おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

熊谷宿から本庄宿まで。その1。(旧中山道をゆく。第5日目。)

2016-01-29 20:06:07 | 旧中山道

 中山道の旅も5日目(+半日)。

 1月15日(金)。快晴。JR高崎線・熊谷駅に午前9時30分に到着。

 「八木橋百貨店」の中を通っている中山道。せっかくだからその道を通ってみることにしましたが、デパートの開店は午前10時なので、それに合わせて少し遅めに到着することに。
 それでもまだ時間があるようなので、前回のところから「星渓園」に回って見ることに。庭の方から入園しました。


熊谷市指定文化財 名勝 星渓園
 ここは、竹井澹如(たんじょ)翁のもと別荘で回遊式日本庭園です。池は「玉の池」と呼ばれ、星川の源流となっています。

 もう少し補足します。

 竹井澹如は、天保10年(1839)群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川家に生まれ、幼名を萬平と言い幽谷と号しました。明治12年(1879)初代の県議会議長となり、政府の要職をすすめられたが、始終一貫、熊谷地方のために貢献しました。
 熊谷県庁の誘致・旧熊谷堤の修築と桜の植樹・養蚕業の振興・私立中学校(セキテイ学社)の創設などの偉業を残し、大正元年(1912)8月74歳で永眠されました。
 元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。澹如翁が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園としました。
 昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師が、「星溪園」と命名しました。昭和25年に熊谷市が譲り受け、昭和29年に市の名勝として指定されました。
 平成2年から4年にかけて園内の整備が行われた際には、老朽化の見られた建物は数奇屋感覚が取り入れた上で復元されました。園内には、星溪寮、松風庵、積翠閣の3つの建物があり、お茶会などの日本的文化教養の場として、利用できます。

HPより)

「玉の池」。

    
                                        落ち着いた雰囲気の建物。

 「八木橋百貨店」の右奥(北東側)にあるのが、熊谷次郎直実ゆかりの「熊谷寺(ゆうこくじ)」。このお寺の見学は事前予約制のようです。

     

 当地は平安時代末から鎌倉時代初期の武士熊谷直実の出身地であり、出家後の直実が蓮生法師として往生した場所と伝えられている。直実は建久4年(1193年)頃出家して法力房蓮生と称した。その後、関東に帰った時、熊谷館の一郭に庵を結んで僧俗に開放して教えを説いたと言う。なお、『新編武蔵風土記稿』によれば文禄4年(1595年)に中山道を付け替えた際に熊谷寺の裏手(北側)にあった街道を現在の形にした(南側)に移したとする記述があり、この時に熊谷寺はかつての館の堀ノ内から切り離されたと言う。
 熊谷寺は、その庵の跡に智誉幡随意白道上人が、天正19年(1591年)に建立したものと言われている。

 熊谷次郎直実は源氏方の勇猛果敢な武士の一人。『平家物語』《一の谷の合戦・敦盛最期》の段が知られています。

 いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたう(ツ)たる甲の緒(を)しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓も(ツ)て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいての(ツ)たる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざ(ツ)とうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵(かたき)にうしろをみせさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてと(ツ)てかへす。
 汀にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、と(ツ)ておさへて頸をかゝんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしやうしてかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて容顔まことに美麗也ければ、いづくに刀を立(たつ)べしともおぼえず。「抑いかなる人にてましまし候ぞ。なのらせ給へ、たすけまいらせん」と申せば、「汝はたそ」ととひ給ふ。
 「物そのもので候はね共、武蔵国住人、熊谷次郎直実と名のり申。「さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をと(ツ)て人にとへ。みしらふずるぞ」とぞの給ひける。熊谷「あ(ツ)ぱれ大將軍や、此人一人うちたてまたり共、まくべきいくさに勝つべき様もなし。又うちたてまつらず共、勝つべきいくさにまくることよもあらじ。小次郎がうす手負たるをだに、直実は心ぐるしうこそおもふに、此殿の父、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけたてまつらばや」と思ひて、うしろをき(ツ)とみければ、土肥・梶原五十騎ばかりでつゞいたり。熊谷涙をおさへて申けるは、「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵、雲霞の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「たゞとくとく頸をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりにいとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、めもくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞかいて(ン)げる。
 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何)とてかゝるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣きゐたる。良(やゝ)久うあ(ツ)て、さてもあるべきならねば、よろい直垂をと(ツ)て、頸をつゝまんとしけるに、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさゝれたる。「あないとおし、この暁城のうちにて管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時みかたに東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上は猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、是をみる人涙をながさずといふ事なし。後にきけば、修理大夫経盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷涙が発心のおもひはすゝみけれ。
 件(くだん)の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによ(ツ)て、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。狂言綺語のことはりといひながら、遂に讚仏乗の因となるこそ哀れなれ。

    
 平敦盛。                    熊谷直実

 このいくさが機縁となって仏門に入った、と伝えられます。

 そろそろ10時になります。
デパートの入口のところにある「旧中山道跡」碑。

 そのそばに宮澤賢治の歌碑があります。
      
            「熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ」
    
            「武蔵の国 熊谷宿に蠍座の 淡々ひかりぬ 九月の二日」

 碑の解説によれば、大正5年(1916)9月2日、宮沢賢治が盛岡高等農林2年の時、秩父地方の土性地質調査の途中、熊谷に宿泊して詠んだ歌、とあります。 

(10:05)開店したばかりの店内に。

旧中山道。店内。

反対側の出口。      

 デパートを抜けて、「一番街商店街」の道を進みます。
                         

旧街道筋らしいお店も。 
(10:15)商店街を抜けて「国道17号線」に合流します。 

 「石原1丁目歩道橋」を渡り、「日産サティオ」裏手の公園に向かいます。
(10:22)「かめの道」。

 1983(昭和58)に廃止された「東武鉄道熊谷線」の敷地跡に作られた公園。廃止前の列車が愛称「カメ号」と呼ばれ、親しまれていたことから、公園にこの名前がついたようです。

その一画に道標が3つ並んでいます。

    
                    埼玉県指定史跡 秩父道志るべ
 室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は、江戸時代に入ると盛んになり、最盛期には秩父盆地を訪れる巡礼の数は数万人に達した。江戸からの順路の一つとしてこの地、石原村で中山道から分かれて、寄居、金伏峠、三次を経由する秩父道があった。これはその分岐点を示す道しるべである。創建当時は東へ約50㍍のところにあったが、平成16年9月に現在地に移設された。

 右から 

「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」

「秩父観音順礼道 一ばん四万部寺へ たいらみち十一里」

「ちゝぶ道 志まぶへ十一り 石原村」

と刻まれています。 

 ちなみに「東武鉄道熊谷線」は熊谷駅と妻沼駅とを結ぶ約10㎞の鉄道でした。その跡地は、遊歩道や道路となっているようです。所々に痕跡は残っているのでしょうか?
「国道17号線」を越えて続く「かめの道」。

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