東日本大震災。3月11日で丸2年。震災での犠牲者の3回忌法要も行われる。この2年、早いと感じるのか、長く感じるのか。やっと機会を得て、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来た。
東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを。
同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
震災の直後、山形の知人の元に行ったときの話でも、電気が止まり、こたつ、ファンヒーターなどの暖房器具が使用できない、幸い物置に昔ながらの古いストーブがあったので助かった、ないところは大変だった、と。それを思い出す。電化製品どっぷりの生活、都会でも同様になるはず。
内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。
お寺に立ち寄ることにしたが、震災後、街道沿いから左に曲がって上っていく、その角が分からくなり、道に迷ったこともあった、と。目印の建物がすっかり津波で流され、跡形もなくなっていたので・・・。今、土台も片付けられ、更地のまま。そこはお店をやっていたが、一家3人とも皆、犠牲になった、と。
お寺はその家の裏手、ちょっとした高台にある。どうして裏手の方に逃げなかったのかな? 津波の情報が正確に伝わっていない、電気が止まってラジオを聞けず、携帯も電池切れ、そういう方が多かった。それに二日前にもあった大きい揺れの時、津波の予報よりも低かった、だから今度もたいしたことがない、と。結果、その付近はすべて全滅! 死者・行方不明者も、大勢。かえって東京などの方がTV情報が的確だった、現地はまったくの無情報状態だった、と。
そういえば、福島原発事故でも同じような状況が。的確な情報も伝わらないまま、高濃度の放射能汚染に晒された・・・。
お寺のある高台から。すっかり更地に。直後の映像、写真ではびっしり建物、船が流され、散乱していた場所。気仙沼線「松岩駅」西方。線路も完全に消失している。
右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。
左奥遠くが、気仙沼湾。内陸の奥まで遡上してきたことが知れる。
お寺のご住職からいただいた当時の記録写真集。
震災直後の松岩地区(「写真集」より)。
気仙沼港。衝撃で曲がったままの鉄柱。遊覧船の船着き場付近。
(「写真集」より)
魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。
まだまだ手つかずの状態。
魚市場のようす。
土台のコンクリートを残すのみ。
仮設の建物がちらほらあるだけ。我が家のの近所でこうした土台があると、いよいよここに家が建つ。ここが玄関で、このあたりが風呂場か、などと夢がある。しかし、ここではそうした生活の跡しか残っていない。この落差・衝撃は大きい。
大きな施設があったのだろう、更地になっていた。
頑丈な汐留め用の扉が根こそぎ奪われ、支柱が曲がったまま。
注:冒頭の写真。奥に見えるのが「大島」。港から船で30分かかるとのこと。ここの出身の方とも話を聞く機会があった。
東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを。
同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
震災の直後、山形の知人の元に行ったときの話でも、電気が止まり、こたつ、ファンヒーターなどの暖房器具が使用できない、幸い物置に昔ながらの古いストーブがあったので助かった、ないところは大変だった、と。それを思い出す。電化製品どっぷりの生活、都会でも同様になるはず。
内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。
お寺に立ち寄ることにしたが、震災後、街道沿いから左に曲がって上っていく、その角が分からくなり、道に迷ったこともあった、と。目印の建物がすっかり津波で流され、跡形もなくなっていたので・・・。今、土台も片付けられ、更地のまま。そこはお店をやっていたが、一家3人とも皆、犠牲になった、と。
お寺はその家の裏手、ちょっとした高台にある。どうして裏手の方に逃げなかったのかな? 津波の情報が正確に伝わっていない、電気が止まってラジオを聞けず、携帯も電池切れ、そういう方が多かった。それに二日前にもあった大きい揺れの時、津波の予報よりも低かった、だから今度もたいしたことがない、と。結果、その付近はすべて全滅! 死者・行方不明者も、大勢。かえって東京などの方がTV情報が的確だった、現地はまったくの無情報状態だった、と。
そういえば、福島原発事故でも同じような状況が。的確な情報も伝わらないまま、高濃度の放射能汚染に晒された・・・。
お寺のある高台から。すっかり更地に。直後の映像、写真ではびっしり建物、船が流され、散乱していた場所。気仙沼線「松岩駅」西方。線路も完全に消失している。
右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。
左奥遠くが、気仙沼湾。内陸の奥まで遡上してきたことが知れる。
お寺のご住職からいただいた当時の記録写真集。
震災直後の松岩地区(「写真集」より)。
気仙沼港。衝撃で曲がったままの鉄柱。遊覧船の船着き場付近。
(「写真集」より)
魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。
まだまだ手つかずの状態。
魚市場のようす。
土台のコンクリートを残すのみ。
仮設の建物がちらほらあるだけ。我が家のの近所でこうした土台があると、いよいよここに家が建つ。ここが玄関で、このあたりが風呂場か、などと夢がある。しかし、ここではそうした生活の跡しか残っていない。この落差・衝撃は大きい。
大きな施設があったのだろう、更地になっていた。
頑丈な汐留め用の扉が根こそぎ奪われ、支柱が曲がったまま。
注:冒頭の写真。奥に見えるのが「大島」。港から船で30分かかるとのこと。ここの出身の方とも話を聞く機会があった。
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