「市ヶ谷」駅から「靖国通り」に出て、右手。三菱UFJ銀行の脇を緩やかに上る坂が「帯坂」。
「帯坂」。
この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。
怪談『番町皿屋敷』
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。
承応2年(1653年)正月2日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず、了誉上人は250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった、というようにまったくの史実ではないという。
が、東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られ、東海道・平塚宿にもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。
(以上、「Wikipedia」参照)
以前、「平塚宿」を通ったときの記録。
「お菊塚」。平塚駅近くの「紅谷町公園」の一画にある。
説明板。
番町皿屋敷・お菊塚
伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
平塚市観光協会
お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。
(2014・9・27記)
「帯坂」。短くゆるやかな坂で、気づかずに通り過ぎてしまいそうな坂。両側は「ゼンセン会館」「自動車会館ビル」「日本棋院」などの建物が連なり、人の行き来も激しい通り。
○が「帯坂」。
「靖国通り」を「九段下」方向に進みます。
途中に設置された「解説板」。
現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。
この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。
関東大震災以前は今よりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。
また、坂上にある靖国神社は、新宿から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。
九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町とよばれていたのもそのためです。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
中央の坂が「九段坂」。等高線が続き、かなり長く続く急坂であったことが分かります。当時から道幅は広かったようです。
「今昔マップ」によれば、神保町付近の標高は1~2㍍、九段坂上では25~26㍍と表示されています。
「九段坂上」交差点から。左手が「靖国神社」。
坂を下っていきます。
解説板。
「坂の多い東京の中でも九段の坂は霞んで見えるほど長かった」(『明治東京名所図会』)というかつての九段坂は、また現在とは比較にならぬほど勾配もきつかったという。
関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し傾斜をゆるくする工事が行われ、市電(都電)が坂の中央に設置された。現在は靖国通りの一部として車の往来が激しい。
坂下の田安門近くには、常燈明台(正式には高燈籠)という燈台がある。かつては坂上の靖国神社前にあったこの燈台の灯は、品川沖の舟ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという。
「歩道橋」から坂上を望む。 坂下を望む。
「靖国神社」の石垣。何層にもなっている。
この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。「新撰東京名所図会」には"九段坂は富士見町の通りより飯田町に下る長坂をいう。むかし、御用屋敷の長屋九段に立し故、これを九段長屋といいしより此坂をば九段坂といいしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして且つ急峻なりし故車馬は通すことなかりし"とかかれています。坂上は観月の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。
月末の26日というと、下弦の月もそうとうの下弦。月の出は真夜中過ぎ。そんな時刻まで待っているとは何と風流な人士達と思います。
お堀の蓮。
「九段下」付近から。右手奥に靖国神社の大鳥居。
「九段会館」。
九段会館(くだんかいかん)
旧称は軍人会館(ぐんじんかいかん)。
二・二六事件では戒厳司令部が置かれた。ホールやレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式、各種公演、会議、試写会などに使用されていたが、2011年(平成23年) 3月11日 東京観光専門学校の卒業式の最中に東日本大震災が発生し、天井仕上げ材の一部崩落で2名が死亡、26名の重軽傷者が出た。
この事故を受け、経営主体であった「日本遺族会」は会館の営業を終了し、建物を国に返還することになり、2014年に老朽化のため取り壊されることが決定した。
「大震災」当日、そんな事故があったことも知らず、新宿から徒歩で帰宅中に、ここを通りかかったのです。
「俎橋」からの日本橋川。
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