6月4日(土)。晴れ後薄曇り。
今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。
(8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。
この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。
日光街道古河宿道標
この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。
「よこまち柳通り」。
この沿道には古いおうちがいくつかあります。
「大和屋薬局」。
旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。
(9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。
(9:37)「東京から64㎞」ポスト。
(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。
向かいには「馬頭観音」石碑。
沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。
「野木宿道標」。
栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。
(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。
(10:08)かつてはこの付近も松並木が続いていました。
「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。
(10:28)「松原大橋」から。下流方向。
旧道に戻ってしばらく行くと、
栗林。
「馬頭観音」石碑。
立派な長屋門を持つおうち。
「東京から68㎞」ポスト。
「馬頭観音」石碑。
(10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり
法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。
(11:03)しばらく進むと、「小山市」に。
「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。
(11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」?
この付近の地名は「乙女」。
・『乙女の里物語』 pp.21~22に、乙女の由来の記述があった。明治44年(1911)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書p.22には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳4年(1332)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
・『とちぎの地名』 p.50に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。
(以上、HPより)
「東京から70㎞」ポスト。
そろそろお腹が空いてきます。「間々田駅」入口交差点、左手の角にお蕎麦屋「小川庵」。
(12:09)表示も「宇都宮36㎞ 那須高原92㎞ 福島202㎞」
右手に「車屋美術館」。古民家と蔵。
「小川家住宅」。堂々たるおうち。国の登録有形文化財。
小川家の屋号が「車屋」だったそうです。
平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館しました。
↓が「逢いの榎」碑があるところ。残念! 見逃しました。
現在、「逢いの榎」碑はこうなっているようですが。
(HPより拝借)。
「間々田宿」は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里という中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていました。「間々田宿」の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、いつの頃からか「逢いの榎」と呼ばれるようになりました。
「旧東海道」では「袋井宿」がど真ん中。「ど真ん中茶屋」とか「ど真ん中小学校」がありました。
蔵造りの古いおうちも残っています。
間々田宿問屋場跡
間々田宿本陣跡
間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
天保14年(1843)の記録によると当宿は
石高 944 家数 175軒
人口 947人 旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めにより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。
11番目ということは、「東海道」では「三島宿」にあたります。やっと箱根峠を越えたところ。「日光道中」はそうした峠道もなく、ここで行程の半分になりました。
400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、
さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。
(13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。
お店に入って3種類を試飲。
「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!
右手には「新幹線」。
「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。
来た道を振り返って望む。
(13:53)「神鳥谷東」立体交差点。右手に新幹線。
街道筋らしいおうちもちらほら。
(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。奥に煉瓦煙突。
『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)
小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。
古河宿のように、電柱のないすっきりした「小山宿通り」。
(14:10)「須賀神社」参道。
「日光街道 小山宿 開運のまち」。
小山宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。
小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。
明治天皇小山行在所跡
(14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。
(14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。
けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。
再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。
(15:07)「第一奥州街道踏切」。
(15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。
この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。
(15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。
今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。
(15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。
旧道の右手側の空き地にも盛り土が。
「一里塚」跡?
特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。
旧道はJR線に阻まれます。高架は新幹線。
高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。
「海道間第二公園」。「海道」は「奥州街道」の古い言い方。
高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか?
その先、斜め左に入る道が旧道です。
「国道4号線」に合流します。
合流した先が「新田宿」になります。
新田宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。
「新田宿」に入ると、沿道のおうちには、かつての屋号が掲示されています。ただし、当時の道幅より広く整備されていますので、その位置にあったかどうかは定かではありません。しかし、宿場町であったことをこういう形で残しているのはいいことだと思います。
(16:17)左手に「新田宿本陣」跡。木の門があります。
(16:20)「東京から84㎞」ポスト。
(16:25)さて、その先、「銅市金属工業」の角を左折してすぐ右折。ここからが旧道の道筋になります。
この先、旧道は現在の国道4号線の西側を進んでいました。
歩道と車道とが区別された道を進みます。
最近整備された遊歩道のような印象。振り返って望む。
(16:37)そのまま進むと、雑草の生い茂ったところで行き止まり。しかたなく空き地を通って国道に戻ります。
国道から再度左に入って先ほどの道(旧道)に復活するということもできますが、そろそろ疲れてきたので、そのまま、国道4号線を歩きます。
小金井駅入口交差点。
(16:51)振り返って望む。
今回は、ここまで。次回は、歩き損ねた旧道から再開の予定。
駅前にある動輪のモニュメント。
今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。
(8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。
この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。
日光街道古河宿道標
この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。
「よこまち柳通り」。
この沿道には古いおうちがいくつかあります。
「大和屋薬局」。
旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。
(9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。
(9:37)「東京から64㎞」ポスト。
(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。
向かいには「馬頭観音」石碑。
沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。
「野木宿道標」。
栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。
(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。
(10:08)かつてはこの付近も松並木が続いていました。
「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。
(10:28)「松原大橋」から。下流方向。
旧道に戻ってしばらく行くと、
栗林。
「馬頭観音」石碑。
立派な長屋門を持つおうち。
「東京から68㎞」ポスト。
「馬頭観音」石碑。
(10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり
法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。
(11:03)しばらく進むと、「小山市」に。
「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。
(11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」?
この付近の地名は「乙女」。
・『乙女の里物語』 pp.21~22に、乙女の由来の記述があった。明治44年(1911)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書p.22には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳4年(1332)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
・『とちぎの地名』 p.50に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。
(以上、HPより)
「東京から70㎞」ポスト。
そろそろお腹が空いてきます。「間々田駅」入口交差点、左手の角にお蕎麦屋「小川庵」。
(12:09)表示も「宇都宮36㎞ 那須高原92㎞ 福島202㎞」
右手に「車屋美術館」。古民家と蔵。
「小川家住宅」。堂々たるおうち。国の登録有形文化財。
小川家の屋号が「車屋」だったそうです。
平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館しました。
↓が「逢いの榎」碑があるところ。残念! 見逃しました。
現在、「逢いの榎」碑はこうなっているようですが。
(HPより拝借)。
「間々田宿」は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里という中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていました。「間々田宿」の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、いつの頃からか「逢いの榎」と呼ばれるようになりました。
「旧東海道」では「袋井宿」がど真ん中。「ど真ん中茶屋」とか「ど真ん中小学校」がありました。
蔵造りの古いおうちも残っています。
間々田宿問屋場跡
間々田宿本陣跡
間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
天保14年(1843)の記録によると当宿は
石高 944 家数 175軒
人口 947人 旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めにより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。
11番目ということは、「東海道」では「三島宿」にあたります。やっと箱根峠を越えたところ。「日光道中」はそうした峠道もなく、ここで行程の半分になりました。
400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、
さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。
(13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。
お店に入って3種類を試飲。
「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!
右手には「新幹線」。
「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。
来た道を振り返って望む。
(13:53)「神鳥谷東」立体交差点。右手に新幹線。
街道筋らしいおうちもちらほら。
(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。奥に煉瓦煙突。
『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)
小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。
古河宿のように、電柱のないすっきりした「小山宿通り」。
(14:10)「須賀神社」参道。
「日光街道 小山宿 開運のまち」。
小山宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。
小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。
明治天皇小山行在所跡
(14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。
(14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。
けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。
再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。
(15:07)「第一奥州街道踏切」。
(15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。
この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。
(15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。
今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。
(15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。
旧道の右手側の空き地にも盛り土が。
「一里塚」跡?
特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。
旧道はJR線に阻まれます。高架は新幹線。
高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。
「海道間第二公園」。「海道」は「奥州街道」の古い言い方。
高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか?
その先、斜め左に入る道が旧道です。
「国道4号線」に合流します。
合流した先が「新田宿」になります。
新田宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。
「新田宿」に入ると、沿道のおうちには、かつての屋号が掲示されています。ただし、当時の道幅より広く整備されていますので、その位置にあったかどうかは定かではありません。しかし、宿場町であったことをこういう形で残しているのはいいことだと思います。
(16:17)左手に「新田宿本陣」跡。木の門があります。
(16:20)「東京から84㎞」ポスト。
(16:25)さて、その先、「銅市金属工業」の角を左折してすぐ右折。ここからが旧道の道筋になります。
この先、旧道は現在の国道4号線の西側を進んでいました。
歩道と車道とが区別された道を進みます。
最近整備された遊歩道のような印象。振り返って望む。
(16:37)そのまま進むと、雑草の生い茂ったところで行き止まり。しかたなく空き地を通って国道に戻ります。
国道から再度左に入って先ほどの道(旧道)に復活するということもできますが、そろそろ疲れてきたので、そのまま、国道4号線を歩きます。
小金井駅入口交差点。
(16:51)振り返って望む。
今回は、ここまで。次回は、歩き損ねた旧道から再開の予定。
駅前にある動輪のモニュメント。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます