積は、6千3百平方㍍程度と推定されるが、現在は、陣屋の敷地の鎮守と伝えられる熊野神社が祀られている。
江戸時代の青梅宿の成立と繁栄が偲ばれる貴重な旧跡である。
案内図。枡形がはっきりと分かります。
「青梅宿」を出て、一路、西へ。
(10:07)右手に「七兵衛公園」
実在した裏宿七兵衛の住居跡。入口の左に多数の石仏が。
裏宿七兵衛
むかし、 青梅の町はずれの裏宿に七兵衛という百姓が住んでいた。ひるまは、ふつうに百姓をしていたが、夜になると盗賊に変身した。七兵衛はまれにみる俊足で、いち夜に十数里を走ることができた。あまり足が速いので、笠を胸にあてて走っても落ちず、1反に布をひいて走っても端が地につかないほどだったという。ぬすんだ銭は、貧しい人に分け与えた義賊だったという。
だが、ついに捕らえられ、処刑された。笹ノ門でさらし首になったが、ある夜暴風雨になり、首は別当沢を流れて宗建寺の近くに着いた。そこで住職が手厚く葬った。
その後、七兵衛の屋敷跡では、ふしぎなことが次々におこった。七兵衛の畑を耕したり家を建てたりすると、病人・事故・事業の失敗など、悪いことばかり続く。ついに、だれも住む人がいなくなって、長いこと空地になっていた。(現在は七兵衛公園になっている)
また、青梅図書館のところも七兵衛の畑で、以前、郡役所が建てられたが、何回も悪いことがおこったので、敷地の一隅に地蔵堂が建てられた。
(「
青梅資料館」HPより)
このあたりが「裏宿町」。
「旧道」は多摩川に向かって下っていたようです。
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そこで、「天ヶ瀬通り」を下っていきますが、途中で道は途切れます。
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再び国道に戻って、「神明橋通り」を進みます。
のどかな通り。
左手下に集落があるので、旧道はそこを過ぎていたと思いますが、そこへの道路(降り口)を見失い、そのまま。
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(10:32)「神明橋通り」から国道を横切り、斜めの道に。
土蔵造り。右手奥に「青梅線」。
青梅線と国道との間の静かな道。
しばらくして国道に復帰します。
(10:43)JR「日向和田」駅。「梅一路 心の里 吉野梅郷」。
多摩川を越えた向こうに「吉野梅郷」があります。ずいぶん昔に来たことがあります。御岳山から日の出山を越えて・・・。見事な梅林が一面で、堪能した記憶が。
駅前の案内板。
かつては日の出山から伸びる丘陵と多摩川との間の長さ4kmほどの地域に25,000本の梅が植えられていました。
ところが、2009年4月に、植物防疫法の法令検疫対象のプラムポックスウイルスの感染が梅の木としては世界で初めて確認され、2014年4月4日から5月30日までの間に園内の梅1,266本を全て伐採することとなってしまいます。今後、梅を植樹するには、この伐採から3年間に付近で新たな感染が無いことが条件となっているようです。
2015年、梅の里再生を目指し、NPO法人「青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクト」が設立されました。
かつての全山梅林という景観を早く取り戻してもらいたいものです。
かつてのようす。
現在の公園マップ。
(
HPより)
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(9:57)右手に「旧稲葉家住宅」。
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稲葉家は、江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた家柄で、青梅でも有数の豪商でした。青梅街道に沿って、土蔵造り二階建ての主屋、棟割り長屋が並び、主屋の東側に井戸と、北側には土蔵があります。
間口5間半、奥行き7間の土蔵造りの主屋の表部分は、店舗として商業活動に充てられ、奥の部分は生活の場となっていました。
店舗部分は、間口いっぱいに土間を持つ前土間形式で、防火戸の収納部となる袖壁を左右にもつ一階部分と、土戸で守られた登り梁形式の二階部分からなっています。軒の低い登り梁形式から、江戸時代後期(18世紀後半)建築であると考えられています。
また土蔵は明治19年(1886)頃の建築、棟割り長屋・門・井戸屋方はその後の建築と考えられます。
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(10:00)その先、森下陣屋の跡地に建つ熊野神社付近は宿場特有の枡形になっています。写真の左手の坂を下ると、「金剛寺」。金剛寺は、青梅の地名の元になった平将門ゆかりの梅の木で有名。
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森下陣屋跡
天正18年(1590)に家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
当地には、その出張所ともいうべき陣屋が青梅宿西端の森下に設けられ、大野善八郎尊長、鈴木孫右衛門らがその任にあたった。青梅陣屋の支配地域は、現在の八高線沿線から多摩川上流域にかけての三田領・加治領・高麗領・毛呂領にわたる範囲で、山の根2万5千石と称した。青梅(森下)陣屋は、延享元年(1744)頃に伊那平左衛門忠達の代で廃止された。
陣屋の敷地面積は、6千3百平方㍍程度と推定されるが、現在は、陣屋の敷地の鎮守と伝えられる熊野神社が祀られている。
江戸時代の青梅宿の成立と繁栄が偲ばれる貴重な旧跡である。
案内図。枡形がはっきりと分かります。
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「青梅宿」を出て、一路、西へ。
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(10:07)右手に「七兵衛公園」
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実在した裏宿七兵衛の住居跡。入口の左に多数の石仏が。
裏宿七兵衛
むかし、 青梅の町はずれの裏宿に七兵衛という百姓が住んでいた。ひるまは、ふつうに百姓をしていたが、夜になると盗賊に変身した。七兵衛はまれにみる俊足で、いち夜に十数里を走ることができた。あまり足が速いので、笠を胸にあてて走っても落ちず、1反に布をひいて走っても端が地につかないほどだったという。ぬすんだ銭は、貧しい人に分け与えた義賊だったという。
だが、ついに捕らえられ、処刑された。笹ノ門でさらし首になったが、ある夜暴風雨になり、首は別当沢を流れて宗建寺の近くに着いた。そこで住職が手厚く葬った。
その後、七兵衛の屋敷跡では、ふしぎなことが次々におこった。七兵衛の畑を耕したり家を建てたりすると、病人・事故・事業の失敗など、悪いことばかり続く。ついに、だれも住む人がいなくなって、長いこと空地になっていた。(現在は七兵衛公園になっている)
また、青梅図書館のところも七兵衛の畑で、以前、郡役所が建てられたが、何回も悪いことがおこったので、敷地の一隅に地蔵堂が建てられた。
(「
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このあたりが「裏宿町」。
「旧道」は多摩川に向かって下っていたようです。
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そこで、「天ヶ瀬通り」を下っていきますが、途中で道は途切れます。
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再び国道に戻って、「神明橋通り」を進みます。
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左手下に集落があるので、旧道はそこを過ぎていたと思いますが、そこへの道路(降り口)を見失い、そのまま。
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(10:32)「神明橋通り」から国道を横切り、斜めの道に。
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土蔵造り。右手奥に「青梅線」。
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しばらくして国道に復帰します。
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(10:43)JR「日向和田」駅。「梅一路 心の里 吉野梅郷」。
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多摩川を越えた向こうに「吉野梅郷」があります。ずいぶん昔に来たことがあります。御岳山から日の出山を越えて・・・。見事な梅林が一面で、堪能した記憶が。
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かつては日の出山から伸びる丘陵と多摩川との間の長さ4kmほどの地域に25,000本の梅が植えられていました。
ところが、2009年4月に、植物防疫法の法令検疫対象のプラムポックスウイルスの感染が梅の木としては世界で初めて確認され、2014年4月4日から5月30日までの間に園内の梅1,266本を全て伐採することとなってしまいます。今後、梅を植樹するには、この伐採から3年間に付近で新たな感染が無いことが条件となっているようです。
2015年、梅の里再生を目指し、NPO法人「青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクト」が設立されました。
かつての全山梅林という景観を早く取り戻してもらいたいものです。
かつてのようす。
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現在の公園マップ。
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